第157話 答え
一通りの荷造りは済ませた。これならそのまま式の日まで城で暮らすことも出来るだろう。
問題は、この異変がいつ終わって帰れるのかということだけだ。
帰りの馬車の窓から、エヴェリは王都の街並みを眺める。
勿論、屋敷には戻りたいがそれ以上にあのような惨劇がこれ以上起きなければいい。
そんなことを考えていると、向かいに座ったシシュが切り出す。
「ところで、話し合いがしたいんだが」
「わたくしから申し上げることは何もございません」
エヴェリは表情を変えぬよう努力しながら返す。
突然彼は何を言い出すのか。それはもう終わった話なのだ。わざわざ暴いて抉りだすようなものではない。自ら進んでかさぶたを剥がそうとするのは、大人として褒められた行為ではないだろう。
そんな冷やかさが漂う返答に、シシュは軽く眉を寄せた。
「分かった。では俺が一方的に話すから、異論反論があったら言ってくれ」
「……それで殿下がよろしいのでしたら」
もう精神統御して一切を聞き流すしかない。
何を言われても沈黙を保とうと、エヴェリはヴェールの下で目を閉じた。
彼の低い声が心地よく響く。
「とりあえず……調査書の話は事実だが、その件に関してはとりあえず置いておいて欲しい」
「また!?」
タセルに言われたことと同じ内容に、つい突っこんでしまった。
素っ頓狂な叫び声をあげてしまったエヴェリは、我に返ると口を押える。
「……失礼致しました」
「いや……無茶を言っている自覚はあるんだ。でも出来るなら考えてみてくれ。俺はあなたを軽んじるつもりはないし、あなた自身を得たくて婚約している」
彼の言葉は、エヴェリの心の表面を撫でていく。
だがそれに期待することはもう出来ない。少なくとも前よりは現実を知ったつもりだ。
エヴェリは引き出しに放りこんだままの紙片を思い出しながら返す。
「そのように仰らなくても、殿下はわたくしを得られますわ」
「心が欲しい」
「っ……」
声を上げかけて、エヴェリはそれを飲みこむ。
―――― どうして彼はこんなにちぐはぐなのか。まったくもって理解できない。
彼女は熱を持つ胸を押さえる。このまま相手に振り回されていては、熱が上がって倒れてしまいそうだ。
そうやって子供の自分が彼に憧れを抱いたように。
だが、憧れだけでは先がない。
エヴェリは表情を整えるとヴェールを上げる。黒い彼の瞳を正面から見返した。
人は、どれほど感情を面に出さないでいられるのだろう。
若輩の彼女にとってそれは、自分を押し殺して無にするのと同義だ。
小さな唇が微笑む。
「心など、いくらでも偽れます」
「ならばそれが偽りでなくなるまで待つ。―――― 信じて欲しい」
譲らない視線が彼女を射抜く。その強さに、エヴェリは声を飲む。
彼の言葉には最初から偽りがないのだろう。だから彼女には返せるものがない。同じだけの強さを持っていないのだ。彼に見合うものが自分の中にはない。
エヴェリはふいと視線を逸らした。鎧戸を閉めたままの店々は、死にゆく街の一風景のようだ。
そうやって沈黙して目を閉ざして、通り過ぎるのを待っている。彼女自身がそうしているように。
「殿下は、嘘がお嫌いなのですね」
彼の性質は宮廷で生きる人間としては、ひどく変わっているだろう。きっとそのままでは損をしてしまう。それは少し、勿体ないように思えた。
彼女の述懐に、シシュは困惑した顔になる。
「どうだろう。意識したことがなかった」
「でも、ご自身は嘘をおつきにならないでしょう?」
「状況によっては、つくこともあると思う」
「たとえば?」
「…………分からない」
真剣に考えながらの答えに、エヴェリはくすくすと笑う。
きっと彼は、何だかんだで自分のために嘘をつくという選択肢がないのだ。
選ばないのではなく、思いつかない。そんなところが好ましくて……彼女はふっと物憂げに微笑んだ。
手の届かないものを見上げる時の子供の羨望。
触れてみたいと思うものに触れようとしないのは、自分が臆病だからか。エヴェリはそんな己にやるせなさを覚える。
シシュの躊躇いがちな声が聞こえた。
「あなたの……そんな表情も美しいとは思う。でも、出来ればそんな顔をしなくて済むようにしたい」
「殿下」
真摯に、正面から彼女に触れようとする姿は、あまりにも正反対だ。
その率直さに、エヴェリは胸の痛みを覚える。息苦しさに変じそうな熱がせり上がって、棘のある言葉になった。
「それは、話し合いではなく口説いているというんです」
だから、自分相手には不要なものだと―― そう釘を刺したつもりのエヴェリは、だが彼の目を見返すことが出来なかった。
少しの間をおいて、シシュはぽつりと呟く。
「……失礼した。気づかなかった」
「以後、ご注意ください」
「でも、目的としてはそれで合っているんじゃないだろうか」
「………………」
「伝わっていてよかった」
「よくありません……」
どっと疲れがきて、エヴェリはこめかみを押さえる。
ちょうどその時、馬車が速度を緩める。いつの間にか城内に入っていたらしい。
ようやく二人きりの空間から解放されるとあって、エヴェリは安堵の息をついた。
御者の手で扉が開かれると、シシュは先に降りて彼女に手を差し伸べた。
ヴェールを戻したエヴェリは馬車から降りると、軽く膝を折って礼を述べる。
「ありがとうございました、殿下。お忙しい中、お時間を取らせて申し訳ありません」
「当然のことだから気にしないでくれ」
見ると先に出発していたもう一台の馬車から、荷箱が順に下ろされている。
その中に婚礼衣裳を入れた箱があるのを、エヴェリは現実味がないもののようにじっと見つめた。
もしかしたら、こんな風にずっと現実味がないまま彼との一生を送るのかもしれない。そうしたら自分は、いつ何処で己の在り方と折り合いをつけるのだろう。
―――― 考えようとしても、今は疲れているのか何もまとまらない。
とにかく、ゆっくりと休みたいのだ。エヴェリはもう一度シシュを見上げて挨拶した。
「では、わたくしはこれで―― 」
「触れてもいいだろうか?」
「はい?」
唐突な要望に、エヴェリは目を丸くする。
そんなことをいちいち聞かなくてもいいと思うのだが、それが彼の性分なのだろう。大体分かってきた。
彼女はこくりと頷く。
「どうぞ。お好きになさってください」
姿勢を正し、顎を上げる。
だが、彼は何もしないままだ。平坦な返事を、シシュはむしろ拒否の意味だととったらしい。いささか沈んだ顔になる青年を見て、エヴェリは言い直した。
「触れてくださいな」
―――― そうしてもう、自分の部屋に帰りたい。
ヴェールの下でそんなことを考えていたエヴェリは、だが次の瞬間、伸びてきた腕に抱きしめられてぎょっとした。
きつく力がかかるわけではない。包み込むような柔らかさが全身に伝わる。
耳元で安堵の混ざった深い息が吐かれて、エヴェリの体は震えた。
眩暈を覚えそうになった時、だが彼はゆっくりと手を放す。よろめきそうになるエヴェリを支えて、彼は微笑した。
「ありがとう。行ってくる」
「……どう、いたしまして……」
赤獏対策もあって多忙なのだろう。城の建物へと戻る彼の姿を、エヴェリは呆然と見送る。
そうしてようやく一人になると、彼女は熱を持つ頬を押さえた。自分がヴェールをしていることを感謝する。
―――― そうでなければきっと、泣きそうになった顔を、彼に見られてしまったのだから。
※
「エヴェリ、おかえりなさい。大丈夫だったかしら」
与えられた部屋に戻った時、そこにはフィーラが待っていた。
家族の顔を見た途端、気が緩む。エヴェリはヴェールを取ると、子供のように寝台に飛び込んだ。うつ伏せに枕へ顔を埋める。
そんなことをすると普段なら「行儀が悪い」とちくりとやられるのだが、今日に限っては何も言われない。慌ただしい一日であったからだろう。フィーラは優しい声で問うた。
「どうだった? あなたの納得出来る答えはあったかしら」
「……分からない」
彼の誠実を、素直に受け止められればきっと幸福だろう。
だがそうしてもわだかまりはきっと消えない。
自分はきっとこの違和感を、当主として飲みこまなければならないのだ。
「だってあの人、すごく矛盾してるんだもの。大事にしてる人がいるのに、どうして私に構ってくるのかとか」
せめて儀礼的に扱われたのなら、諦めもついたし納得も出来ただろう。
だがそうでないのだから、どうしたらいいのか分からない。その辺り性格にふさわしい一貫性を求めたい。
ぽんと寝台を蹴るエヴェリに、フィーラは苦笑した。
「考えることが違うわ、エヴェリ」
「違う? って?」
彼がどういう人間か分からないことが悩みの種なのだ。
なのにそれを考えないで何を考えるのか。眉を寄せる彼女に、フィーラはくすりと笑った。
「簡単なことよ。つまり今あなたが、まったく興味のない相手から『愛しているから結婚して欲しい』と言われたら、どうするのかしら」
「断る。……断っていいよね?」
考えるまでもない、と言ってから不安になって、エヴェリは従姉を見上げる。
彼女よりもずっと世慣れたフィーラは艶やかに笑って頷いた。
「そうね。だから最後に肝心なのは、相手から愛情を向けられているかどうかではないの。あなた自身が、相手を想うかどうかなの。他のことは後からついてくるわ」
「私自身、が」
愛されていることが、自分の想いを決めるわけではない。
彼に最愛の妻がいたとしても、それが全てではないのだ。エヴェリが「それでも彼がいい」と思うのなら。
「だから、あなたはあなたのことだけを考えて決めればいいのよ。どんな屑でも好きになさい。わたしがあなたにふさわしくなるよう矯正してあげるわ」
「……それはちょっと」
フィーラに矯正されたら、その時点でもう元の人格は残っていないのではないだろうか。
枕から顔を上げようとした彼女を、けれど優しい声が諭す。
「とりあえず、今日はもう休みなさいな。疲れたでしょう」
「うん……」
言われると疲労がずっしりとのしかかってくる。目を閉じたエヴェリは、引き出しの紙片に書かれていた言葉を思い返した。
「『彼を信じなさい』って、言われたの……」
「あら、誰に?」
「私に」
馴染みの機関から届けられた調査書。その中に同封されていた封筒には、他でもないエヴェリ自身の筆跡で「彼を信じなさい」と書かれていた。
だがいつ自分がそんなものを書いたのか、まったく記憶にない。
それでもウェリローシアの紋が透かし彫りになっている以上、偽物ではないのだろう。いつかエヴェリは、自分が彼の調査をすると分かっていて、あれを手配していたのだ。
『信じて欲しい』と『信じなさい』
対になるその二つは、既に答えを導いている。
―――― あとは、自分だけだ。
「あなたは、あなたの好きな男を愛すればいいの。誰だって好きに選べばいいわ。あなたはそれが出来るのだから」
フィーラの優しい声を子守歌に、彼女は急速に眠りに落ちていく。
ばらばらな感情を拾い集めて、繋ぎ合わせて。
その答えがどんなものになるのか、自分はとっくに知っている気がした。
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