第175話 氷花



 突如通りに現れた灰色の青年。

 ランド・タールが探している義弟というその男は、ぐるりと周囲を見回す。

 彼の視線は兄を通り過ぎ、鉄刃に庇われるサァリの上で止まった。

「しらつき、よ」

「またそれですか」

 古き呼び名に、サァリは目に見えて顔を顰める。

 睦言における呼び名を、そうぽんぽんと他人に呼ばれて嬉しいはずがない。

 本来であれば、彼女をそう呼べるのはただ一人だけなのだ。

 もっともその一人は彼女のことを巫名で呼ぶか「巫」と呼ぶかのどちらかだ。

 出会った時からまったく変わらない。そういうところで距離感の変化を見せてくる相手ではないのだ。彼にその手の器用さはないし、呼び名で親しさを出そうという発想自体がきっとない。

 そんなところもサァリが彼のことを好きな理由の一つなのだが、今問題なのは、慮外者が自分に呼びかけたという点だ。

 若き神は顔を斜めにして青年を見る。

「死んだはずのお方が、この街に何の御用でございましょう」

「――トレワ、お前一人か?」

 サァリの言葉に被せてそう問うたのは、ランド・タールだ。

 死人の青年は虚ろな目を大柄な男へと移す。

「……兄上」

「あの女はどこにいる。お前をそんな姿にした女は」

 ランド・タールの声音には、抑えようともしない怒りが溢れていた。

 それは死んだはずの家族の名誉を穢す人外へのものなのか。

 ランド・タールは己の大剣を握り直す。サァリはその間にそっと辺りの様子を窺った。


 ――死人を起き上がらせる。

 そんなことができる者は尋常な存在ではない。だがサァリは既にそれができる存在を知っている。

 隣国の王女を蘇らせた「灰」。

 タール家にいたのも、きっとそれと同じだ。ずいぶん前に外洋国から連れ帰って離れに軟禁していたというのだから、同種の生き物だろう。


 その「灰」は、今どこにいるのか。近くにいるとしたら捕らえるか滅するかしたい。

 サァリは平然とした表情を保ちつつ戦意をよぎらせる。


 トレワ・タールは、感情のない目で兄に返した。

「彼女は……兄上の敵ではない」

「我が家の墓を荒らしただけで充分だ。何故お前はあの得体の知れない女を庇う? そんな姿にされて憤るのが戦士たる者だろうが」

「彼女には、力が必要だ」

「お前がその力になるというのか? 分を弁えろ、お前は死人だ」

 残酷なほどきっぱりとした断言。

 死した身内に向けるものとは思えない言葉は同時に、力の行使をも伴っていた。

 抜かれたままの大剣を振りかぶって、ランド・タールは跳躍する。大柄な体には似つかわしくないほどの俊敏さで、男は義弟の頭へ厚刃を振り下ろした。


 けれど、その刃が頭蓋を叩き割るより早く、トレワは右に跳ぶ。ランド・タールの声が飛んだ。

「小娘! 約束を忘れたか!」

「約束しておりませんよ」

 サァリが受けた要請は「死人を操る人外を、ランド・タールに縫い付けること」だ。死人自体をどうこうしろとは言われていない。そう冷ややかに返しながら、けれどサァリは右手を挙げた。

「暴れるのなら、よそでおやりなさい」

 タール家の兄弟にも軟禁されていた人外にも思うところはないが、アイリーデを荒らされるなら別だ。

 サァリは兄の剣を避け続けるトレワ・タールに指先を向ける。狙いを定めながら、隣の鉄刃に囁いた。

「できれば殺させないようにしてください。裏にいる人外を捕えたいです」

「分かった」

「あ、でもあなたの安全の方が大事なので、身に危険が及ばない範囲でお願いします」

 街の住人に被害を出す気はないのだ。それくらいなら、ここでトレワを滅し、灰は灰で見つけ次第殺す。目の前に現れた分から始末していくだけだ。

 ただ巨体の化生斬りはそれを聞いて、珍しく口元で微笑んだ。

「心配無用だ、巫よ」

 鉄刃が前に出る。

 大きな背中を見ながらサァリはふっと目を閉じた。ほんの一瞬、力を指先に集中させる。


「――縛」


 白い飛沫を上げながら、神の力がトレワの足を狙って放たれる。死人の青年はそれに気づいて更に大きく跳んだが、飛沫は弧を描いて青年を追尾した。光は青年の左膝に当たり、体勢を崩させる。

 そこにランド・タールの振るう刃が追いついてきた。

 微塵の迷いもなく首を刎ねようと薙がれる刃。

 だがトレワは暴力そのものの刃を一瞥すると、何も持っていない左手で刃の腹を殴りつける。音もなく厚刃は上に弾かれ、勢いのまま空を切った。

 サァリは呑気な声を上げる。

「わ、普通の刃だとああなるんだ」

 化生斬りたちが持つ刀は、精錬時に炉に麦穂をくべて加護を込めた特製のものだ。

 サァリにとってはそちらの方が当たり前のため、普通の刀で人外を斬るとどうなるのか知らなかったが、少なくとも刃の腹に触れて払うほどのことはできるらしい。

 トレワのそんな動きは、武門タール家の人間とあって鍛えられたものだ。ならば――今しばらく殺されずに粘ってくれるかもしれない。


 サァリは白い両手の間に、一輪の氷の花を生む。

 そしてそれを、無造作に地面に放った。

 氷の花はたちまち触れた地面を凍らせると、凍てつく範囲を広げていく。トレワの方へ、ぴきぴきと音を立てて根のように伸びていった。

 それと並走するようにして距離を詰める鉄刃は、ランド・タールとは逆方向から青年に迫る。

 鉄刃がトレワ・タールの左腿目がけて刀を突きこむ。氷の根がトレワの足元に達した。

 

 けれどその全てを、死人の青年は上に大きく跳んで避ける。

 

 人外でなければ為せない跳躍力は、アイリーデの化生に多く見られるものだ。

 サァリは久しぶりに目の当たりにするそれに感嘆の声を上げ――だがトレワの動きはそこで終わらなかった。

 鉄刃の肩を蹴り、死人の青年は宙を駆ける。

 彼の見据える先にいるのはサァリだ。

「しらつき、よ」

 彼女の目前に迫ろうとする刃を、サァリは身じろぎもせず見つめる。

 泰然と美しく。

 何に退くこともなく。

 それができるのは、「彼」がいるからだ。


 キン、と軽い音が響く。

 それだけの音しかしなかったのは、彼の技量が卓越しているが故だろう。

 トレワの振るった直剣は、刃の半ばで斬られて宙に舞う。

 サァリの前にはいつの間にか、それを為した青年が立っていた。


「お前も死人か」

 言い放った声は静かなものであったが、抑えきれぬ殺意が揺らいでいた。

 サァリは夫の背を見上げる。

「どうして気づいたの?」

「巫がよその客に絡まれていると街の人間が教えてくれた」

「あー」

 サァリがランド・タールと一触即発になったところを、密かに見ていた人間がいたのだろう。そしてサァリの夫であるシシュを呼びに行ってくれた。まさしくこの街は彼ら夫婦を守るように動いてくれている。ありがたい話だ。

 シシュは手にした刀を軽く払う。ウェリローシアの紋が入った一振りは神の刀だ。

 跳び下がったトレワに、シシュは問う。

「よその街の死人が、何のつもりだ?」

「……白月には、不可侵を、お願いする」

「無理だ。お前は巫に刃を向けた」

「あーあ」

 サァリは軽い声を上げる。

 彼女に刃を向けたこと自体が致命的なわけではない。それをシシュに見られてしまったことが致命的だ。ここで変に口を挟んでも事態を悪化させるだけと学習したサァリは口を噤む。


 トレワは虚ろを思わせる目で周囲を見回した。

 現状、兄であるランド・タールと鉄刃、そしてシシュに包囲されている。

 トレワはこの状況で勝ち目はないと悟ったのか、不意に地面を蹴った。人ならざる身体能力で近くの二階家の屋根に飛び乗る。彼はそこからサァリを見下ろした。

「少し、この街で力を借り受けたいだけだ。そちらの邪魔はしない。ここにいることを見過ごしてくれればいい」

「力? 私のですか?」

「違う」

 トレワはそこで視線を兄へと転じる。感情のないはずの目が兄を捉えた。

「兄上……もう追わないでくれ」

 ぽつりと、子供を諭すような言葉。

 それを聞いたランド・タールの顔に怒気が宿る。けれど死人の青年はそれ以上何も言うことなく屋根の向こうへ飛び降りて消えた。

 ランド・タールは激しく舌打ちすると、止める間もなくその後を追って通りの向こうに消える。


 残された三人は顔を見合わせた。サァリが頬に手を当てる。

「これは、対処に困りますね……」

 トレワ・タールも元が生きていた人間とあって、化生より目的意識と計算が高く働くようだ。サァリはほう、と息をつく。

 いつの間にか日は暮れて、空には丸みを帯びた月が登っていた。


                 ※


 通常、通報があった化生が斬られるまでは、長くても三日だ。

 それだけあれば大抵の化生は見つかって斬り捨てられる。

 だがそれも「赤い目」という特徴があるからで――普通の死人なら見つけ出すのには苦労するのではないか、とサァリは危惧する。

「けど、不可侵にしろ、ってどの面下げて言ってるんだろ。五尊ってみんなそうなのかな」

 夜も更けた深夜、月白の離れにある私室に戻ったサァリは、着替え用の衝立の奥で頬を膨らませる。

 それを聞いているのは見回りから戻ってきた彼女の夫だ。机に向かっていたシシュはペンを握る手を止めると言った。

「……今回は、白羽がこの街に来た一件と関連しているのだと思う」

「白羽の?」

「あの時も言われただろう、『不可侵にしろ』と」

 言われてサァリは思い起こす。

 確かにアイリーデで恋人同士の怪死事件が頻発した際、黒い虫が寄生した娼妓に「人間にのみ興味があるから不可侵にしろ」と言われたのだ。人の街で暴れておいて何をあつかましいと思ったのだが、確かに同じ内容だ。

 シシュは再び書きかけの書状にペンを走らせる。

「あの時は白羽が虫を使役しているのかとも思ったが、王都での事件を考えるだに、あの虫はむしろ『灰』の権能なのだと思う。白羽は水だけで千年を生きる種で、人の血液を必要としないだろう? だが虫は定期的に人の血を集めている」

「あ、そっか」

 王都の事件でも五尊の一つの赤獏が虫と同時に動いていたが、虫自体は『灰』が使役するものだった。ならば白羽の事件の時も、裏で『灰』が動いていたのではないか。

 サァリは解いた帯を衝立にかける。

「じゃあつまり、あの時出てこなかった『灰』が、ランド・タールの弟さんを起き上がらせた『灰』ってこと?」

「その可能性が高い。アイリーデに現れた虫がサァリーディの正体を知っていたのも、数代前の巫の客から直接話を聞いていたのなら辻褄が合う」

「あ! 確かに! 五代前の統領が月白の客だったって言ってたもんね。じゃあその客が家に帰ってから軟禁してた『灰』にアイリーデのことを教えたんだ。……そっか、そっか、やってくれるね」

 徐々に低くなるサァリの声は、遥か昔に死んだ男の口の軽さを断罪したがっているかのようだ。確かに月白の主からすればこれは看過できない話だろう。下手をしたら「タール家ごと滅ぼそう」などと言い出しかねない。

 シシュがどう話を戻そうか迷っている時、けれど階下から女の呼び声が聞こえる。着替え途中のサァリが言った。

「なんだろ、シシュ出てくれる?」

「ああ」

 頼まれた時には既に彼は戸へ向かっている。鍵を外して戸を開けたシシュは、階段下に珍しい人物を見つけて目を丸くした。

 そこにいるのはジィーアだ。裸足の娼妓は、月白の玄関の方を指さして言う。

「サァリを呼んで。客が来たわ」

「客?」

 そう言われても、月白はもう火を落としている時刻のはずだ。怪訝に思うシシュの横から浴衣に着替えたサァリが顔を出す。月白の巫は夫に張り付きながら問うた。

「客って誰? どうしてあなたが呼びに来たのです」

「わたしに声が届いたから」

 死口である少女は、感情に乏しい声で続ける。

「死人を連れた人外が来たわ。――サァリ、あなたの客でしょう」


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