第174話 死人
「おかしな化生だったな」
「……ですね」
おそらくはこの街にいる灰の影響だろうが、なんだかすっきりしない終わり方だ。
鉄刃は軽くかぶりを振ると、刀を鞘に戻した。
「ともかく巫よ。月白まで送っていこう」
「いえ、一人で平気で――」
そう言いかけて、サァリは言葉を切る。遅れて鉄刃が彼女の視線の先を振り返った。
建ち並ぶ平屋の屋根の上を、黒い人影が飛び越えてくる。
人ならざる存在を示す赤い目。きちんと両眼が揃ったそれに、サァリは軽く目を瞠った。
年若い少女の姿をした化生は、地面に降り立つなり二人に気づく。赤い目を限界まで見開いた。
艶やかな唇が開いて、何かを言いかけた直後――
―――― 少女の頭は、厚刃の剣によって叩き割られた。
容赦なく、ただ圧倒的な力で割られた頭蓋。
普通の人間であれば、少女は脳漿と血飛沫を辺りに撒き散らしていただろう。
だが化生の体は、一度大きく崩れ去ると、ふっと揺らいで消え去った。
その場に残ったのは、化生を追って屋根から飛び降りてきた男だけだ。
ランド・タールは血のついていない刃を不思議そうに眺めると、視線を転じてサァリを見た。
「昨日ぶりだな、小娘」
「……さっそくお忙しくしていらっしゃるようで」
答える声に、驚きと呆れが混ざっていたのは仕方のないことだろう。
サァリは軽くかぶりを振って気を取りなおすと、釘を刺す。
「それはともかく、屋根の上を走るような真似はおやめください」
「あやかしが先に走っていたから追いかけただけだ」
「化生とあなた様とでは、重さが違います」
壁を走ることも可能な化生と、鍛えられた大柄な男ではまったく事情が違う。屋根に穴でも開けられたりすれば迷惑だ。
そんなもろもろをやんわりと言うサァリを、ランド・タールは鼻で笑った。
「屋根を直す金くらい払う」
「そういう問題ではありません」
いくら享楽街と言え、何でも金で解決すると思われては困る。
むしろこの街では金で何ともならないことの方がずっと多いのだ。
サァリは息を一つついて外から来た男に向き合う。
美しく伸びた背が、揺るぎない眼差しがランド・タールを射貫いた。
毅然とした彼女に、男は憐れみを含んだ笑みを見せる。
「ならどういう問題だ? お前もあの化生斬りに金で買われているんだろうに」
「金? いいえ?」
間髪入れず、サァリは顔を上げる。
鈴の音のように響く声。
白く美しい手で、彼女は自身の胸を指し示した。
「―――― 愛を以てです」
堂々たる傲岸な宣言。
彼女のそんな態度に、ランド・タールは鼻白んだ。剣を鞘に納めると、サァリに向かって踏み出す。
「愛だと? 娼妓のくせに青臭いことを言うな」
「本当のことですわ」
「現実を教えてやろうか。たとえ巫であろうとも、お前は娼妓に過ぎないのだと」
「お戯れが過ぎます」
自分に向かって大股で近づいて来る男に、サァリは眉を寄せる。
シシュには「煽られるな」と忠告されたばかりだが、確かにこの男は人の気分を逆撫でするのが上手いようだ。
外面として口元は微笑んでいるが、内心は怒りだす一歩手前のサァリは、どう切り抜けようか考える。
ランド・タールは、そんな彼女を自分が屈服させ得ると疑ってもいないのだろう。無造作に手を伸ばそうとした。
だがその時―――― 不躾な手を遮るように、彼女の前に鉄刃が立つ。
街唯一の巫を背に庇った彼は、ランド・タールに向かい苦言した。
「これ以上はやめた方がいい。あなたが彼女に触れることは許されない」
「……ほう?」
ランド・タールの声が一段低くなる。
だが鉄刃は、不敗と言われる男を前に一切怯まなかった。当然のように、ただ事実を伝える。
「彼女は、一人しか客を取らない娼妓だ。そしてその一人はもう決まっている」
「面白いことを言う」
「鉄刃、それは……」
サァリは鉄刃の言葉を止めようと声を上げかける。
彼女が生涯一人しか客を取らないということ。
その相手がシシュであるということは、ランド・タールには伏せておいた方がいい。
要らぬ揉め事を呼び込まぬよう、その為にシシュは嘘までついたのだ。
だから――――
「そう言って、あの小僧をうぬぼれさせているのか?」
嘲りの混じる声音。
一瞬で、感情が冷える。
代わりに腹の底に、御しがたい熱が生まれた。それはたちまち体中に広がり、サァリの思考を塗り潰す。
冷え切った怒りが、喉元にまでせり上がる。
―――― どうしてこんな男の為に、己のもっとも大切な矜持を曲げなければならないのか。
それは、何も知らぬ人間に嘲られていいものでは、決してない。
「わたくしはこの街の主。そして確かに、あの方の妻です」
サァリは冷え切った指先を握りこむ。
―――― 一生涯変わらぬこの事実こそが、自分の誇りだ。
誰が何をしようとも関係がない。それが悪名高い強者であってもだ。
サァリの言葉に、ランド・タールは軽く目を瞠る。ついで無遠慮な視線が彼女の全身を撫でた。
「娼妓が妻だと?」
「その言葉は聞き飽きましたわ。あの方がそう仰るなら、それが事実なのです」
神供であるシシュが自分を妻と言ってくれること、それはとりもなおさず「一生を彼女と共にする」ということだ。
彼にはその覚悟があって―――― そしてそうであることを当然と思っている。
誰に恥じ入ることもない。ただの事実だ。
ランド・タールは物珍しいものを見るようにサァリを眺めていたが、不意ににやりと笑った。
「なるほど。奴が買っていた贈り物はお前の為のものか」
おそらくは昨日もらった簪のことだろう。答えぬまま微笑むサァリに、男はまた一歩距離を詰める。間に立つ鉄刃など存在もしないように、ランド・タールは彼女から目を逸らさなかった。
「面白いな。お前、おれの評判は知っているか?」
「存じ上げておりますわ。わたくしには関係のない話ですが」
人の妻を奪うことが趣味であろうとなかろうと、好きにすればいいのだ。ただ自分たちには関係ない。
態度を崩さぬままの巫に、男はからからと笑った。
「趣味が悪いと思うか? だが、お前も感じたことがあるだろう。着飾った他の女を見て、自分の方が美しいと思うことはないか? 何もかも自分の方が格上なのだと、己の優越を目の当たりにすることがあるだろう。おれも、それと同じだ」
ランド・タールは目を細めて笑う。自信と余裕に溢れたそれは、荒々しい強者の魅力だ。
ほんの一時とは言え、人の運命を狂わせるだけの引力。
それを前に、サァリは微笑んだままだ。
ランド・タールは悪びれもせず続ける。
「妻に裏切られた男がおれに向けてくる憎悪と屈辱は、実に愉しいものだぞ。何一つ己はおれに敵わないのだと、そう思い知りながら怒りを抑えきれない顔を見るのが好きなだけだ。―――― だから、あの生真面目な男が、お前のことでどんな顔をするかと思うと俄然興味が湧く」
「あの方があなた様に劣っているところなど、何一つございませんが?」
「口の減らない女だ」
表層を撫でるだけの応酬は、けれど少しずつ坂を転がり落ちていくようだ。
娼妓としての微笑を保っているサァリは、目を細めて長身のランド・タールを見上げる。
空気が、硬質な壁に変じかけた一瞬。
ランド・タールはもう一度、サァリに向けて手を伸ばした。
その手を、鉄刃が掴もうとする。
―――― 次の瞬間、鉄刃の巨体は地面に叩きつけられた。
鉄刃はそのまま、土の上を自ら転がりながら刀の柄に手をかける。
同時にランド・タールが己の長剣を抜いた。研がれた刃が、月光を反射する。
その刃が化生を両断した時と同じく掲げられ――
「やめなさい!」
サァリの制止の声に、動きを止めたのは鉄刃の方だ。
彼は抜こうとしていた刀から手を放すと、地面に手をついたままサァリに言う。
「巫よ、先に通りへ。ここは引き受ける」
「ほう? 化生斬り風情がおれの相手をするつもりか?」
「あなたが無法を働かぬのならば、こちらも何もしない」
ランド・タールはあくまでも遊客だ。アイリーデが進んで流血沙汰にしたい訳ではない。
そんな鉄刃の警告に、だが男はわざとらしく肩を竦めた。
「そこの女に触れようとするだけのことが、どれほどのことだと? 何も取って食おうというわけではない。お前がそれでもおれを止めたいというなら、遠慮なく相手をさせてもらうが」
「―――― 街の人間をあなた様の悪趣味で傷つけられるのなら、もう後戻りはききませぬよ」
サァリのそれは、最後の警告だ。
自分のことは元より、鉄刃が傷つけられたのなら、その時点でランド・タールとの全ては決裂となる。
何を言おうとも変わらない。サァリは自身の機嫌が転がり落ちていくのを自覚しながら溜息を噛み殺した。
そして、問う。
「利き腕は、どちらです?」
サァリは白い瞼を閉ざす。
そうしたのは、うっすらと光を帯びる青眼を見られないようにだ。
男は突然の問いに、間を置いて返した。
「何故そんなことを聞く?」
「今後のお付き合いの為にですわ」
もしランド・タールが一切己を譲らぬなら、腕の一本くらいは失うことになるだろう。
その時、せめて利き腕を残してやろうというのは温情だ。ほんの僅か血が繋がっている相手へのただの慈悲だ。
サァリは氷片の混ざりそうな息を飲みこむ。
そうして存在を抑えてもう一度問おうとした時―――― 何かが、意識に触れた。
「っ……!」
「巫よ! 後ろに!」
真っ先に「それ」に気づいたのは、アイリーデの巫と化生斬りだ。
サァリは体勢を崩しながらも後ろに跳ぶ。転びそうになったその体を、駆けてきた鉄刃が支えた。
ランド・タールが、突如目の前に現れた「それ」に、大きく目を瞠る。
だがその顔はすぐに、憤怒へと歪んだ。
「貴様」
通りの只中に立っている男。
それは灰色の軽装に、細身の剣を抜いた、若い剣士だ。
整ったその顔に血の気はない。表情もない。
ただ傾いた瞳だけが宙を見ている。
初めて見る青年のその様子に、サァリは既視感を覚えて呟いた。
「……死人?」
王都で最後に見たレノスと同じ、操られた死人の姿。
あの時も同じように、レノスは青白い肌と虚ろな瞳で剣を振るったのだ。
サァリの言葉を肯定するように、ランド・タールは青年の名を呼ぶ。
「トレワ……お前」
義弟である、とうに死んだはずの人間。
自らが追って来た青年の無残な有様を見て、ランド・タールは顔を歪めて歯軋りした。
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