第163話 結


 人が人を愛する理由は雑多だ。

 自分のそれも曖昧で、だが今はいいのだと思う。

 人を愛する理由など分からなくていい。

 彼を選んだ―――― その事実だけで、今充分に幸せなのだから。



          ※



 小さな温室に鏡はない。噎せ返るような花の香りの中、白無垢姿のエヴェリは従姉を振り返った。

「ね、本当に大丈夫?」

「わたしはその質問を、ここ数日で百回は聞かれて百回同じように返しているわ」

「ごめんなさい……」

 フィーラの着付けを信用していないのではなく、自分を信用していない。

 化粧が崩れていないか触ってみたいが、それをしても怒られてしまうだろう。


 温室に作られた宣誓台を前に、彼女は落ち着きなく夫となる男を待つ。

 鉢植えの花に溢れたここには、家族であるフィーラの他に誰もいない。儀礼堂が綺麗に破壊されたことで、急遽この場所が選ばれたのだ。

 エヴェリは自分の纏う白無垢を見下ろす。

 ずっしりとした白打掛は、歴史の重みそのものだ。今まで幾人もの女がこれを着て嫁いでいったのだろう。

 そして今、自分もその一人になろうとしている。その現実がようやく手の届くところに感じられた。


 エヴェリが深い息をついた時、温室の入り口に王とその異母弟が現れる。

 王は花嫁衣裳のエヴェリを見て、嬉しそうに目を細めた。

「愛らしいね。実に綺麗だ」

「勿体なきお言葉ありがとうございます」

 深々と頭を下げるエヴェリに王は微笑む。だがそれに反して、シシュは入り口から入ってこないままだ。

 黒い目を瞠って己の花嫁を見ている弟を、王が手招いた。

「ほら、見惚れていないで来なさい。いつまでも彼女を待たせる気はないだろう?」

 呆れたように言われて、シシュはばつが悪そうに入って来る。

 彼女の焦がれる黒い瞳。

 その手がエヴェリに差し伸べられた。

「待たせてしまった。すまない」

 真摯な言葉が、エヴェリの胸に沁み込む。

 魂を震わす余韻を味わって、彼女は男の手に小さな手を重ねた。

「いいえ、少しも」

 そして彼女は、永遠を誓う。




                ※



 事後処理は王の手によって速やかに行われた。

 イスファの王女ミヒカは、数か月前から肺病を患い、一月前には亡くなっていたらしい。

 密葬されたはずの彼女が戻ってきたということで、イスファの宮廷はさぞ混乱に陥ったのだろう。

 ヨアを傍に置く彼女は、周囲を恐怖に陥れ―――― だがある日消えてしまった。

 そんな彼女がトルロニアに行っていたとイスファが知ったのは少し遅れてのことで、けれど彼らは恐怖から口を噤んだ。

 恐ろしい「何か」がもう戻って来なければいいと願ったのだ。

 しかしその期待はすぐに裏切られるだろう。

 トルロニアの王は「気の毒だけど自業自得だ。あんなものをこちらに押しつけて黙っていようとしたんだからね」と言ったが、エヴェリは少し同情もする。

 死したはずの人間が、再び戻って来る―――― それに複雑な感情を抱かない人間は、多分いないのだろうから。




           ※




「それでも、死は死だ。覆してはならないと、俺は思う」

 王とフィーラの立ち合いだけで式を挙げた夜、そんな夫の言葉を、エヴェリは頷いて聞く。

 ―――― 行方不明になっていたレノスは、既に亡くなっていた。

 もしかしたら最初にミヒカに誘われた時点で殺されていたのかもしれない。

 問題は、死者となった彼が傀儡にされているということで……やはりそれは看過できない事実だ。

「街に潜んでいるという虫はどうなさったのです?」

「一応、虫を殺して回った時に、あちこちに触媒を埋めて簡単な結界を張っていたんだ。見よう見まねだがウェリローシアの呪具も借りた。……が、あれは虚勢だったみたいだ。あれから何の気配もない」

「向こうも、殿下相手では用心もするでしょう」

 相手方にとって、シシュは正面から相手にしたくない存在のはずだ。

 だからエヴェリを狙って―――― けれど彼女の独断専行は、シシュの胃を非常に痛めたらしい。「ああいうことはやめてくれ」とやんわりと長々叱られて、けれどそれ以上に彼が辛そうな顔を見せたことが、エヴェリには堪えた。


 彼を守らなければ、と思ったのだ。

 自らの非力を棚に上げても、彼に触れさせたくないと思った。

 御しきれぬほどに突き上げてくるこの感情が何なのか。

 それは彼女の知らないところから来るものなのかもしれない。


「それで、あの、殿下……」

 燭台だけがともされた薄暗い部屋。

 寝台の上に正座しているエヴェリは、戸口に立ったままの夫を見やる。

 以前から「同意がなければ何もしない」と言っている彼は、エヴェリが何も言わなければあそこに一晩いるのだろうか。

 どう切り出そうか気まずくも考える彼女に、シシュは真面目な顔で返す。

「急ぐつもりはないんだ。あなたの自由で。一年くらいは待てると思う」

「いえ……さすがにそれは」

 政略結婚だとしても失礼だし、そうでないなら尚更だ。

 エヴェリは少し迷ったが、正座を崩すと寝台から降りた。白い寝衣姿の彼女は体の前で手を揃えると、深く頭を下げる。

「長らくお待たせして申し訳ありません」


 瞬く間に落ちる恋を認めるには、自分は子供だった。

 だから愛する理由を探した。その理由が揺らいで嘆きもした。

 でも理由などきっと、背を押すだけのものだったろう。

 命を賭けてもいいと思う恋があることを、自分は最初から知っていたはずだ。


「わたくしの心を全て、あなた様に。……受け取ってくださいますか?」

 想いを伝えて、情を捧ぐ。

 その相手が彼であることを幸福に思う。

 エヴェリは遠慮がちに手を差し伸べて待つ。

 深く吐いた息を吸いなおした時、その手を彼の手が取った。温かな腕が彼女を抱き寄せる。

 エヴェリは彼の胸に顔を埋めて囁いた。

「本当に、ご迷惑をおかけして申し訳ありません……」

「あなたが俺にかけた迷惑なんてない」

「でも、アイリーデに残してきた奥方とは、わたくしのことなのでしょう?」

「………………」

 それに気づいたのは改めての式の直前で、自分でも遅すぎるくらいだと思う。

 たっぷりの沈黙を置いて、シシュは固い声で問うた。

「どうしてそれを?」

「どうしても仰いましても……ウェリローシアはアイリーデと繋がる家ですし、殿下には申し上げませんでしたが、一軒の妓館を擁しております。ですからその、記録を調べれば館主の名前は分かります」

「ああ……」


 彼は、初対面の時エヴェリのことを「サァリーディ」と呼んだのだ。

 それと調査書のこと、同封されていた手紙、兄やフィーラ、タセルの反応を突き合わせれば察しが付く。

 何よりも、彼自身を知れば分かるのだ。愛した妻を置いて、自分に愛情を捧ぐ人間ではないと。


「周りの示す事実がそれですから。あとは自分を疑うだけです」

 エヴェリには間違いなく、ウェリローシアで育った記憶がある。

 けれどそれは多に対する一だ。彼の誠実に相対して頑なに主張するものではない。

 そうして推測を立て、的中したエヴェリは、深い溜息を聞いて顔を上げた。

「殿下?」

「いや……それは気を使わせてしまったな……」

 もうすっかり見慣れてしまった、がっかり顔。

 彼女から手を離し戸口に戻ろうとするシシュを、エヴェリはあわてて飛びついて止めた。

「ま、待ってください! 違うの! そうじゃなくて!」

 ここでまた振り出しに戻っては、本当に一年くらいかかってしまう。

 振り返ったシシュに、腕からぶらさがったエヴェリは言った。

「あの、わたくしがあなた様の奥方であったからではなくて……私自身が、あなたを好きになったので……」

 言いながらみるみる顔が熱くなって、エヴェリは俯く。

 自分が変にこじらせたつけが来ているのだとは分かるが、恥ずかしいものは恥ずかしい。じたじたと暴れる妻を、シシュは目を丸くして見下ろしていたが、やがて困ったように微笑んだ。

「そうだったら嬉しい」

「はい……申し訳ありません……」

「謝られるようなことはないんだが。それに関しては俺も同じだと思ってほしい」

「同じ?」

 エヴェリは手を放し彼を見上げる。大きな掌が、彼女の頬に触れた。

「俺にとっては、サァリーディもエヴェリも同じだ。どちらも大事で、どちらも愛している。あなたの愛らしいところや気丈さに惹かれている。当主のあなたに出会えてよかったと思う」

「殿下」

 ずっと欲しかったかもしれない言葉。

 胸を突く情に、エヴェリは熱を飲みこむ。


 狭い世界で生きてきた。

 顔を隠し、フィーラと二人で責務だけと向き合って生きてきたのだ。

 それが仮初の記憶でも、エヴェリの知る世界はそういうものだった。

 彼はけれど、そんな彼女に手を伸ばして「愛しい」と言ってくれるのだ。


「私、幸せです」

 涙を滲ませて幸福を語る。本当に、彼に恋をしてよかったと思う。

 熱くなる感情のまま、エヴェリは夫へと手を伸ばした。彼の首に抱き着こうとして……そこでふと、首を傾げる。

「ちなみに私、その時の記憶っていつ戻るんです?」

「知らないのか……」

 彼の呟きに苦味が限界まで込められているのは何故なのか。

 シシュは非常に言いにくそうにしていたが、エヴェリが教えて教えてとねだると、渋々耳打ちしてくれた。

 唖然とする彼女に、彼は溜息混じりに付け足す。

「だからまぁ、あなたが納得出来たらでいいんだ。最低でも一年くらいは」

「……それは、さすがに」

 最低でも一年とはさっきより増えている。

 それはけれど彼が「エヴェリ」を気遣ってくれているからだ。変わってしまう自分に不安を覚えるだろうからと、自由を与えてくれている。

 ―――― だが、そんな彼だから、己を委ねられるのだ。


 エヴェリは震えを隠した指で、彼の袖を摘まむ。

「当主のわたくしも館主の私も、どちらも同じですわ」

「そう、なんだが」

「ですから、あなた様の思うままに」


 シシュは軽く目を瞠る。

 自分を見る眼差しに、熱を感じてエヴェリは真っ赤になった。

 頬に触れる手。額に落とされる唇。

 腰を抱き取られたエヴェリは、目を閉じ息を止めて口付けを受ける。

 彼の想いに、気が遠くなった。


 下ろした髪を梳いてくる指。抱き上げられた自分は、存在もひどく覚束ない。

 染み一つない寝台に下ろされた彼女は、小声で夫に問うた。

「あの……ちなみに、痛いですか」

「痛くはない、と思う。多分……」

 断言してくれないのはどうしてなのか。

 エヴェリは不安と熱情を噛みしめて、聞きなおした。

「じゃあ、優しくしてくださいます?」

「それは約束する」

 甘やかな約束に、彼は額を合わせる。宥めるように大きな手が髪を撫でる。

 そんな時でも真面目な彼にエヴェリは破顔して、ふっと目を細めた。己である聖娼のことを思う。

「それにしても、あなた様に散々心労をかけて最後にこれなんて―――― 」

 艶めいた唇が笑む。

「本当に『私』は、悪い女です」




                ※




 彼の識る妻は、夜の女だ。

 共寝をした朝も、彼より早く目覚めることはない。いつもその銀の髪に口付けて彼だけが起きる。

 だから浅い夢にまどろんでいたシシュは、うっすらと開いた視界に青い瞳を見て、軽く驚いた。半覚醒の思考を回して、彼女の名を呼ぶ。

「エヴェリ?」

「はい、旦那様」

 くすくすと、艶やかに彼を呼ぶその言葉は娼妓のものだ。

 理解して、飛び起きようとしたシシュは、けれど逆に抱き着かれて寝台に倒れ込む。

 細い肢体を彼の上に乗せた女は、うっとりと笑んで囁いた。

「愛しておりますわ。私の旦那様」

「サァリーディ……」

「あ、お説教はもうエヴェリの時に結構聞いたからね! 要らないから!」

「それとは別に言いたいことはある」

「なんで私ばっかり……王様も叱られればいいのに……」

 逃げ出したそうな彼女を、シシュは抱き留める。


 いつでも、どんな彼女であっても、彼女は愛らしく鮮烈だ。

 身一つで敵の前に立つ毅然も、深い愛情を謳う純真も変わらない。

 惹かれてやまないその姿を思い出し、彼は微苦笑した。白い耳朶に口づけて囁く。


「愛している」


 そうして一生を越える約束を。

 変わることのない愛情を込めて。


 神供の男は、美しい神を腕の中に抱きしめる。

 軽く目を瞠ったサァリはそれに微笑んで―――― 青焔を秘めた息をついた。



 【第陸譚・結】

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