第162話 新地


 いつか自分は、誰かの元に嫁ぐのだと知っていた。

 一生涯でただ一人。出来れば悪い人間でなければいいと思った。

 穏やかに話せる間柄の人間がいいと願っていたのだ。

 だから命を賭すような恋は物語の中だけで……自分には、無関係なものだと思っていた。



         ※



 うっすらと目を開けた時、感じたものは浮遊感だ。

 自分が何処の誰だか分からない。時間の前後が把握出来ない。

 薄暗い部屋の寝台でエヴェリは息を吐いて、だがすぐに今までのことを思い出した。跳ね起きて辺りを見回す。

「い、今何日?」

「寝ていなさい、エヴェリ」

 ぴしゃりとフィーラの声が飛ぶ。部屋の隅の椅子に腰かけた従姉は、やつれた顔で彼女を睨んでいた。

 そんなフィーラの様子に申し訳ないと思いつつ、エヴェリは寝台から降りる。

「ね、まだ今日?」

「……あなたの式の翌日かしらね」

「なら急がないと!」

 もうきっと時間がないのだ。下着姿のエヴェリは、己の左肩を確かめる。

 そこには傷の痕さえない。適当に外衣を羽織って飛び出そうとする彼女に、フィーラが溜息をつきながら着替えを手伝ってくれた。

 エヴェリは扉に手をかけて、けれど大事なことを思い出し振り返る。

「フィーラ、ドレス汚して御免なさい……」

「あなたの身に換えられるものなんてないわ」

 だから自分を守りなさい、と言われて、エヴェリは「約束する」と頷いた。



 本当は、もう自分が関わる必要などないのかもしれない。

 いざと言う時の為に、王には全てを伝えてある。たとえエヴェリの意識がなくても、王とそれを聞いたシシュが次の手を打ってくれるだろう。

 それでもエヴェリが走ったのは、聞きたいことがあったからだ。

 彼女は城の中を抜けて裏の広場へと駆ける。そこにはイスファの馬車が停まっていて、シシュとミヒカ王女が話をしていた。


 王の姿はない。シシュは何処まで聞いているのだろう。

 そんなことを考えながら、エヴェリは二人の前に駆け寄る。

「エヴェリ?」

 驚いたシシュがそこより先を言う前に、エヴェリは問うた。

「どっち?」

「え?」

 突然の問いかけにミヒカは眉を寄せる。その後ろにいる侍女が不安げに主人を見上げた。

 だがエヴェリは譲らない。彼女は右手でシシュの袖を摘みながら尋ねた。

「あなたたちのどちらかが、赤獏を呼んでいたんでしょう? どっち?」

 ミヒカと、隣の侍女を見据えての告発。

 唖然とした空気が場に流れる。

 だがそれを打ち破って、幼い声が答えた。

「わたしです」

 そう言って笑ったのは―――― 花籠を持った少女だった。


             ※


 儀礼堂で花嫁が禊をするということを知っているのは、王とフィーラの他には彼女たち二人だけだ。

 元々ミヒカを疑っていたのは王の方で、それは婚約発表の時から始まっていたらしい。

 その上で、中々尻尾を出さない彼女たちへの疑惑を確定するために、王とエヴェリはあの罠を仕掛けた。


 王の計画では、赤獏を引き寄せたならエヴェリは儀礼堂の隠し通路から逃げ出すはずだった。

 だがそれをエヴェリが密かに変えたのだ。フィーラに水を湛えた花器と、その中に懐刀を用意してもらった。

「一人で行かせてくれる?」と聞く彼女に、フィーラは長く考えた末「あなたに任せるわ」と言ってくれた。彼女がもう子供ではないと思ってくれたからだろう。


 そして、罠は仕掛けられた。

 狙い通り、赤獏はエヴェリを殺す為に現れた。


             ※


 侍女ヨア―― 常にミヒカの後ろにいた少女は、持っていた花籠を示す。

 その中にあるものは、花弁ではなく色とりどりの宝珠だ。

 白・赤・緑・青の四色。だが赤だけが数少ない。その色が対応するものをエヴェリはすぐに思い当たる。

「五尊……」

「彼らは既に希少種なのです。こうして来たる時まで守ってあげなければ」

 少女は慈しむ目で籠の中を見やる。まるで花を育てているような眼差し。だがそれが導くものは無数の人の死だ。

 意味の分からなさにエヴェリは声を上げようとする。けれどそんな彼女を、シシュの手が遮った。

 彼女を自分の背に回して、シシュは問う。


「俺からの話は先程の通りだ。真相を話すなら、各々にふさわしい処遇を与える。……そうでないなら二人とも処断するだけだ。あの日の、続きとして」


 シシュの右手が、腰の柄にかかる。

 固い音を立てるそれに、エヴェリは息を飲んだ。

 ―――― 王の異母弟であるシシュは、既に二人のどちらかが犯人と踏んで相対していたのだろう。

 そしてその告発を受けて立ったのは、花籠の少女ヨアだ。


 ヨアは笑顔で口を開く。

「わたしはただ、行き場のなくなった彼らに新たな居場所を与えているだけです」

「そうやって自分の国で人を殺させたのか?」

「あれは、わたしの国ではありませんので」

 屈託なくそう言うと、ヨアは持っていた花籠を後ろに回した。

「わたしは、外洋国からやって来たものです。ですから、そういったことに然程興味はありません」

「ならば拘束するまでだ」

 言うなりシシュは抜刀する。

 軍刀ではないウェリローシアの刃。何故そちらの刀を帯びているのかとエヴェリが思った瞬間、彼は刀を上げると躊躇いもなく少女の頭上に振り下ろす。

「え?」

 あまりのことにぎょっとしたのはエヴェリだけで、ヨアは笑ったままだ。

 小さな頭に振りかかる刃。けれどその刃が接するより先に―――― ヨアの体は崩れ落ちる。


 人一人の体が、黒い砂となって瞬く間に崩れ去る。

 それは地に吸い込まれると薄い影になった。

 そうして代わりに―――― 少女の引いていた灰色の影が音もなく盛り上がる。

 石畳の中から浮き上がる影。

 それは長身のシシュを追い越してのっぺりとした女の形になった。


 灰色の女は、シシュの刃が届かぬぎりぎりのところに現れる。

 その色に、エヴェリは花籠になかった最後の一色を思い出した。

「―――― 灰」

 五尊の一つ。もっとも正体の知れなかったもの。

 ミヒカの話にもフィーラの調査にも、それはほとんど出てこなかったのだ。

 ただいつの間にか五尊の中にいて、いつの間にか消えていたもの。

 外洋国の伝承の存在を目の当たりにして、その異様さにエヴェリは絶句する。


 影をそのまま立体にしたようなそれには、目も鼻もない。

 ただ口だけがあって、弧を描いて笑うそこには、黒い虫が耳障りな羽音を立ててたかっていた。

 女であることを示すように膨らんだ服の裾。だがそれさえも灰一色だ。

 元の身長の二倍ほどになったヨアは、足下に置いた花籠を拾い上げる。

『どうかしましたか』

「―― 目的は何だ」

 羽音に似た声に後ずさったエヴェリとは逆に、シシュは一歩を踏み出す。

 そこからであれば、もう動かずにヨアを斬り捨てることも出来るだろう。

 だが灰の少女は、何の畏れもなく笑った。

『目的と言われても、わたしはただ別の可能性を見たいだけです』

「別の可能性?」

『ええ。人に追いやられ殺されたわたしたちが、伸びやかに暮らしていける別の可能性を』

「それは……」

 まるで夢のように語られるその言葉に、エヴェリは軽い眩暈を怯える。


 悲劇の終わりを迎えた五尊が、自由に暮らせる場所。

 けれどそれは、多くの人間の死を導くものだ。人を喰らうものが、そうして暴虐を振るったように。


 ヨアは、なおも嬉しそうに語る。


『この地にはまったき神がいるのでしょう? 人から隠れて暮らしていたわたしは、輝かんばかりのその力を見たのです』

「……神?」

 それは何を意味するのか。エヴェリはシシュの背を見上げる。

『あのような神が来た土地なら、わたしたちも今度こそ自由に暮らすことができる。ほら、そう思いませんか?』

「自由をはき違えるな。お前がそのつもりなら、ここで排除するだけだ」

『この国の人間を犠牲にしてもですか?』

 愛らしく首を傾げる灰に、場の空気は止まる。エヴェリは男の背中越しに長身の灰を見上げた。

「犠牲にって―― 」

『街にはまだ、わたしの虫が沢山います。いつでも、何人でも殺せますよ』

 花籠を手に、くすくすと笑う灰。

 童女のような仕草に似合わぬその姿と言葉は、悪夢そのものだ。

 シシュが刀を持つ手を止める。どうすべきか考えているのだろう。

 王都の民を盾にしての脅迫に彼は沈黙して―――― その時背後から、別の声がかかった。


「王女を殺しなさい」


 唐突な命令。

 そんなものを口に出来るのは、限られた人間しかいない。

 振り返ったエヴェリはそこに王の姿を見る。

 そしてシシュは、言葉が終わる瞬間にはもう刀を振るっていた。

 無言のまま立ち尽くしていたミヒカを刈ろうと、横薙ぎにされた刃。だがそれは高い金属音を立てて止められる。

 彼女を庇ったのはヨアではない。軍刀でシシュの刀を受けたのは、灰色の外套で顔を隠した男だ。

 いつそこに現れたのか、ミヒカを庇って前に立つ男に、シシュは初めて表情を変える。苦渋の声が漏れた。

「……そこにいたのか」

「彼はあなたと違って、わたしに従順でいてくれるわ」

 答えない男に代わり、微笑んだのはミヒカだ。彼女の手が外套を引く。

 その下から現われた顔は予想通り……行方不明になっていたレノスだった。


 青白い肌のレノスは、表情を変えぬままシシュに対し軍刀を構える。

 ―――― 既に生者のものではない姿。

 沈んだ両眼は歪な人形のようだ。悪夢に悪夢を塗りたくる光景に、エヴェリは自分の呼吸が浅くなるのを感じた。


 ミヒカは王に笑いかける。

「わたしを殺せだなんて、随分な仰りようですわ」

「君は既に死んでいる人間だ。イスファから返事が来るのに時間がかかったがね。『王女は一月前に密葬されている』と、正式な連絡が来たよ」

「あら、薄情な国ですわ。わたしがいなくなって安心したのかしら。これから帰るというのに」

 ミヒカはそう言うと、ヨアの灰色の腕に手を触れさせた。

「わたしは、この子たちに約束したの。新しい土地で新しい暮らしをさせてあげるって。あの五尊がこの大陸で蘇るなんて、胸躍る話でしょう?」

「全然……」

 思わず呟いてしまったエヴェリは、けれど全員の視線を受けて口元を押さえた。

 そんな仕草に目を丸くしたシシュは、すぐに元の冷ややかな目になると三人へ向き直る。

「そちらの言い分は分かった。が、逃がすつもりはない」

「あら殿下、街の人間がどうなろうといいのかしら?」

「やってみればいい。一掃する準備はしてある」

 それは事実か張ったりか。

 エヴェリは儀礼堂の大半が一瞬で消失したことを思い出したが、あれを王都でやられたら復興が大変なのではないだろうか。


 無言の睨みあい。

 その終わりは、唐突なものだった。

 ミヒカがヨアを一瞥する。それを受けて灰は長い両腕を広げた。レノスとミヒカをまとめて抱き取る。

「ごきげんよう、皆様。またお会いしましょう」

 たおやかな挨拶。

 踏みこんだシシュが、彼ら全員を両断しようと刀を振るった。

 だがその刃は寸前で空を薙ぎ――――黒い砂となって崩れ落ちた三人の体は、既に何処にも残っていなかった。

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