第160話 懐刀
虫が全て殺された後、王都には見せかけの静寂が訪れた。
干からびた死体も、食い散らかされた死体も現れない。だがそれが束の間のことだと分かっている人間もいる。
式を翌日に控えた日の午後、エヴェリは中庭に出たところで目的の人物を見つけた。
中庭を行く顔色の悪い女と、彼女に寄り添う侍女。
イスファの王女ミヒカは、エヴェリに気づくとぎょっと足を止めた。元々の顔色が更に蒼白になる。
ヴェールで顔を隠したエヴェリは、膝を折って挨拶した。
「先日はお世話になりました」
「っ……」
何も返せる言葉がないのだろう。押し黙ったミヒカに変わって、侍女の少女が頭を下げる。彼女の提げた花籠には色とりどりの花が摘まれていた。
エヴェリは立ち尽くす王女に問う。
「国にはいつお戻りで?」
「……明日。あなたたちが式を挙げた後よ」
「旅路の健やかなることをお祈り申し上げております」
本来ならば、式にはミヒカも参列するはずだった。
だが王がそれを止めたのだ。当然のことだろう。一礼して去っていこうとするエヴェリに、ミヒカの固い声が聞こえる。
「あなたは本当にあんな男と結婚するつもり? 人間じゃないわ。五尊と変わらぬ化物でしょう」
「勿論、そのつもりでおりますが。わたくしの恋う方を侮辱なさるのはおやめください」
「……あなたも同類でしょう」
「わたくしは、ただの人間ですわ」
体の中に息づく冷気をエヴェリは意識する。
だがそれを表に出してはならない。彼女はあくまで、彼に付随する無害な一人間なのだ。
鼻白むミヒカに、エヴェリは礼をする。
「それではわたくしはこれで。明日は早朝から儀礼堂での勤めがありますので」
「勤め?」
「禊のようなものです。花嫁が一人で祈りを捧げるのですわ」
神にではなく己と向き合う為の祈りの時間。
それは式の日の朝に花嫁が行うとされている儀礼の一つだ。その間、儀礼堂にはシシュをはじめとして誰も立ち入らない。
公表もされていないその話に、ミヒカは陰惨な微笑を見せる。
「好きにすればいいわ。あなたが人でいられる最後の時間よ」
吐き捨てられたその言葉に、エヴェリは何も返事をしなかった。
※
「ね、フィーラ。おかしくない? 大丈夫?」
「大丈夫よ。自信を持ちなさい」
何度念を押しても同じことを聞いてしまうのは、浮足立っている証拠だろう。
エヴェリは大きな鏡の中を覗きこむ。
首から指先までをぴったりと覆うレース。純白のドレスは息を飲むほどの刺繍の花弁を広げながら、長い裾へと繋がっている。エヴェリはしきりに後ろへと引きずる裾を振り返った。
「これ、裾が床につかないようにならない? 汚したくないんだけど」
「無茶を言わないのよ。そういうものなのだから」
「でもせっかくフィーラが刺繍をしてくれたのに……」
この婚礼衣裳の刺繍は全てフィーラが針を刺したものなのだ。それを惜しむエヴェリに、だが本人は満足そうに笑う。
「あなたが袖を通して、そう言ってくれるだけでわたしは満足。あなたは誰よりも美しいわ、エヴェリ」
普段は厳しい従姉がそんな風に言ったなら、もう拘泥は出来ない。
エヴェリは泣きそうになるのを飲みこむと、黙って頷いた。
静かに過ぎていく時間。彼女は水時計で時間を確かめる。
「……ね、あのお願いって、ちゃんとなってる?」
「なっているわ。城から逃走する手筈も必要かしら」
「それはいいの。逃げないから」
フィーラは、エヴェリが新床で夫を刺して逃げだすとでも思っているのだろうか。
だがそんな予定はまったくない。待っているのは別のものだ。
最後にフィーラの手で、たっぷりと生花が縫い付けられたヴェールを下ろされたエヴェリは、円状に広がるドレスを引いた。
「じゃあ、行ってくるね」
「気をつけて。何かあったら声を上げるのよ」
「大丈夫」
控室から儀礼堂までは、庭を横切るだけだ。
この部屋を出た時点でもう花嫁の禊は始まる。だから決められた時間まで部屋を出ない従姉を、エヴェリは最後に振り返った。
「ね、フィーラ。今、ひょっとして幸せ?」
シシュに言われたそんな言葉を思い出し問う彼女に、フィーラは一瞬目を丸くした。だがすぐに美しく相好を崩す。
「あなたが生まれた時からずっと幸せだわ、わたしの姫。―――― 幸福な時間をありがとう」
それはまるで、まもなく醒める夢を愛しむような、胸の痛くなる笑顔だった。
早朝の庭は、まだ薄暗い。
静寂に包まれた景色は、未だ全てが眠っているようだ。
そんな沈黙の被膜に包まれた中を、エヴェリは一人歩いていく。
―――― まるで世界で生きているのが、自分だけのようだ。
彼女を娶る男の存在も、今は感じない。彼はこの儀礼のこと自体を知らないのだ。
これについて知っているのは、王とフィーラ、そしてエヴェリ自身だけだ。
「……あ、他にもいるか」
言いながら彼女は、儀礼堂の扉を開けた。
真白い石の床の上は、磨かれて天井を映すほどだ。それを見ながらエヴェリは真っ直ぐに宣誓台へと向かう。
長い裾が、優美な線を描く。ヴェールから零れた花弁が一枚、床の上に落ちた。
そうしてエヴェリはついに、宣誓台の前に立つ。
そこには花の生けられていない大きな花器が、銀の燭台の代わりに置かれていた。
ドレスの裾を手繰り寄せたエヴェリは高い天井を見上げる。白い壁に、ちかちかと赤い光が反射して瞬いた。
誰もいないはずの儀礼堂に、誰かの声が響く。
「古い鳥籠を儚んでいるのかぁ?」
高い、調子はずれな声。
性別も年齢も分からぬそれに、エヴェリは驚きもせず振り返った。
扉の前に立っているのは、痩せ細った赤い子供だ。エヴェリは三人目の赤獏に無言のまま対峙する。
その態度に、赤獏は大袈裟に首を傾いだ。
「どうしたぁ? 逃げないのかぁ?」
「お前が私を狙っていることは分かっていたから」
ずっと、視線を感じてはいたのだ。
そもそも前回対峙した時も、赤獏はエヴェリを探してあの屋敷に現れた。
城に移ろうとも大差はなかったのだ。ただシシュの手の届かないところで彼女を殺せるかが肝要だっただけで―――― 今日まで待ったのは、それがまさに婚礼の当日だったからだろう。
赤獏は、にやにやと品のない笑みを見せる。
「なのにのこのこ一人になったのかぁ。不用心だなぁ」
「別に。今日来るって分かってたし。あなたが欲してるのは人の感情。だから式の日に私を殺してあの方の感情を得たかったんでしょう? でもあの方がいると殺されるから、来るなら今しかない」
エヴェリは後ろに一歩下がる。その背が宣誓台に触れた。
逃げ場のない状況に、赤獏は鼻を鳴らす。
「それがどうしたぁ? あの男は来ないぞぉ」
「知ってる」
彼がこの儀礼を知っていたなら、エヴェリを決して一人にはしない。
だがそれでは駄目なのだ。何度でも現れ続ける赤獏の尾を掴むことは出来ない。
だから、彼から強すぎる守護を借り受けることもできない。自分は―――― 格好の餌なのだから。
エヴェリは緊張で固まりそうな息を吐き出す。人喰いの獣を見据えて、言った。
「お前をここに招いたのは誰?」
「さぁなぁ。忘れてしまったなぁ」
にっと赤い口が裂けるように開かれる。答える気のない赤獏に、エヴェリはヴェールの下で眉を顰めた。冷気を腹に留めながら、息をつく。
「ならいいわ。後でもう一度聞くから」
「首だけになってかぁ? 可愛い囀りが聞こえなくなって、あの男も落胆するだろうなぁ。神の絶望はさぞ美味だろうよぉ」
その嘲りに、エヴェリはぎり、と奥歯を噛む。
最初から、狙いはエヴェリだった。
だがそれは、彼女が彼の妻となる女だからだ。
つまり、最初から赤獏の狙いは彼の怒りと絶望だったのだろう。
そんな夫への狼藉を、ウェリローシアの女が許すはずがない。
ならばあれは―――― 自分の敵だ。
エヴェリはヴェールを跳ね上げる。
青い瞳が、激しい感情を孕んで赤獏を睨む。
「ほざけ獣が。お前の首を持って、あの方に嫁いでやる」
「いい度胸だぁ」
赤獏が、床を蹴って跳躍する。
それと同時にエヴェリは、空の花器に手をかけた。勢いのままに、両手で持ったそれを床へと投げつける。
陶器の割れる音と共に、通路に零れだしたのは中に湛えられていた水だ。
傾斜の上を流れだす水を追って彼女は駆けだした。
だがその時、頭上に赤獏の爪が振りかかる。
首を抉り取ろうとする爪に、エヴェリは叫んだ。
「―――― 触れるな!」
裂帛が、吐かれた冷気となって赤獏を打ち据える。子供のような体は宙で弾かれて、並んだ石椅子へと叩きつけられた。
けれど人外にとって、その程度は致命傷にもならない。単なる時間稼ぎだ。エヴェリはもどかしく裾を引いて、陶器の破片の中へと手を伸ばした。
花器の中に忍ばされていたもの―――― それはウェリローシアの紋を持つ懐刀だ。
シシュの持つ刀と同種の武器を、エヴェリは頼んで蔵から持ってきてもらったのだ。彼女は黒塗りの鞘を素早く拾い上げる。
流れ出す水はその時、薄い帯となって扉へと一直線に広がっていた。
その帯が続く先―――― 白一色の床の上、扉の前に真紅が見える。
輝くばかりの毛並みに目のない獣。熊に似た人喰いの異形。
水だけに映るそれが、赤獏の真の姿だ。
エヴェリは紅い獣に向けて走る。白いドレスの裾が水を吸って広がった。
子供の姿の赤獏がゆらりと起き上がる。
「女ぁ……」
エヴェリが踏む水が、ぴきぴきと音を立てて凍っていく。
けれど彼に借り受けた力は、正面から赤獏と戦えるようなものではない。
だから―――― 本体を叩く。
実体を持たぬ赤獏は、盲目の獣なのだろう。何かを探すように頭を振って、だが正面から走って来るエヴェリには気づかない。
彼女よりも速く濡れた通路を走る氷が、ついにその体を捉えた。
―――― あと一歩。
その瞬間、エヴェリは何かを感じて自ら横に転がる。
鋭い爪の一閃がヴェールを切り裂き、肩口を掠めた。鮮血が飛び散り、激痛が走る。
「っ……!」
―――― ここで足を止めてはいけない。
エヴェリは手に持った短剣で空を薙ぐ。
それは小さな剣閃となって、だが子供姿の赤獏は難なく避けた。エヴェリはその間に立ちあがる。氷に閉ざされた赤獏へと床を蹴った。
頭の中が熱い。
一瞬がやけに長く思える。
彼に、想いを告げなかったのは、自分がここで死ぬかもしれないと思ったからだ。
心を交わして夫婦になって、それでも失われれば、きっと長く残る棘になる。
そんな風に彼の中に残りたくないのだ。ただ小さな花が咲いて枯れるまでの間、覚えていてくれればいい。
それに心残りがあれば―― 自らも命を惜しむだろう。
「この……!」
残りの距離を詰める。
氷の中に見える真紅の獣めがけて、エヴェリは両手に持った懐刀を振りかぶった。
青い双眸が、月と同じ光を帯びる。
たちまち氷の張る薄刃。
けれどそれが赤獏に突き刺さるより先に、エヴェリの背中に焼けつくような痛みが走った。
「ぁあ―――」
血の飛沫が床を濡らす。
気が遠くなる。
視界が赤く焼けて、だがエヴェリは懐刀を離さなかった。襲い掛かろうとする爪を刃の一閃で払う。反動でぐらりと足が震えた。
染まっていく純白の衣裳。折角フィーラが作ってくれたのに、と思う。
それでも、終わるならこのドレスでいたかった。
エヴェリは足下の氷に閉じ込められた赤獏を見下ろす。
そして彼女は、血の滲む息を吐いた。
「滅びよ、下賤の獣よ。私の命をくれてやる」
迷いはいらない。
彼にもらった力を全て注ぎこむ。
そしてエヴェリは息を吐き切ると、真紅の獣に刃を突き立てた。
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