第165話 神婚


「ひとまずの難は去ったようだが、あれはまた来るだろうね」

 イスファのミヒカ王女であった「何か」。

 それが去った後のトルロニアは、まるで乱雑に血を布で拭った後のようだ。

 血臭は消えておらず、染みはそのままだ。傷痕は未だ生々しく―――― それでも一段落と踏まえていいだろう。

 王の言葉に、シシュは頷く。

「ウェリローシアの協力を得て、王都全体に簡易結界は張っております。が、どうもあれはこちらの探知が効きにくいようです」

 白羽の事件の時もそうだったように、元から違う生き物である五尊は、サァリやシシュの探知をかいくぐるようだ。

 それでも違和感を覚えることはあるが、ヨアのようにほとんど分からないものも存在している。

 これに関しては次への課題だろう。彼らはおそらく、また来る。

 糸口があるとしたら月白にいる死口だが、館主であるサァリは彼女を表に出すことを嫌がるはずだ。

 だから可能なら―――― こちらから打って出たい。

 そのためにはサァリとの相談が必要だろう。必要なのだが……


「ところで、お前の式は明日にするが、構わないね?」

「…………構いません」


 花嫁であるエヴェリが大怪我を負って、昨日の式は延期になった。

 その式自体が明日になるのには問題ないが、問題はエヴェリ自身と意思の疎通が全く取れていないということだ。

 神性を失った身で赤獏の前に一人出るという暴挙も、何故あんなことをしたのかさっぱり分からない。

 フィーラは知っていたのかと尋ねたところ「武器を用意して欲しい」と頼まれただけで、あそこまでエヴェリが一人で粘るとは思わなかったようだ。血塗れの彼女を見たフィーラは卒倒せんばかりになっていた。


 どうして、あんなか細い体で無茶をしたのか。

 目覚めた彼女に苦言は呈しておいたが、今でもちゃんと伝わったか自信はない。

 ―――― そんな相手と、明日式を挙げるという。


 顔色が晴れないシシュに、王が怪訝な目を向ける。

「どうかしたのかね」

「いえ、結局間に合わなかったなと……」

「間に合わなかったとは? 何か作っていたのかい?」

「そういうわけではなく。政略結婚に至るまでに、彼女の好意を得ることは出来なかったなと」

「?」

「ただの私事ですが」

「??」

 不思議そうな顔をしている王を置いて、シシュは溜息を噛み殺す。


 出来るなら、彼女の心を得てアイリーデに戻りたかった。が、今回のことは単純に自分の力不足だろう。タセルにも「空の植木鉢を贈ったあたりは少し……いえ、大分意味が分からなく……」と言われてしまった。

 ただ政略結婚の期限が来たからと言って、彼女に無理を強いる気がないのは変わらないままだ。しばらくはエヴェリを王都に置きながら、トーマの手を借りつつ時々アイリーデに帰って月白に不都合がないようにしなければならない。


 真剣にそんなことを考えるシシュを、王はまじまじと眺める。彼は水面に小石を投げるようにぽつりと言った。

「ところで、お前のおかげで儀礼堂が消失した件なんだが」

「何か問題がありますか」

「二百年の歴史が―― 」

「何か問題がありますか」

「……いや、特には、ないかな……普段使ってないし……」

 シシュの目に剣呑な光がちらついたせいか、王はそのまま口ごもる。

 だがこれに関しては譲る気はない。どれだけの歴史がある建物よりも、エヴェリの方が大事だ。

 建て直しの補償ならするつもりはあるが、謝る気はない。王がエヴェリを囮にしようとしていた以上尚更だ。百度繰り返しても、シシュは彼女を守る為にあの儀礼堂を破壊しただろう。むしろ城の他の建物に被害が及んでいないだけマシだと思う。


 相互不理解をかき交ぜて出来たような沈黙に、諦めて口を開いたのは王の方だ。

「ともかく、今回は迷惑をかけたね。善後策を考えておくよ」

「かしこまりました」

 頭を下げて、王の前からシシュは退出する。

 その後ろ姿を見送って王は嘆息した。

「なんであれはああも自分への好意に疎いんだか……愛情深い娘に選ばれてよかったよ」

 式がどうなるか、その後のことなど本人以外は手に取るように分かる。

 王は、愛されて一生を過ごすであろう弟の未来に思いを馳せると―――― 彼らがアイリーデに帰った後のことについて考え始めた。



                 ※



「ねね、大変だった? 迷惑かけた?」

 裸足に濡れ髪を上げながら、そんなことを聞いて来るのは彼の妻だ。

 城にあるシシュの部屋、湯上りとあって久しぶりに浴衣姿のサァリは細い首を傾げる。

 妻の言葉に彼は、ここ一月のことを振り返って返した。

「大変ではあったが……俺が空回りしていただけというか……むしろ巫に迷惑をかけたというか」

「迷惑じゃなかったよ。楽しかったよ」

 あっさりと返すサァリは既に娼妓の器だ。彼女にとっては貴族の恋など単純に微笑ましいだけのものなのかもしれない。


 彼のいる寝台に座ったサァリは、白い足をしなやかに組む。露わになる膝頭にシシュは眉を寄せた。

「シシュは駆け引きとかないから安心するよ。愛されてるって分かるもの。正面からぐいぐい押されて崖から落ちる感じ」

「崖から落ちたら死んでるんじゃないだろうか……」

 サァリの喩えでは、いいのか悪いのか分からない。「一緒に風呂に入ろう」とねだってくるのを断っていたシシュは、自分も入れ替わりで浴室に行こうと立ち上がりかけた。―――― その首に、女の白い腕が巻きつく。

 当然のように彼の膝に乗るサァリは、美しく微笑んだ。

「恋をするなんて、死ぬのと同じ」

「サァリーディ」

「私の我儘を聞いてくれてありがとう」


 謳うような言葉に、シシュはかつての夜を思い出す。

「恋をさせて」と願った彼女に、少しは応えられたのだろうか。

 思い返しても、彼女に惹かれていたのはいつでも自分の方だった気がする。

 力のない身であっても挑むことをやめなかった彼女。その毅然も、貴族らしい頑なさも、愛らしくはにかむところも、全てが愛しい。


 滅多に見ることのない恥ずかしがる彼女を思い出していたシシュは、じっと自分を見てくる青い目に気づいて表情を消した。視線を逸らし、言葉を濁す。

「……巫が嬉しいならよかった」

「シシュ」

「何も聞かないでくれ……」

 こういう時に限って何もかも見透かされている気がするのは、比翼の鳥の間柄だからか。

 じっと目を細めて夫を見ていたサァリは、不意に妖しく微笑する。

「いいよ。『私』は箱入りのいい子だものね」

「心を読むな……」

「シシュが分かりやすいの」

 啄むように口付けて、サァリは無邪気に愛を請う。

 そんな彼女は、いつでも違えることのない無二だ。決して変わらない彼の妻。

 二度目の神婚を経たシシュは、たおやかな体を抱きしめる。


 ―― たとえこの先何が戻って来ようとも、彼女に穢れの一つも落ちないように。

 それが神供としての己の務めだ。


 シシュは妻を抱いたまま立ち上がると、その体を寝台に下ろした。

「じゃあ風呂に入って来る」

「背中流すのに」

「一人で入る……」

 これ以上構われていると、午前の予定が消化出来なくなる。

 濡れた銀髪を撫でて離れる彼を、サァリが呼んだ。

「じゃあ待ってるね、シシュ。―――― ありがとう」

 情に満ちた言葉。慣れ親しんだ響きを噛みしめて彼は微笑する。



 そうして彼女が喜ぶのなら、苦など何処にもない。

 神へと捧げられた心が、いつか全てをも打ち砕くだろう。

 だから、その日が来ないことを願っている。



 神供の男は、己の中の青焔を自覚する。

 その焔が大陸を焼く日は、未だ遠い。

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