第158話 皿影


 路地裏の地面に倒れているのは、干からびた人の死体だ。

 全身の血を失い目を見開いて仰臥している男。おそらく元々は二十代だったのだろうが、こうなっては老人同然だ。

 死体を苦い顔で覗きこんでいたタセルは、上官が戻ってきた気配に顔を上げる。

 軍刀ではなくウェリローシアの刀を提げた青年に、タセルは問うた。

「どうでしたか、殿下」

「やはり虫だった。殺してきたが……あと二体か」

 赤獏が現れる以前から王都を襲っていた怪死事件。それら被害者の振り分けからおおよそ敵を七体と見積もったシシュは、虫の動きを読んで街を張ったのだ。

 氷が薄く張った刀を鞘に戻しながら、シシュはかぶりを振る。

「使役者が見つかればと思ったが、中々そこまで都合よくはいかないな……。何処かで虫に接触する気だろうとは踏んでるんだが」

「接触ですか。何のためにですか?」

「血を受け取る為に」

 その言葉に、タセルはぎょっと足下の遺体を見た。シシュの平然とした声が聞こえる。

「アイリーデで、虫に取りつかれた娼妓が血を吐いて死んだのを覚えているだろう?」

「ああ……あれですか」


 おそらくは一生忘れることがない壮絶な記憶だ。

 血だまりがたちまち黒い砂となって消えていった光景――その時のことを思い出すタセルに、シシュは頷く。


「あの時、食らわれた側の人間はほぼ綺麗に消化されていた。おそらく人の血肉自体が食らったものの血に溶け込むよう作り変えられていたんだろう。遺体は短期間で餓死して、失われていたのは血だけだった。―――― ではその血は何処に行ったと思う?」

「何処に……と言われても……あの時は地面に溶けていたような」

 黒い血が消えた後、地面はすっかり乾いていたのだ。染みこむにしても早すぎるとは思ったが、何処もかしこも異様な事態でそこに引っかかりは覚えていなかった。

 シシュはタセルの言葉に頷く。

「あの変色は虫が血を持ち去った為だろう。だがそれを受け取っていたのは白羽ではない。白羽は常に『食われる側』だった。彼女は、そうして感情だけを得ていたんだ」

「…………あ」

「そうでなくても、白羽の性質を聞けば人の血を集めていたのではないと分かる」


 フィーラの話いわく、五尊の雪歌は、白い鳥の姿をした種族で、雪より生まれ雪に溶ける儚い存在なのだという。その性質としては、水だけで千年を生きると言われており、人の血は必要ない。

 つまり―――― アイリーデのあの事件にはまだ別の存在が関わっていたのだろう。


「殺されているのは、七日に一人だ。それが七体。理論的に言えば、使役者には毎日血液が供給されていることになる」

「……ぞっとしない話ですね」

「だから、その現場に出くわせればとは思ったんだ。そうでなくとも虫を始末していけば供給が断たれる。相手の反応が見られるはずだ」

 端整な顔の表情一つ崩さずそんなことを言う上官に、タセルは空恐ろしさを覚える。

 サァリーディを妻とし、異能を身に着けた彼はやはりもう、尋常な人間ではないのだ。

 そこまで考えてタセルは―――― もう一つの懸念を口にする。

「では、レノス殿が行方不明になっている件は……」

「…………」


 シシュの同級であった士官のレノスは、エヴェリが襲われた日から行方不明になっている。

 ミヒカ王女の話では、「今のこの事件を解決する為にはウェリローシア当主との話し合いが必要」とレノスを抱き込んで、ウェリローシアに迎えに行かせたというのだ。だがエヴェリを隠れ家に拉致した後、彼の姿は忽然と消えてしまった。見つかった死体の中にもレノスの姿はなかったのだ。

 王は、ミヒカが彼に接触したことを知って見張りをつけていたらしいが、その後のことは知らないという。

 不穏しかもたらさない現状に、シシュは眉を顰めた。


「見つかれば事情が聴ける。だからとりあえずは探すしかないな。勿論、敵の一人であるという可能性はあるが」

「そうでないことを祈ります」

 タセルの励ましに苦笑する彼は、既に元の彼だ。何だかんだで友人が心配なのだろう。

 そんな上官に安堵して―――― だからタセルは、何の他意もなくこれからのことを口にした。

「そう言えば、彼女との式はもう来週ですね」

「……そうだな……いつの間にかな……」


 途端にがっくりとシシュが項垂れてしまったのは、おそらく肝心の結婚相手との関係がまったくもって一進一退だからだろう。

 城で暮らすようになったエヴェリは、シシュとは明確に一定の距離を保っている。傍から見て他人行儀だとも思うが、彼女にとっては他人なので仕方ない。

 ただそれでも――

「彼女は、殿下に惹かれているのだと思いますよ」

 エヴェリの態度の硬化は、言わば好意の裏返しだ。

 もし彼女がアイリーデの自分の存在を知らなければ、無垢な令嬢として憧れを抱いたまま彼に嫁いだのだろう。事態がややこしくなっているのは彼女の自業自得だが、それをシシュが必要以上に気にすることはないと思う。


 だが、そう言っても妻の気持ちに疎い彼の表情は晴れぬままだ。

「式までに何とかしたいと思ってはいたんだが」

「子供なんでしょう。自分だけを見て欲しいなんて」

「俺はずっとそうしてきてはいたんだ……」

 落胆しているシシュには悪いが、基本的に彼は空回りしている。この間も、何に使うのかよく分からない植木鉢を土産に贈っていた。あれで何処に何が進展すると思ったのか聞いてみたい。


 ただ空回りしていたとしても―――― どのみち来週には二人は夫婦に戻るのだ。

 そうすれば本来の彼女が解放される。彼女が今のこの王都に現れたなら、些末を気にせず全てを一掃することも厭わないだろう。

 そこまで考えて、タセルはふとアイリーデでのことを思い出した。

「今の殿下が彼女の代理人というなら、巫舞に相当することも出来るのですか?」

 以前の事件で街中の虫を炙り出したサァリの巫舞。あれと同じことが出来るのなら、隠れている者も暴き出せるのではないか。

 だがそんな素朴な疑問に、シシュは苦笑した。

「俺がああいうものをやるなら剣閃になる。けど、サァリーディとは力の現れが違うからな。多分範囲内の建物は全壊する」

「全壊……」

「だからまぁ、俺の方が戦いに特化はしているが、局所向けなんだ」

 そして、本来なら彼はそれで充分なのだ。ただ一人の女を守ることが彼の役目で、都市を守る為に暗躍する敵と戦うのは本分ではない。


 遺体を回収する為に兵士が現れると、二人はその場を任せて歩き出す。

 シシュは無意識なのか考えこみながらぽつりと言った。

「サァリーディは、この事態をどんなものだと捉えていたんだろうな……」

「殿下に何も伝えていかなかったなら、彼女自身にも分からなかったのだと思いますよ」

「そうなんだろうが――」

 上官はそこで言葉を切ると「サァリーディと話したいな」と零す。

 いくつかの断片が揃った上で、彼女と相談したならまた見えてくるものもあると思ったのだろう。

 タセルはあれから分かった断片を口にする。

「五尊ですが、他の青蛇と飛葉はまだ王都に来ていないのかもしれませんね」


 フィーラが調べたイスファの現状は、多種多様の怪死が溢れかえるひどい有様だったのだ。

 だがその話をトルロニアで知るものはほとんどいない。それはひとえに死者自体が統制されているからだ。

 イスファの怪死事件では、同じ街や村で立て続けに何人もが死ぬことはなく、犠牲者も多くが貧民層だ。フィーラ曰く「子供が飴玉を出来るだけ長くしゃぶりたいと思うようなものでしょう?」と言っていたが、だとしたらただ醜悪だ。

 おそらくイスファは、五尊がこの大陸に広がるための足がかりにされているのだろう。

 だから生かさず殺さずの状況で―――― けれどトルロニアにはその縛りはない。

 赤獏が無作為に人を食い散らかしたように、いつでも大量虐殺の危険は残っているのだ。


 シシュは整った顔を顰める。

「五尊か……向こうの大陸ではいなくなったと思われていたそうだが、その消え方もな……」

「雪歌は人から離れ、赤獏は人に追われ、というやつですか」

 研究者であるミヒカが語ったそれは、伝承の一節だ。


『雪歌は人から離れ、赤獏は人に追われ、青蛇は人に崇められ、飛葉は人に喰らわれ、灰は消え去った。かくして五尊を見ることはなくなった』


 いかようにも捉えられる文言は、こうなってみると種の絶滅を意味しているのではないと分かる。

 自分の考えに耽っていたシシュは―――― だがそこでふっと顔を上げた。

 何処とも知れぬ建物の向こうを睨む彼に、タセルは緊張を露わにする。

「殿下」

「……視線を感じた」

「視線、ですか……? 一体何が……」

「分からない。赤獏じゃないだろう。気配が違う」

 ―――― ならばそれは、虫の使役者ではないのか。

 タセルはぞっと戦慄したが、シシュは軽くかぶりを振っただけで歩き出す。

「一応予定通り回るが、虫ももう今日は出ないかもしれないな。適度なところで城に戻る」

「かしこまりました」

 城には、彼の花嫁がいるのだ。王都で一番安全な場所とは言え、長く離れてはいたくないのだろう。

 タセルは頷いて彼の後に続く。そうして街中を行く彼は、だがずっと誰かに監視されているような、そんな錯覚から逃れられずにいた。



                  ※



 艶やかな白い石床は、光を反射して輝いている。

 円形の儀礼堂。式に使われるそこは、城の奥庭に立つ五階建ての塔だ。

 と言っても、中は吹き抜けになっており、外周部分に細く整備用の通路があるだけだ。

 いわば巨大な空洞の角のような建物で、そこにフィーラと共に立っているエヴェリは、ぐるりと周囲を見回す。

「なんかやけに真っ白……」

「そういう場所なのだから仕方ないわ。段取りは覚えたかしら」

「うん」

 式の手順としてはそう難しいものではない。参列する人間も多くはないし、問題はないはずだ。エヴェリは王が立つ宣誓台を一瞥する。

 当日はここで王を立会人としてシシュが誓約を済ませるのだ。それを彼女は一歩後ろから待つ。

 王族の式において、女性側は大抵の場合が添え物だ。特にすることはないし、ただそこにいるだけでいい。

 顔を隠しているエヴェリなら、別人が代わりに立っていてもばれないに違いない。


 彼女は宣誓台に歩み寄ると、その上のペンに触れようとした。

 だが伸ばした袖が隣の銀の燭台に触る。そこから飾りの一粒が床に落ちて―――― 入り口に向けて通路をころころと転がった。

 一直線に転がり続け、扉に当たってようやく止まった水晶の球を、エヴェリは目を丸くして振り返る。

「壊しちゃった……びっくりした……」

「金具が緩くなっていただけよ。ここは少し傾斜がついているみたいね。宣誓台を高くするためかしら」

「陛下がいらっしゃるところだもんね」

 輝かんばかりに磨かれた白い石床は、水平にしか見えない。だが水晶球の転がりぶりを見ていると、明確な坂になっているのだろう。


 フィーラは悠然と通路を戻ると、水晶球を拾い上げる。

「ほら、いらっしゃい、エヴェリ」

「うん」

 扉の向こうはよく晴れた青空と、緑の庭だ。

 作り物のような美しい景色。外に出たエヴェリは、降り注ぐ日光から掌で目を庇う。

「眩し……」

「もうすぐ殿下も帰って来るわ」

 それを聞いてエヴェリは眉を曇らす。ここ二週間ほど、怪異に対抗する為にシシュは街に出ていることが多いのだ。

 彼の力は信用しているが、それでも何があるかは分からない。エヴェリは小さく溜息をついた。

「大丈夫かな」

「あなたが心配するようなことは何もないわ」

「ん……」

 自分に何が出来る訳ではないとは分かっている。

 それでも折に触れて歯がゆく思うのだ。彼の傍にいながら、ただ願うことしか出来ない自分に。

 ―――― そして日ごとに強くなる、ある予感に対し無力であることも。


 エヴェリはようやく日の光に慣れてきた目を細めて、手を下ろした。

 そうして庭に一歩を踏み出そうとした直後―――― 耳の後ろで囁くような声が聞こえる。


「まるで、籠の鳥だなぁ」


「っ……!」

 反射的に振り返った彼女に見えるものは、だが閉まった儀礼堂の扉だけだ。

 幻聴であったのか、余韻の残る耳元を押さえるエヴェリに、フィーラが怪訝そうな顔をする。

「エヴェリ?」

「な、なんでもない」

 いつの間にか開いてしまった距離に、エヴェリはあわてて小走りになる。

 降り注ぐ直線的な日差し。だがそれが作る影はあまりにも灰色だ。明暗の落差に不安ばかりが募る。

「早く帰ってこないかな……」


 ひしひしと身に感じるのは、ひどく本能に近しい予感だ。

 すなわち「自分が喰らわれるかもしれない」という感覚。それは赤獏と間近で対峙した時から、ずっと消えないままだ。

 むしろ、日に日に強まっている。―――― 婚礼の日を、誰かが待っているかのように。


 こんなことを人に言ったら笑われてしまうだろう。

 自分が皿に乗せられているのだと……そうして時が来るまで鑑賞されているのだと。

 この不吉な予感がエヴェリの周囲から消えるのは、彼がいる時だけだ。

 庭を行く彼女がヴェールの下で俯きかけた時、涼やかな声が響く。

「エヴェリ」

「あ……!」

 その声に軽く飛び上がるなり、エヴェリは駆けだす。驚くフィーラを追い越して、現れた青年のもとへと走った。

 彼の後ろにいるタセルが、駆けてくるエヴェリを見てぎょっと逃げ出したそうな顔になる。そのせいではないが、彼女は寸前で己の感情を飲む込むと、あわてて足を止めた。

 目の前の青年に、取り繕うように膝を折る。

「あの、殿下……」

 そうして挨拶しようとしたところで―――― 彼女は伸びてきた腕に抱きしめられた。

 優しい声が耳元で囁く。

「遅くなって悪かった。今戻った」

 温かな腕。包み込むような情に、エヴェリの不安は解けていく。大丈夫なのだと信じられる。

 彼女は美しい眉根を緩めると囁いた。

「おかえりなさいませ、殿下……」

 エヴェリはそしてヴェールを上げると、物憂げにはにかんだ。

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