第173話 甘夢
「美しい女だったよ」
囁かれる言葉は、甘い夢を見ているようだった。
久しぶりにこの屋敷に帰ってきた男は、真っ先に彼女の住む離れに来ると、自らの夢の残滓を零す。
「お前になら言ってもいいかな。彼女は……美しい神だったよ。外から来た、いつまでも変わらない存在だ」
「外から?」
「お前と一緒だ」
そんなことを、男は言う。
だが本当に彼といたのが神だというのなら、少しも己と一緒ではない。
自分はただ「海の向こうから来た」というだけだ。あちらの大陸では五尊などと呼ばれはしたが、何ら尊いところはない。単に人間とは違うというだけだ。
だから―――― 彼の話に興味が湧いた。
「もっと聞かせてちょうだい、あなたの愛しい神の話を」
子供の頃から知っている男が、遠くの街で神に見初められてその床に呼ばれたのだという。
存在を継いでいく為の契約。夜と神話の交わる話は、心焦がれる魅力に満ちている。
彼女は、己とまるで違う月光のような存在の御伽話に、夢中になって耳を傾けた。
かつてそうして子供だった彼と、硝子玉を転がして遊んだように。
それは、遠い日の懐かしい記憶だ。
※
障子越しに差し込む光は、既に太陽が登りきった後の真白いものだ。
うつ伏せにまどろんでいたサァリは、うっすらと青い目を開ける。
主の間の寝所には、既に夫の姿はない。朝早くに出て行ったのだとは知っている。二、三言会話を交わしてまた眠ってしまったのだ。
サァリは小さく欠伸をすると、気だるさを引きずって体を起こした。白い裸身の腕を上げ、伸びをする。
「ん……」
一人で目覚める時の鈍重さは嫌いではない。
たとえこの場におらずとも、夫の気配を自分の体のそこかしこに感じる。
のしかかる重みに似た倦怠を心地よいと思うのは、注がれる愛情に疑う余地がないからだろう。
自分の夫がそんな人間であることは、きっと一生の幸福だ。
サァリはずるずると起き上がると、浴衣を着て部屋を出た。途中の廊下で掃除をしている下女と出くわす。
「主様、おはようございます」
「おはよう。主の間は空けたから掃除をお願いできる?」
「よろしいのですか?」
下女が不思議そうな顔をしたのは、サァリの髪が濡れていないからだろう。
サァリは口元を押さえて欠伸を噛み殺しながら頷く。
「いいんです。旦那様がいないから、離れで入浴します」
主の間は彼女の部屋ではあるが、「彼女が客を取る為」の部屋であって、肝心の夫がいないのでは使う意味もない。
下ろしたままの髪の主に、下女は困ったように微笑んだ。
「では仰る通りに。ごゆっくりお休みください」
「寝なおさないから大丈夫。支度したら降りてきます」
シシュと夫婦である以上、あまり朝に弱くもいられない。店の仕事は外せないとはいえ、眠っていればいるだけ彼との時間が減ってしまう。
ぼんやりとした足取りで離れへ向かうサァリに、下女が問うた。
「主様、今日はどちらかにお出かけのご予定は?」
そんなことを聞かれるのは、昨日ランド・タールからの依頼を受けたせいだろう。
サァリは細い首を傾けて振り返る。
少し考えて、答えた。
「ない。何処にも行きません」
離れの夫婦の部屋は、夫と一緒に暮らし始めてから少しだけ整然とした。
シシュは「巫のものを片付ける必要はない」と言ったのだが、サァリが自分で細々としたものを片付け、彼の為に空間を開けた。
それはほとんど量のない彼の私物を置く為というより、自分が占めていない新たな余地が、何より彼の存在を感じさせるからだ。
サァリはかつては小物の並んでいた造りつけの棚を一瞥する。
そこにほとんど物はなく、ただ飾り気のない文箱だけが一つ置かれている。
夫の少ない私物にくすりと笑って、湯上りのサァリは鏡台の前に座った。
―――― 下女に答えた通り、今日は外出の予定はない。
ランド・タールの依頼を了承はしたが、それはあくまで「彼が灰を見つけて要請をかけてきた場合」だ。
なんの手掛かりもないのに、巫である自分が相手を探し回る気はない。
この街の主として、余所からの揉め事に踊らされ過ぎては、侮られても文句は言えないだろう。
「大体私、探し人とか苦手だし」
細かい作業に不向きなサァリは、鏡の中の自分に小さくぼやく。
ただでさえ五尊のことは探知しづらいのだ。相手が息を潜めようと思っているなら尚更、見つけることは難しい。
そういった事態の為に、街全部を範囲に巫舞を舞うのだが……思い返せば白羽を炙りだした時には、灰は見つからなかった。ならば灰はあの一件の後にアイリーデへ入り込んだのだろうか。
―――― 何故、彼女たちはあえてこの街に来たのか。
「あの白羽、捕まえておけばよかったかなあ」
今となっては栓無きことだ。五尊の一翼であるあれが「何処からアイリーデの神のことを知ったか」など、知りたくてももう分からない。
サァリは首を捻りながら化粧をしていく。
そうして支度を終えた彼女は、だがその日の夕暮れ、久しぶりの要請を受けた。
「若い男の化生……ですか」
「ああ。客を襲おうとしたところを大店の用心棒が追い払ったそうだ」
淡々と説明してくるのは、アイリーデの化生斬りの一人、「鉄刃」という通称で呼ばれる大男だ。
普通の要請は、サァリが客を取ってからはずいぶん久しぶりにも思える。一度は散り散りにしたこの地の蛇の気が、再び戻ってきたのだろうか。
それは人が暮らしている限り当たり前のことだ。サァリはぽつぽつと火の灯り始める通りを眺める。
あともう一刻もすれば、通りは多くの遊客が行き交うだろう。片をつけるのならその前だ。
考えこむサァリに、鉄刃が言った。
「自警団に報告が来たのは、片目が赤い目であったと目撃されたからだ」
「片目? もう片方は?」
「よく見えなかったそうだ。まるで空洞のようだったと」
「空洞……」
それを聞いて思い出すのは、同じ化生斬りのタギの話だ。
彼もまた「両目が空洞の化生を斬った」と言っていた。妹を待っていたというその化生と今の化生は関係あるのか、サァリは形の良い眉を寄せる。
通りを見たまま鉄刃が告げた。
「西の三の角で待っていてくれ。そこに追いこむ」
「かしこまりました」
彼の仕事は確実だ。
サァリは頷くと指定された場所に向かい歩き出す。彼女は夕闇に溶け入るように意識して、自身の存在を殺した。
そうしてしまうと、小柄な彼女は瞬く間に景色の中に埋没する。それは、多くの娼妓が持っている「己の魅せ方」の一つだ。
意識と姿勢一つで人を威圧することも、逆に無害に見せることも出来る。そうして花は、その時々によって違う色となるのだ。
今は無色を保っているサァリは、大通りを過ぎて人気のない通りに入ると辺りを見回した。
指定された角には、小さな木造りの縁台が置かれている。鉄刃は昔からあるこれを知っていて待機場所にしたのだろう。サァリはよく手入れされた縁台に座った。
――息を止め、意識を広げる。
神供の男を迎えて以来、力はある程度安定するようになった。
感情の昂ぶりで意図せず余波を生んでしまうこともあるが、大方は思い通りになる。
サァリは目を閉じると周囲の気配を探った。波紋のように少しずつ広げる力に、一点、何かが触れる。
迷いながらも近づいてくるそれは、鉄刃が追いこんでくる化生だ。
あともう少しというところで、サァリは立ち上がる。
「化生なら感知出来るんだけどなあ」
彼女がそう嘯いた直後、通りの角から洋装姿の男が飛び出してくる。
転げるように駆けてくるそれは、確かに右眼だけが赤く光っていた。
そうしてもう片方の眼窩は――空洞だ。
サァリは冷やかな目を男に投げる。
化生は彼女に気づくと、ぎょっと顔を強張らせた。方向を転換し、跳躍して逃げようとする。
それと同時に、サァリは口の中で呟いた。
「―― 縛」
一瞬にして広がる力が、彼女を中心に半球状の領域を作る。
隣の建物の屋根に飛び上がろうとしていた化生は、その壁に阻まれ地面に叩きつけられた。
中にいるものを逃がさぬ為の、不可視の檻。
それを生み出したサァリは、化生が現れた方角をちらりと見やる。
―――― まだ鉄刃は現れない。
聞くならば今の内だ。サァリは小さな呻き声を上げる化生に向けて問うた。
「その目はどうした?」
今まで眼窩が空洞の化生などいなかった。何故そんなものが存在しているのか、サァリは傲岸な声をかける。
隠されもしない神の気に、男はびくりと震えた。地面に這いつくばったままわななく。
「め、目は……」
「奪われたのか? 足らなかったのか?」
何者かに欠けされられたのか、欠けて生まれたのか。
街の異変を探る質問に、化生は間を置いて掠れた声で返した。
「く、食われた……生まれてすぐに」
「何に」
「……女だ」
「もっと詳しく」
女というだけではまったく絞れない。容赦のない神に男はまた呻いた。言葉を迷って、ようやく絞り出す。
「我等に……近い。だが違う」
「なるほど?」
それを聞けば大体の見当もつく。
灰の使役する黒い虫は、人の血を啜る死者の魂だ。そしてそれは、人の欲から生まれた化生と近しい。
サァリは予想内の答えに更に考えこむ。
「目を食らって、その女はどうするつもりだ?」
「わからない……」
そう言ってから、だが男は黙りこむ。少しの間を置いて付け足した。
「妹を……―― 」
不意に途切れた言葉。
次の瞬間、裂けんばかりに見開かれたのは空の眼窩だ。
つられて目を丸くするサァリの目前で、化生の男は悲鳴を上げて喉を掻きむしる。
その姿はまるで、何かから逃げ出そうとしているかのように、見えた。
―――― 滅するか、守るか。
サァリが迷ったのは一瞬だ。すぐに道の角から鉄刃が現れる。
大柄な男は、苦悶する化生を見てやはり目を丸くした。その目がサァリを見る。
「巫よ」
何かをしているのか、という問いにサァリは咄嗟に首を横に振る。
それを一種の了承と看做して鉄刃は頷いた。己の刀を振り上げる。
そうして、一刀の下に斬り捨てられた化生は、幻のように夕闇の中に掻き消える。
後に残されたものは不可解さだけで……二人はまるでいつものシシュのように、それぞれの苦い顔を見合わせた。
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