第172話 我儘



 ―――― 嵐のような男だった。

 それがランド・タールに対してサァリが抱いた印象だ。

 自分の言いたいことだけを言って去っていった彼は、今までもあの調子で各地を回っていたのだろうか。

 変わり種の遊客を門前で見送ったサァリは、二人きりになると夫を見上げた。

「で、どうしてシシュはあの人に捕まったの?」

「制服を着ていたからだろうか……」

「それはどうしようもないね……」

 自警団の制服は、他の人間からすると「面倒事を相談してもいい相手」だ。

 それでランド・タールを引き当ててしまうのは運がいいのか悪いのか。ただシシュらしいと言えば非常にらしい。

 彼はそこで、思い出したように懐から小さな箱を取り出す。

「これは巫に」

「え、くれるの? 嬉しい」

 断って開けてみると、中身はつまみ細工の簪だ。愛らしい薄紅色の細工にサァリは顔を綻ばせた。

「素敵。どうしたの、これ」

「巫に似合うと思って買った」

 端的な理由にサァリははにかむ。


 シシュがそうやって理由なく贈り物をくれるのは初めてのことではない。

 むしろ誕生日など何かの理由があって贈られる方が稀だ。

 小さな菓子から宝石まで、彼はそれがサァリに似合うと思えば買ってきてくれる。そうして贈られるものがどんなものであっても、理由のない贈り物は彼が常に心の片隅に自分を置いていてくれているようで、サァリには嬉しかった。


 彼女はもらった簪の箱を大切に胸に押し抱く。

 そこでふと、不思議に思って夫を見上げた。

「シシュ?」

 さっきから彼は、何かを考えこんでいるような物憂い顔のままだ。

 ランド・タールとの話で思うところがあるのかもしれない。サァリは細い首を傾げる。

「なんかまずかった? 気になることある?」

「いや……」

「え、何。教えて?」

 くいくいと袖を引っ張ってもシシュは苦い顔のままだ。

 だが、彼が言いにくそうなのはいつものことだ。必然的に、サァリは「教えて教えて」と食い下がって聞き出すことになる。

 今それをしてもいいのだが、シシュは何処となく疲れているようだ。サァリは少し考えて言い直した。

「じゃあ、一緒にお風呂入る?」

 これを誘って受けてくれたことは、今まで片手の指で足りる程しかない。

 だから今回も苦い顔で断られるのだろうと思って―――― だからサァリは夫の答えに目を丸くした。

「分かった。そうさせてもらう」

「…………え?」

「サァリーディ?」

「え? え? 大丈夫? 熱ある? お医者さん呼ぶ?」

「…………」

 心配になって右往左往するサァリに、シシュは深い溜息をつく。

 そんなことをしているうちに、街はすっかり夜更け過ぎになっていた。



 月白の館において、サァリが使える部屋は離れの自室の他に、主の間がある。

 今は離れで暮らしている二人にとってそこは、ほとんど使わなくなった場所ではあるが、それでもたまに手を入れなければ痛んでしまうのは事実だ。

 久しぶりに湯が張られた広い浴槽で、サァリは夫に背を預けながら細い四肢を湯の中に伸ばす。額から落ちる汗を指で拭った。

「それにしても、本当にどうかしたの?」

 ここに至るまで、シシュはずっと何かを考えているようだったのだ。

 そんな姿は珍しいものではないが、ここまで気鬱を感じさせるのは珍しい。

 サァリはお湯の中に滑っていきそうな体を引き戻すと、首を逸らして夫を見上げた。

「そろそろ教えてくれる? 聞いてもいい?」

 緩く、細い躰を抱き留めてくれている腕。

 その腕に縋って我儘を言いたいと思うのは、甘えたがる心のせいだ。

 けれど今は、いつもと違う彼が心配でならない。そのせいでいつもより大人しめなサァリに、シシュは軽い息をついた。彼は妻の小さな頭に、自身の額を寄りかからせる。

「あの男は……よくない予感がする」

「よくない予感?」

 随分と曖昧な言葉だ。

 シシュが他人に対し、そんな言葉を使うということも珍しい。

 彼自身、例外的な反応だと自覚があるのか、迷うように言葉を続けた。

「ランド・タール自身の性格が問題かというと、少し違う。さっきの話も……嘘ではない、と思う」

 サァリは頷く代わりに白い両足を抱える。零れた銀髪の一房が、お湯の中で広がった。彼女は浴室に響く夫の声を心地よく思う。

「ただ彼は、どうにもよくない渦に周囲を巻きこむところがある。彼自身意図しないままに、悪い流れを呼び込むというか」

「そういうことが前にもあったの?」

 シシュはあの男のことを以前から知っていた節があるのだ。

 いつか聞いてみようと思いつつ、今聞くことにしたサァリに、シシュは重く頷いた。

「昔、南部に派遣されていた時のことだ。あの男の周りで随分人が死んだ」


 発端は、ランド・タールの病的な人妻趣味だったのだという。

 彼はその街で、とある有力者の妻を寝取った。

 そうしてそれを武勇伝のように吹聴し―――― ただ問題だったのは、寝取られた女が、妻当人ではなく彼女によく似た妹であったということだ。

 女たちはどうやら、お互い了承の上ですり替わったらしい。

 それがランド・タールに言い寄られることに困り果てた姉の希望か、それとも自身の夫に愛想がつきていた妹の打診かは分からない。

 ただ結果として、誤解がすれ違いを生み、本来生まれないはずの憎しみがいくつも生まれた。

 そうしてランド・タール自身、この一件に関わった男たちをひどく嘲ったのだという。

 この揉め事に、もともと彼をよく思っていなかった者たちも加わり……ある夜、大きな衝突が起きた。

 月のない暗闇の中襲われたランド・タールは、それでも傷一つ負わず襲って来た者たちを斬り捨てたのだという。

 報告を受けてシシュが駆けつけた時には、辺り一帯は血の海で―――― 遺体の中には、二人の姉妹も混ざっていた。


「あの時も思ったんだ。どうして私情のもつれでここまでの事態になってしまうのかと」

「それは……すごいね……」

 アイリーデも享楽街であるからして、情の絡んだ事件は少なくないが、そこまで派手に殺し合うことはあり得ない。この街の人間は、「神に捧げられた街の住人」として皆相応の弁えがあるからだ。

 サァリは自分の体を支える夫の手に、自分の手を重ねた。

「でも、さすがにこの街ではそんなことさせないよ」

「分かってる」

 アイリーデはサァリの街だ。玩具を蹴散らすように無遠慮なことはさせない。

 シシュもそれは承知の上なのだろう。それでも蟠りを口にしたのは、おそらく無視しきれない予感があるからだ。


 刀を取る武骨な手が、サァリの手を取る。絡めて握る指に、天井から水滴が落ちる。

「気をつけてくれ、サァリーディ。あの男はおそらく、人のよくない感情を煽るのが上手い。きっと天性のものだ。あの男の近くにいると、怒りや嫉妬や虚栄心が抑えられなくなる。感情に狂って、普段ならば踏みこまない領域にまで踏み込んでしまう」

「天性のもの……無自覚ってこと?」

「ああ」

 だとしたら中々に厄介だ。人の心は、人が思うよりもずっと多くのものに動かされる。ある意味、灰とは別の意味で街の異物だ。考えこむサァリに、シシュは続けた。

「だから、あまりあの男に引きずられないでくれ。サァリーディ」

「え……引きずられるって、私が?」

「ああ」

 予想もしなかった話の方向に、サァリは目を丸くする。

 今までずっと、ランド・タールがこの街に与える悪影響について忠告されていたと思っていたのだ。

 しかし最初から、シシュが憂いていたのは妻についてだ。

「サァリーディは情が深い。その分、怒る時も人より根深いだろう?」

「…………シシュ」

 言いたいことはあるが、彼のそれを聞く方が先だ。サァリはすぐ傍にある夫の足をつねりたいのを我慢する。

「度を過ぎて怒ることが出来るのは、サァリーディの権利だ。だが、あの男はその度を、越えるべきでない時に越えさせてしまう気がする。……それはきっと巫を、危険に晒す」

「危険って、私が?」


 神である彼女を害せるものは、そう多くない。

 他の神や、地の大蛇でもなければ難しいだろう。外洋国から来た五尊であっても、彼女の同族であるシシュに歯が立たなかったのだ。

 だが―― 彼はそれを知ってもなお、真剣に妻のことを心配している。

 それは愛情が故であろうし、化生斬りとして生きてきた彼の、鍛えられた予感のようなものかもしれない。


 サァリは多少の飲みこみきれなさを、夫への情を以て飲みこむと頷いた。

「分かった。気をつけます」

 それだけのことで彼が安心してくれるなら安いものだ。

 元より己の感情は己のものだ。彼以外の誰かに好きにさせる気はない。

 シシュの言う通り、愛するも怒るも彼女の当然の権利なのだ。

 そしてそれは、只の人間であっても変わらないものだろう。



 子供のように素直な返事をする妻に、シシュはようやく少し気を緩めたらしい。

 小さく息をつくと、膝に抱き上げていた彼女の体を横に避けようとした。サァリはあわてて彼の腕にしがみつく。

「なんで! なんで捨てようとするの!」

「別に捨ててない……これ以上浸かっているとサァリーディは湯あたりするだろう……」

「いいの! のぼせそうになったらお湯を冷やすから!」

「そういう問題なのか?」

 折角珍しくも一緒に風呂に入ってくれたのに、話が終わったらどかされてしまうのでは説教の聞き損だ。

 決して離れないと腕に抱き着いてくる妻に、シシュはすぐに諦めたのか彼女の体を抱き直した。

 大きな手が、湯を掻いていた膝を引き寄せてくれる。

 濡れたうなじにかかる息に、サァリは陶然と眩暈を覚えた。

 白い肩口に触れる唇。真摯な囁きが心に届く。


「遠くへ行かないでくれ」


 彼の傍にいれば、きっと彼は何者からも守ってくれるだろう。

 そんな彼が恐れるのは、サァリが独りで何処かへ行ってしまうことだけだ。


 滅多に表に出すことのないそんな夫の不安に、サァリは微笑む。

「あなたのいるところが、私のいるところなの」

 だから少しも恐れる必要はない。

 いつでも彼のもとに、自分は帰るのだから。


 変わらぬ誓約に無二の愛情で返して、サァリは目を閉じる。

 この夜がいつまでも自分たちにとって当然のものであると、そう信じながら。

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