第161話 心世


 

 何処までも続く荒野だった。

 草木の一本も生えていない、乾いた地面を彼女は見回す。

 そこに、生き物の姿はない。ただ薄い死の香りが漂うだけだ。

 何があったわけではない。ずっとそうであったというだけだろう。


 ここは、渇きだ。

 永遠に餓えるものの地。


 だから、束の間震わせるものを探す。

 白い羽がそうして、雪原の中で人の愛を探していたように。



 人の世ではない。

 神の世でもない場所。

 裸足でそこに立つ彼女は、長い銀髪をかき上げた。

 細い躰は白布を巻きつけただけで、手には何も持っていない。受けた傷も今は何処にもなかった。

 砂を孕んで吹く風。彼女は青い瞳を細める。

 視線の先には―――― 紅い盲目の獣がいた。


 軋んだ声が彼女の耳元で囁く。

「あの男の心を、教えてやろうかぁ」

「要らない。教えてもらったもの」

 心視など必要ないのだ。彼は、己の心を語ることを惜しまなかった。

 そんな彼だから、好きになった。欠けた自分にも向き合ってくれる誠実が嬉しかった。

 声は、なおも笑う。

「不安でたまらないのだろぉ? 別の女がいるかと疑っているだろぉ」

「いたとしても、変わらない」


 愛されるから愛しているわけではない。

 たとえ彼の想いが向けられぬ日が来るとしても、きっと変わらず愛しているだろう。

 永遠に変わることはない。

 だから、聞く必要などないのだ。


 誘惑に耳を貸さぬ彼女に、赤獏は引き攣れた笑い声を上げた。

「聞けばいい。聞いて知ればいいのだぁ。そうすればお前も、あの男を恐れるだろぉ」

「恐れる? どうして?」

「あの男がお前をどうしたいと思っているかぁ。玩具のように汚され壊されても殉じていられるかぁ?」

「そんなの、好きにすればいい」


 それは、彼に与えられた当然の権利だ。

 彼女を犯すでも殺すでも好きにすればいい。そうしたいと思う欲の分、彼は彼女を愛して守るだろう。

 だから、何の意味もないのだ。このような心界での問答など。


 彼女は砂の混ざる風を払う。氷の息が、小さな唇から漏れた。

 渇きの上に、ただ立っている女。

 美しく泰然とした存在に、初めて困惑の声がかかる。


「お前は……なんだぁ?」

「さぁ?」


 それを答える義理はない。彼女は風になびく髪を優美な仕草で一つにまとめあげた。

 白いうなじから滑らかな背には傷一つない。艶めかしい肢体。真珠のような肌を晒して女は笑う。

 純化されたその姿に、赤獏は緊張を滲ませた。


「なら……あの男は何者だぁ……?」

「そんなの決まってる」


 探る問いに女は笑う。紅い唇を撫でる指がうっすらと銀に光り始める。

 底知れぬ存在。古き世から続く何か。

 青い瞳が嫣然と微笑んだ。


「私は神話正統の聖娼。ならば私のまれびととは……神その人以外ないだろう?」


 傲然とした神の答え。

 そうしてサァリは細い指で赤獏を指すと―――― 全てを貫く光を撃ちだした。



           ※



「―――― っ!」


 意識が飛んでいた。

 痛みのせいか出血のせいか、或いはその両方だろう。儀礼堂の床に伏していたエヴェリは、顔を上げた。辺りを見回す。

 床に張っていた氷は、彼女の意識が途切れたか力を使い果たしたかでただの水になっている。

 その中に映る赤獏は波紋に揺らいで、けれど気のせいでなければ苦悶に喘いでいるようだった。

「これ……」

 赤獏の声は聞こえない。ただ水に映る姿が、もがきながら次第に弱っていくと分かるだけだ。

 自分の刃は上手く刺さったのか。他にも何かがあったような気がするが、頭がぼんやりとしてよく思い出せない。

「あの子供は……」

 振り返ると乾いた土塊の山が出来ている。人を喰らう方の赤獏の残骸だろう。本体が刺されて形を保てなくなったのだ。

 エヴェリは状況を把握すると、痛む腕を伸ばして懐刀を拾った。

 もう一度、今度こそ赤獏に留めを刺そうと刃を振り上げる。


 だがそこでまた、赤い光が瞬いた。


「な……」

 赤獏が現れる前触れの光。

 その意味することは一つだ。「赤獏」とは個体の名ではない。種族の名なのだ。

 ―――― 力を使い果たしてしまった状況で、もう一体の相手は無理だ。

 エヴェリはとどめを諦めると、よろめきながらも立ち上がる。

 切り裂かれた左肩と背が焼けるように痛んだが、それに構ってはいられない。彼女は瀕死の赤獏の隣りを抜け、扉に両手をついた。体重をかけて押し開こうとしたところで―――― その手に、別の手が添えられる。

「え?」


 揺らいだ水面に、もう一つの真紅が現れた。

 それは死にゆく同胞にそっと鼻先をこすりつける。

 歪な声が、エヴェリのうなじにかかった。


「神混じりかぁ。それとも神が薄まったかぁ? 不安定だなぁ」

「っ……!」

 振り返りざま振るおうとした懐刀は、だが小さな手により止められた。エヴェリは手首を掴んで床に引きずり倒される。起き上がる間もなく肩の傷口を踏み躙られて、彼女は悲鳴を上げた。

 崩れてしまった赤獏とは似て違う姿形。赤い髪を短く刈り上げた子供は、にいっと笑う。

「見ていたぞぉ、女ぁ。お前が我等を殺すのをぉ」

「ぁ、っ……」

「さて、どうしてくれようかぁ」

 別の手が、エヴェリの足首を掴む。

 その事実にぞっとして彼女は顔を起こした。―――― そして絶望する。


 いつの間にか、水の上に五体の赤獏が映っている。

 それらは死した同族を悼むように頭を垂れており、だがそのうちの一体が、エヴェリを探すように頭を巡らせた。

 また別の手がエヴェリの髪を掴む。遠慮のない力が彼女の四肢を別々に捕らえた。

 五体の赤獏。五人の土塊。人を嬲るだけの人食いが彼女を見下ろす。

「引き裂いて喰らうしかあるまいなぁ」

「腹を開けて血を撒き散らしてやろうぞぉ」

「おうおう。恐がっておるなぁ」

「愛らしいなぁ。せいぜい泣き叫べばいいぞぉ」

「……誰が泣くものか」

 小さく吐き捨てて、エヴェリは目を閉じる。

 ―――― もう自分は助からない。

 ならばこの感情の一滴さえやりたくなかった。己は全て、彼のものだ。たとえ腹を裂かれ蹂躙されようとも、無残な死体になろうとも、それは変わらない。

 エヴェリは深く息を吸った。痛みを思考から追い出す。心を消す。

 ただそれでも消せなかった恋情で―――― 彼女は小さく、男の名を呼んだ。



 無音。

 白光が走る。

 それはエヴェリの視界を刹那焼いて、次に見た時は一面の空が広がっていた。



「……あれ?」

 自分は儀礼堂の中にいたはずだ。それとも死の痛みで狂ってしまったか。

 だが、そう思って左右を見回すと、彼女が倒れているのは白い石床のままだ。

 手足を掴んでいた赤獏の姿もない。ただ分かることと言えば、儀礼堂の二階から上が消失しているということで―――― その意味を理解した時、伸びてきた腕が彼女を抱き上げた。

 エヴェリは逆光の下、その人物を見上げる。

「あ……」

「遅くなった」

 それだけしか彼が口にしなかったのは、とめどない怒りの為だろう。

 軍服姿のシシュは、抱き上げた女の肩と傷を一瞥すると眉を顰める。彼は嵌めていた手袋を歯を立てて外すと、そのまま自分の掌を噛み切った。

 唖然とするエヴェリの肩に、シシュは血の染み出した掌を当てる。

「殿下……」

「染みるかもしれないが我慢してくれ。立てるか?」

「はい」

 足は幸い折れていない。恐る恐る地に足をつく彼女を支えると、シシュは背の傷にも手を当てる。

 その間に肩を見ると、切り裂かれた傷口は薄く氷が張ってその下は既に塞がりつつあった。

 体液に力があるとは、こういうことだったのだろう。染みるというより氷を当てられたような痛みはあるが、それもすぐに体の底に染み落ちて分からなくなる。

 シシュは他に傷がないことを検分すると、彼女の頬に触れた。痛みを含んだ眼差しがエヴェリを見つめる。

 怒っているようにも、傷ついているようにも思える目。

 その目に彼女は言葉を詰まらせた。

「殿下、あの」

「―――やれ、恐ろしやなぁ」

 その声に、エヴェリはびくりと身を竦める、

 だがシシュは微塵の動揺も見せなかった。彼は腰の刀を抜き直す。陽の光を反射して、ウェリローシアの刀が煌めいた。


 刃の光が届く先、宣誓台の周囲に五人の赤獏が溜まっている。

 少しずつ違う姿形。だが共通するのは、餓えているような痩せた体と赤い髪だ。


 宣誓台の上にしゃがみこんでいる一体が、にやにやと笑った。

「嫁を傷つけられて業腹なのよのぉ」

「怒りに焼かれてしまいそうじゃなぁ」

 次々に上がる耳障りな笑い声。だがシシュはそれに何の反応も見せない。

 ただエヴェリを置いて、一歩前に出た。背後の彼女に言う。

「そこにいてくれ」

「……はい」

 エヴェリは後ろを振り返る。扉は支える壁を失って倒れていた。その上部は鋭い刃物で斬られたようにすっぱりとなくなっている。周囲の壁もそれは同様で、彼女はドレスの裾を手繰り寄せた。

 シシュは赤獏たちへと言い放つ。

「全員で来い。時間が惜しい」

「言うよのぉ、若輩が」

「強者の戯れじゃ。やれ、神は恐ろしい」


「―――― 二度言わせるな」


 静かな一言は、その場の空気を打ち据えた。

 赤獏たちは押し黙る。

 場が膠着したと思ったのは一瞬、宣誓台にいた一人が足に力を籠める。

 そのまま跳躍しようとした彼は―――― だが宣誓台の上で真っ二つになった。

「あ……?」

 血肉を撒き散らし、左右に分かれて落ちていく同胞を、他の赤獏が唖然と目で追う。

 離れた場所から刀の一振りだけでそれを為した男は、他の四体へと言った。

「来い」

 それが、神からの宣戦だった。



 並んだ石椅子が硝子のように割り砕かれる。

 振るった爪でそれを為した赤獏は、だがそこに誰もいないことに気づいて首を捻った。

 一瞬の空隙。別の一人が叫ぶ。

「退け! 馬鹿者!」

 けれどその警告は、当の本人には届かない。

 空を斬る刃。傾げた首がごろりと落ちる。遅れて倒れ伏す体が、その首に重なった。シシュは崩れ去る赤獏の脇を抜け、前に出る。

 無慈悲に、迷いなく振るわれる力。

 無駄のない足捌きが、刀の鋭さが、エヴェリの目を奪う。

 次々と赤獏を刈り取っていく氷刃。その容赦のなさを恐れるより先に―――― 彼女はただ、美しいと思った。



 エヴェリはドレスの裾を掴んで彼を見つめる。

 相手が複数であっても、彼の足下には及ばないのだ。両者の力の差は歴然だと、エヴェリの目にも分かる。

 ―――― これならば、すぐに決着はつくだろう。

 彼女は安堵に身じろぎをする。その爪先が小さな水音を立てた。その音で、彼女は思い出す。

「……あ」


 赤獏の真の姿は、水の中にのみ現れる。

 土塊の体を倒しても、新たな土塊が現れるだけだ。

 だからこそエヴェリは自分を囮に赤獏を迎え撃った。

 ならば、ここで他の赤獏たちも逃がすことは出来ない。


 エヴェリは石の破片だらけの床を見やった。すぐ傍の水面に、ちらちらと赤い毛皮が見える。袖の中の懐刀を彼女は握りなおした。

 ―――― これ以上逃がしはしない。

 彼女は逡巡なく駆けだす。振るい上げた刃を水面に突き立てる。

 だがそれは、赤い毛皮の端を縫い留めただけだ。驚き、逃れようとする赤獏に、エヴェリは膝をついて両手を伸ばす。白い十指が水の中に沈んだ。

「逃がさない」

 水面を通じ、乾いた世界にまで届く手。

 エヴェリの指が没したところから、水面はたちまち凍っていく。それは石床に霜を張り、他の水溜まりにまで伝わった。

 青く光り始める瞳。彼女の指が赤獏の実体に食い込む。声なき悲鳴が上がり、けれどエヴェリは止めなかった。別の水面から次々に断末魔の叫びが上がる。


 振り返ったシシュが、彼女の名を呼んだ。

「エヴェリ?」

 遠くに聞こえる声。

 その響きに彼女は安堵する。もう大丈夫なのだと、安心する。

 そうして彼女は誰もいなくなった心界から己の手を引き抜くと―――― ようやく意識を手放した。

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