第159話 忘我


 部屋の窓辺に置かれているのは、白い小さな花の鉢植えだ。

 それは一週間前シシュにもらったもので、でもその時は武骨な茶色の鉢に入っていた。

 今、当の鉢が、月の意匠をあしらった美しいものになっているのは、彼が再び「こっちの鉢の方があなたに似合うから」と持ってきてくれたからだ。「鉢が似合う」というのはどういうことか不明だが、彼にとっては装飾品も小さな鉢も変わらず「彼女の持ち物」なのだろう。

 だからエヴェリは、自ら植え替えた小さな鉢植えを大事にしている。

 人には無粋と言われることもある彼だが、その一つ一つには理由があると分かってきたからだ。

 彼女は鉢の土に触れ、湿り気があることを確認すると、それを日の当たる場所に移動させた。

 そうしてあわてて部屋の外へと戻る。そこには彼女の夫になる青年が待っていた。

 シシュは戻ってきた彼女に頷く。

「呼び出してすまない」

「いえ、当然のことですわ、殿下」

 エヴェリは微笑んだが、それはヴェールの下で分からないはずだ。

 彼の前では顔を見せることが多いが、誰が通るか分からない通路でそれをすることはしない。

 毎日のように、彼に呼び出されてお茶を共にするようになっているエヴェリは、ヴェールの下でそっと彼を見上げた。小さな吐息が落ちる。


 ―――― 自分の心だけを考えるなら、答えはもう分かっている。


 エヴェリは前を向き直した。

「今日のお話はお決まりですか」

「いや……それが決まってないんだ。すまない」

「お謝りになるようなことではありません」

 シシュが毎日のように彼女を呼び出してすることは、基本的には「話し合い」だ。

 だがそれも続けば議題がなくなったのだろう。彼は窓越しに緑の庭へと視線を投げる。

「言いたいことは全て言った気がするんだが、何一つ言えていない気もする」

「そうでしょうか」

 憧れていたことは十二分にもらった気がする。そして欲しいと思っていたものも。

 彼は当然のようにそれを持っているのだ。そうして真っ直ぐに立つ姿に惹かれている。

 シシュの声が、遠く張られた糸のように響く。

「あなたの望むことを汲みたいと思った。口に出せずとも、あなたの意思と食い違うとしても、その望みを無視したくないと思った」

「……勿体ないお言葉です」

「本当はだからずっと、俺自身よりあなたを優先するつもりなんだ。―― でもそれだけだと足りない時がある」

 彼の言葉は、自分よりもずっと遠くを見ているようだ。

 そして、エヴェリの奥底にまで沁み込んでいく。彼自身が気づかなくても、彼女の芯に触れるのだ。

「愛している」

 息を止める。何度目かに聞いたその言葉は、だがいつも変わらない。

「だから、愛して欲しいと思う」

 愚直な望み。己を欲してくる真っ直ぐさに、エヴェリは止めた息を飲み下す。体の底に未だ残る冷気が、静かに震えて存在を主張する。


 ―――― こういうことを真顔で真剣に言ってしまう辺り、彼は素で直線的な性格なのだろう。

 エヴェリはヴェールの下で微苦笑した。

「愛されていることが、愛する理由にはならないのですわ」

 自分の心だけと向き合って、分かったことの一つがそれだ。心を贈られるから心を返したくなるわけではない。愛情を得ることが大前提という考え方もあるのだろうが―――― 少なくとも自分はそれだけではないと願うのだ。

 エヴェリは言ってから、彼を不快にさせたかと思う。そっと顔色を窺うと、シシュは穏やかに微笑していた。

「そうだな。あなたはそういう人だ」

「……失礼を申し上げております」

「いい。俺の方が無理を言っているんだ」

 そう言う彼は、彼女の自由を認めている分、自分の落胆を背負い込むつもりがあるのだろう。

 少し困ったような微笑に、エヴェリは思わず口を開いた。

「殿下、あの――」

「うん?」

 黒い瞳に見返される。

 彼女はその目に、口をつきかけた感情を飲みこんだ。

 まだきっと早いのだ。結果によっては長く残る棘になってしまう。だから彼女はヴェールの下で目を閉じた。

「いえ。もう少しきちんと言葉にできたら申し上げます」

「そうか……」

「あと、今日はわたくしからお願いがあるのです」

「お願い?」

 それを口にするには、勇気がいる。

 だがちっぽけな勇気以上のものも、彼は当然のように自分へと費やしてくれているのだ。

 だからエヴェリは、躊躇いを乗り越えて言った。

「殿下、わたくしにあなた様の息を。……あの時のように分けてください」




 沈黙は、長く続けば続くほど精神に圧力をかけてくる。

 もうあと数秒それが長かったら、エヴェリは反転して自分の部屋に逃げ帰っていただろう。

 だが、爪先に力を入れかけた時、シシュがようやく口を開く。

「それは……理由を聞いてもいいだろうか」

「護身の為です」

「そうか………………」

「いえ、本当にあの……申し訳ありません」

 全力でがっかりされると、申し訳ない気分でいっぱいになる。

 エヴェリは改めて理由を口にした。

「殿下もお忙しいですし、不測の事態があった時、わたくしが足を引っ張るようなことになってはと思いまして」

「ああ……そうだな」

 敵はおそらくは複数なのだ。一つの相手の対応に追われているうちに一つに彼女が行き会っては、と思ったのだろう。

 あっさり納得するシシュを、エヴェリは見上げる。

「ああして頂けると、わたくしには殿下のお力の欠片が宿るのでございましょう?」

「俺の力というか……まぁ、そうだな。普通なら息は長く留まらず散ってしまうが、あなたは力と親和性が高いからそのまま残る」

「わたくしが、ですか?」

 それは赤獏に神嫁と言われたことと、きっと関係があるのだろう。

 しかしシシュは、怪訝そうな彼女には答えず苦笑した。

「でも、あなたは俺の力を恐がらないんだな」

「それは……殿下はそういう方なのだろうな、と思っておりますので。当たり前のことでございます」

 彼の異能について驚くことはない。そういう存在なのだと知るだけだ。知って、受け入れる。そこに苦を感じたことはない。

 エヴェリはふと、隣の彼が足を止めたことに気づいて顔を上げた。

「殿下?」

「いや……こういう気分か。なるほど」

「何がですか」

「何でもない」

 口元を押さえた彼は、穏やかに笑む。

 エヴェリはむきになって聞き出したくなったが、それは本題ではない。脱線していきそうな話に不安を覚えて言い直した。

「殿下、それで今の話なのですが」

「ああ、そうだな……。本当は体液の方が力があるんだが。血を飲むとか」

「それはちょっと」

 彼に血を流させるのは本意ではない。それに―――― 強すぎる守りでは意味がないのだ。



 再び沈黙が流れる。

 だがエヴェリが居心地の悪さを覚えるより先に、シシュは重く頷いた。

「分かった。じゃあ誰か立会人がいるところで――」

「嫌です」

 まったくもって、彼の考えは意味が理解できなかった。



           ※



 城にあるシシュの部屋は、広いが物がほとんどない。

 必要最低限の椅子とテーブルがあるだけの室内は、客室よりも余程簡素だ。勿論、寝室などの続きの間はあるようだが、彼自身あまり物を必要としない性質なのだろう。机の上に積まれた書類をエヴェリは興味深く眺める。

 戸口から苦笑が聞こえた。

「特に何もないんだ。寝に戻るだけだから」

「殿下、閉めてください」

 また扉を開けたままにしようとしていたシシュに、エヴェリは釘を刺す。彼は渋々それに従った。

「本当に、人がいた方がいいと思うんだが」

「嫌です……」

 そんなことになったら、恥ずかしさで死んでしまう。

 護身の為とは言え、はたからどう見えるかは人には理解されないのだ。

 これに関しては頑として譲らないエヴェリに、シシュは深い溜息をついた。その様子に彼女は不安になる。

「やっぱり、ご迷惑でした?」

「いや、自分を信用してないんだ。いざという時にはあなたの保護者に殴打されるくらいがいい」

「フィーラに見られたら死にます……」

 七つ年上の従姉は、いわばエヴェリの母親代わりなのだ。そんな人間に見られたくないこともある。今まではほとんどなかったが、シシュに出会ってからはよく思うようになった。

 シシュは椅子に歩み寄ると、それに座る。

「あなたは、従姉を大切に思っているんだな」

「それは、ええ。大事な家族です」

「ならよかった。今回は苦労もかけたが、彼女は幸せだろうな」

 微笑む彼は、フィーラを苦手としているようだが、それでも彼女たち家族を理解してくれているのだろう。


 顔色が落ち着いたエヴェリは、ようやくヴェールを上げる。

 椅子に座る彼までは、十歩ほどだ。その十歩が、嫌になるほど遠かった。

 シシュはばつが悪そうに言い訳する。

「ここから立たない、ようにする」

 それは彼が自身を律するためなのだろうが、「自分で来い」と言われているも同然だ。彼自身にそんな意図はないのだろうが、試されている気分になる。

 エヴェリは破裂しそうな心臓を無視すると、足音を立てず一歩を踏み出した。

 ―――― そうして雲の上を歩いているような気分で、彼の前に立つ。

「跪きましょうか、殿下」

「やめてくれ……あなたに膝をつかせて喜ぶ趣味はないんだ」

 伸びてきた腕が、彼女の手を支える。その手に引かれて、エヴェリは彼の足の間に膝立ちになった。膨らんだドレスの裾で椅子が見えなくなる。

 彼の胸に手をついて整った顔を見下ろすと、黒い双眸の奥が何処かに繋がっている気がした。

 頬に手が添えられる。ひんやりとした掌にエヴェリは目を閉じる。

 そうして触れた唇の間から―――― そっと氷の息が吹き込まれた。


 冷気が腑に落ちていく。

 だがその冷たさとは逆に、エヴェリの躰は熱を持った。

 くらくらと眩暈がして、天地が分からない。二度目の息はそんな彼女の全身を痺れさせ、何処か遠くに引いていくようだった。

 伸ばした指が、彼の服を掴む。細い腰を大きな手が抱いた。

 息を継ぐ。それが神のものか人のものか分からない。

 混ざりあって溶ける。

 触れ合って交わる。

 息ではなく、奥にまで触れてくる熱。その想いに支配される。

 潤んだ視界に、彼の眼差しが見えた。焼け付く感情が全てを侵食する。

 エヴェリはそうして再び目を閉じて己を預けながら、「今死んでもいい」と思った。



 目を開けた時、彼女の体は膝の上に抱き上げられていた。

 椅子から落ちないように緩く抱き留めてくれている腕。だがその本人は、彼女の肩に額を預けたまま動かない。

 エヴェリは息を整えると、そっと彼の名を呼んだ。

「シシュ様?」

「いや……何でもない」

「何かあるなら仰ってください」

 口付けを繰り返している最中も、彼は時折何かを言いたげだったのだ。

 だがそれを飲みこんだまま力尽きてしまったらしい。今までにも何度か折に触れて言葉を濁されていたエヴェリは、彼の胸元を指で引っ張った。

「仰ってください。何ですか」

「何でもない……」

「教えてください」

 婚約者としては大人しく退くべきなのだろうが、ひょっとしたら聞ける機会がもうないとも分からない。

 教えて教えてとねだるエヴェリに、シシュはずっと言い渋っていたが、観念したように口を開いた。

「式が今日だったらいいと思った。寝室に連れて行きたかった」

「……来週です」

「知っている……」

 花瓶を割ってしまった子供のように、気まずい顔で彼はエヴェリごと立ち上がる。

 そうしてシシュは白い額に口付けると、真っ赤になった彼女に「愛している」と笑った。

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