第164話 花を贈る


「忘れ物はないかしら?」

 一月近く王都の屋敷で暮らした最後の日、サァリは従姉にそう言われて振り返った。

 荷物を積んだ馬を一瞥する。

「ないと思うけど。あっても大丈夫でしょう? 必要なものなら届けてもらうし」

 王都からアイリーデまで、普通に行けば馬で三日はかかる。軽く言う彼女に、フィーラは苦笑した。

「あなたの好きなようにするといいわ、わたしの姫」


 この一月、アイリーデの主であるサァリは、ウェリローシアの少女当主として暮らしていたのだ。

 もし、彼女がアイリーデで生きていなかったら、というもう一つの姿。

 懸命で純真な、愛しい彼女の姿を思い出し、フィーラはほろ苦さを抱く。


 サァリにとっては、ウェリローシアの当主の自分より、アイリーデの巫としての自分が本来の自分だ。

 そんな彼女にとってフィーラは口煩い王都の従姉で、それ以上では決してない。

 ―――― それでも、短くも幸せな夢が見られた。

 赤子の時から、宝物のように愛して来た彼女を、自分の手で嫁に出すことが出来たのだ。

 密かに用意してきていた花嫁衣裳に袖を通してもらえたことも、彼女がそれを喜んでくれたことも嬉しかった。

 血の繋がった兄であるトーマよりも、自分を家族と思って頼ってくれるのが幸せだった。

 そんな口にすることのない喜びを胸に秘めて、フィーラは微笑む。



 ちょうどその時、門を開けて入ってきたのは、サァリの夫だ。

「準備はいいだろうか」

「シシュ!」

 共にアイリーデに帰る彼を見て、サァリは飛び上がった。子供のように駆けていく。

 ―――― そうして彼女は、生まれた家には目もくれず駆け去ってしまうのだろう。

 今までもそうだったのだ。だから自分は、この家を一人で守るだけだ。

 遠い街で暮らす、誰よりも愛しい姫を守るために。


 サァリはシシュの手を取って何事かを話していたが、すぐにその手を放すと駆け戻ってきた。

 フィーラの前で足を止めると小声で問う。

「ねね、ところであのドレスって直りそう?」

「染み抜きは終わったわ。あとは切られたところを繕うだけかしら」

「あ、本当!? よかった! ありがとう!」

 無邪気に喜ぶそんな姿に、フィーラは目を丸くする。だがすぐに彼女は苦笑した。

「もう用済みかと思ってたけれど。彼が喜ぶのかしら」

「え。だってあれ、フィーラが私の為に作ってくれたものでしょう?」

「……え?」


 予想外の答えに、フィーラは言葉を切る。

 そんな彼女を当主はまじまじと見て……ふっと美しく微笑んだ。


「どうしたの、フィーラ。シシュが分かってることなのに、あなたが分からないなんて」


 神の美しい指が、彼女に伸ばされる。


「エヴェリもサァリも同じ私よ。振舞いや記憶が違うだけで、心は変わらない。エヴェリが大切に思うものなら、私も同じ」


 頬に触れる指。

 覗きこんでくるのは、目を逸らすことを許さぬ青い瞳だ。

 彼女が愛した、気高くも美しい魂。

 サァリは艶やかな微笑みを見せると―――― 不意に愛らしく相好を崩す。


「愛してる。ありがとう、フィーラ」



 子供だった頃のように、抱き着いてくる細い腕。

 ―――― サァリがまだ一人で立つのも覚束なかった頃。

 彼女はよくこうして、フィーラに抱き着いてきた。そうしていつも追いかけてべったりと甘えて…… でも「当主になるならそれではいけない」と七つを越えた頃から厳しく接するようになったのだ。

 従姉のそんな態度は、幼いサァリにとっては不可解で理不尽なものだったのだろう。サァリはフィーラを頼りながらも、疎ましそうにするようになった。アイリーデと王都の気風の違いが、その距離を一層広げた。

 これはきっと一生変わらないだろうと思って―――― だから束の間の夢を、喜んだ。


「……サァリ」

「ドレス、直ったら月白に送って。あ、取りに来るでもいいから。……汚しちゃって、御免なさい」

 腕を外したサァリは、気まずそうに謝る。

 そんな姿は子供の頃から変わらない。

 フィーラは涙を飲みこむと、嫣然と微笑んだ。

「取りに来なさい、彼と二人で。……着せてあげるから、今度こそきちんと見せてあげなさい」


 自分が育てた大輪の花だ。

 誰に相対しても誇れる。この大陸でもっとも美しい姫だ。

 だから、全ての幸福を彼女に。




「ありがとう、フィーラ! また来るからね!」

 跳ねるように駆けて、サァリは馬に乗る。

 それに手を貸していたシシュは、フィーラに向き直ると一礼した。

 初めて見た時から、顔の綺麗さや身分の割に不器用だと思っていた青年。だがきっと、一生一輪の花を慈しんでくれるだろうと思った相手に、フィーラは口の中で呟く。

「あなたにあげるわ。大事にして」

 離れていく手。

 だがいつでも望めば、彼女はまた帰って来るだろう。

 フィーラは閉まる門を見つめて、踵を返す。神代から続く館に、一人帰る。


 ウェリローシアの時は、こうして積み重なっていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る