第156話 矛盾
「とにかく、色々引っかかるところはあるんだろうが、それは置いておいて! もうちょっとちゃんと殿下と話し合うんだ!」
「置いておいてって。それ置いたら話が変わらない?」
平行線の会話をしながら、タセルとエヴェリは長い城の廊下を歩いていく。
本当はエヴェリは屋敷に戻るつもりだったのだが、従姉の用事がまだ終わっていないのか戻ってこないのだ。かと言って、さっきの部屋に戻るのはシシュと出くわしそうで嫌だ。
エヴェリの指摘に、タセルはたじろいで視線を泳がす。
「……殿下にも色々事情があるんだ……でも不貞とか二心とかじゃないんだ……」
「言ってることがよく分からないんだけど。ひょっとしてアイリーデにいるのは妹とか?」
「君はどうしてそう的確に人の嫌なところを突いて来るんだ! でももう面倒だからそれでいい! ある意味近いし!」
「ある意味って何」
馬鹿にされているのかとも思うが、タセルはタセルで真剣なのだと分かる。
つまりはよく分からないほど、お互い見ているものが食い違っているのだろう。
何が嫌なところに触れたのか、彼は眉間に出来た皺を指で解す。
「大体、本来殿下は君に謝る必要とか特にないんだからな。君が怒るのは筋違いだ」
「私も別に謝ってもらう必要は感じていません」
脱線ばかりの話は、もう本来の論点から大分ずれつつある。
色々言いたいことがあるらしいタセルは、だがその多くを飲みこんでいるようだ。城に仕える者として立場があるせいだろう。結局のところ誰もが皆、その立場の範囲内で生きるしかないのだ。たとえ息苦しく思うことがあっても、分を弁えなければ他に迷惑がかかる。
「そう言えば君、あの調査書はどうしたんだ? 城に来るまで持っていただろう」
「あ、置いてきちゃった」
「はああ!? どうしてあんな大事なものを忘れてこられるんだ! 誰かに見られたらどうする!」
絶叫するタセルは、ここが誰もいない廊下でなければさぞかし注目を集めてしまっていただろう。
これで本当に城の士官なのか怪しみながら、エヴェリは白々と返した。
「嘘です。焼却しました」
「………………」
問題の調査書は、着替えた際に部屋にあった暖炉で燃やしてきてしまった。
今手元に残っているのは、調査袋に一緒に入っていた封筒だけだ。
中に何が入っているのか、ドレスの胸元に押し込んだままの薄い封筒をエヴェリは見下ろす。
タセルが隣で溜息をついた。
「本当に君は……殿下の前でもこれくらい素でいればいいだろうに。どうして猫を被るんだ」
「被ってないもの。あれも私だもの」
当主としての姿と責務。それがエヴェリ・サリア・ウェリローシアだ。
古き血を継ぐ彼女の負うものは、誰も代わることが出来ないし、きっと理解もされない。
そう思っていたのだ。けれど――――
『一人で気を張って無理をする必要はないと思う。俺も出来得る限り支えていく』
「……なんであんなこと言ったんだろ」
彼は、まるでちぐはぐなのだ。誠実で実直、融通がきかなくてどこか世間とずれている。
優しくて、不思議なくらい不器用で―――― それがエヴェリの恋した男だ。
そんな彼は、調査書に書かれてた事実とはひどく矛盾しているように思える。
だがそれを否定しないで彼女に向き合うのだ。やはり変わっている。
曖昧な物思いに耽っていたエヴェリは、ふと視界の隅、窓の外を動くものに気づく。
だが目を凝らして見ても、すぐにはそれが何だか分からない。彼女は隣りのタセルを見上げた。
「ね、あれ何だと思う?」
「あれ?」
陽の光を浴びて輝く庭の緑の上を、長身の女が歩いていく。
それが異様に見えたのは、当の女がまるで塗りつぶされたかのようにのっぺりとした灰色だったからだ。
髪や服だけでなく、顔や手までもが同じ灰色の女は、まるで色紙を女の形に繰り抜いたかのようだ。
悠々と城の中庭を行くそれを、エヴェリとタセルはじっと眺める。
「何だろう、私の目の錯覚かな。全身影みたいに見えるんだけど」
「いや……俺にもそう見える。城の尖塔の影がかかってるんじゃないか?」
不思議に思っているうちに、灰色の女は建物の影に見えなくなる。
エヴェリは青年に尋ねた。
「あっちの方って何があるの?」
「奥庭があるくらいだ。……ほら」
灰色の女が消えた方から、代わりに一人の少女が現れる。花籠を抱えた彼女はそのまま別の棟へと消えた。
「あれはミヒカ王女が国から連れてきた侍女だな。尋問されている王女に差し入れにでも行くんだろう」
「……イスファは、どんな感じなんだろうね」
人食いの被害にあっているというミヒカの祖国は、いかなる状況なのだろうか。
彼女に同情するわけではないが知ってはおきたいとも思う。フィーラならば調べてあるだろうが、ミヒカのしたことを考えると教えてくれないかもしれない。
考えこむエヴェリの横顔を、タセルは一瞥する。
「君が考えるべきは他国のことじゃないだろう。それよりほら、殿下のところに戻るといいぞ」
「やだってば! もう、ほっといてよ!」
「君はなあ!」
言いかけたタセルは、けれど後ろに気づいてぎょっとする。つられて振り返ったエヴェリも青ざめた。
―――― いつの間にそこに来ていたのか、彼女の婚約者である青年が、気まずい顔で立っている。
さっきの今で硬直しかけたエヴェリは、我に返ると軽く膝を折って挨拶した。
「失礼しました、殿下。わたくしに御用でいらっしゃいますか」
出来れば用があるのはタセルの方であって欲しい――と思いつつ彼女が問うと、シシュは頷く。
「ああ。すまないが、こんな状況だ。あなたには落ち着くまで城で暮らして欲しい」
「え」
「とは言え、急な話だからな。屋敷に戻って荷造りが必要だろう。一緒についていくからこれから行けるか?」
「え…………」
彼と一緒に屋敷に戻るとは、気まずいにも程がある。逃げ出してしまいたい。
ひょっとしてさっきの会話も聞かれていたのではないだろうか。エヴェリは助けを求める視線をタセルに向けたが、即座に逸らされてしまった。裏切られた、と思ったが、もともとタセルは圧倒的にシシュの味方だ。
彼女は確実に自分の味方と言える肉親の名前を挙げる。
「あの、フィーラは……?」
「彼女は別の仕事があるそうだ。必要なものは聞いてきた」
「…………」
「―― では、自分はこれで。失礼します」
いつまでも留まってエヴェリの癇癪をぶつけられてはかなわないと思ったのだろう。頭を下げそそくさと立ち去るタセルをシシュは振り返る。
「色々すまなかった。ありがとう」
「当然のことです。ご健闘をお祈りします」
何に対しての健闘だ、とエヴェリは八つ当たりしたくなるが、シシュの前ではそれも言えない。
苦味を内心に留めて表情を保つ彼女に、彼は手を差し出すした
「行こう」
武器を取る大きな手。
その手を取らないという選択肢は、エヴェリの立場には存在しなかった。
屋敷までの馬車の中はさぞかし居心地が悪いだろうと思っていたが、意外にも彼の話を聞いているうちにあっという間についてしまった。
赤獏をはじめとする五尊についての話―――― 王がミヒカから聞いたというそれは、たちの悪い伝承めいた内容だ。
屋敷について自分の部屋に戻ったエヴェリは、なおもその話を反芻する。
「池に映った本体を殺す……ですか」
外洋国に伝わるとある国の話では、赤獏は夜毎現れて人を喰い、何度退治しても同じ姿で現れたという。
だがある晩、皆が池の周りに集まって警戒していると、一人の男が「池に獣がいる」と訴えた。
見ると、月光に照らされた水面、人に混ざって真紅の獣がそこに映っている。
輝くばかりの毛並みに目のない、小さな熊に似た獣。
男の一人が水面のそれに向かって槍を投擲すると、断末魔の声が上がった。
そしてそれ以来、赤獏は現れなくなり、国には平和が戻ったという。
「赤獏を殺せた数少ない事例として、ミヒカ王女も真っ先にこの話は思い出したらしい。だが、人を集めて水に映してみても、赤獏は見つからなかった。そもそも人の姿の赤獏を殺すこともほとんど出来なかったらしい。結果として被害者は増える一方だ。しかも、イスファに現れたのは赤獏だけじゃなかった」
部屋の戸口に留まるシシュの物騒な話に、エヴェリは同情も込めて息をつく。
そんな事情があったなら、全て打ち明けて助力を頼めばよかったろうにとも思うが、外野が安易に言えることでもないのだろう。
二人の周囲では、荷造りに女中たちが忙しく立ち働いているが、彼女は主人たちの話にまったく表情を変えない。フィーラの教育が行き届いているのだろう。うちの一人が机周りの荷造りを始めたのを見て、エヴェリは胸元に入れたままの封筒のことを思い出した。
彼女はシシュに見えないよう戸口に背を向けながら、封筒を引っ張り出す。
「でも、確かにその話を聞いて納得もします」
「というと?」
「だって、赤獏は人喰いという割に、人を食物にしているようではありませんでしたから」
赤獏に殺された死体は、どれも体の一部だけを食い散らかされていたのだ。
シシュに出くわしたが最後あっさり殺されてしまうことを考えると、人を喰らって生きている生き物にしてはあまりにも効率が悪い。むしろ赤獏は生きる為にさしたる食物を必要としていないのではないだろうか。
そんなエヴェリの言葉に、シシュは軽く目を瞠った。
「そうか……なるほど。確かに俺が最初に殺した赤獏も、干からびた人を喰って殺していたんだ」
「干からびた?」
「元々起きていた怪死事件の被害者だ。これの犠牲になると体内の血が失われる」
「物騒なお話ですわ」
少なくとも婚約者に話す話ではないが、エヴェリは特に気にしていない。
彼が言いたいことはつまり、「既に虫に襲われた人間は、本来は獲物としては不適切ではないのか」ということだろう。
つまり、赤獏が求めているのは人間の瑞々しい肉ではないのだ。言うならばそれは――――
「恐怖……を啜る、でしたっけ」
「そう言われているな。おそらく、化生を同じで本体は実体のない生き物なんだろう。人の感情を喰らっている」
「だから普通には見えない、ですか。鏡像にこそ姿が映し出されるという」
「だとすると、戦い方も変わってくるな」
シシュは顎に手をかけ考え出す。そこから先は、彼の本分だろう。
婚約者の気が逸れたことに安心して、エヴェリは封筒をナイフで開けた。中から一枚の紙片を取り出す。
「…………あれ?」
そこに書かれている文字は、見覚えのあるものだ。
見覚えはあって……だが、どうしてこんなものが存在しているのか分からない。
一言だけの紙片に悩んで、エヴェリはシシュを見る。
ちょうど彼は、荷物箱の固い掛け金に苦労している女中に気づいて、それを外してやっているところだった。しきりに礼を言う女中に手を振って、彼は元の位置に戻る。
―――― 不器用と言われる彼だが、ごくごく自然に人を助けられる人間でもあるのだ。
そんな優しさと生真面目さは、エヴェリが惹かれた彼そのものだ。当たり前の美徳でありながら、それらを身に着けている人間はそう多くない。上流階級ならば尚更だ。慢心や気位が人の行いを容易に歪ませる。
にもかかわらず彼が優しくあれるのは、生来の性格と心根の強さのゆえだろう。
綺麗な立ち姿、思考するその目を、じっとエヴェリは見つめる。
その時、廊下から別の女中が顔を覗かせた。
「お嬢様、衣裳をお包みいたしますので、立ち合いをお願いいたします」
「あ、分かりました」
エヴェリは紙片を引き出しに入れると部屋を出る。彼女の護衛として来ているシシュも、当たり前のようについてきた。
そうして別の部屋に足を踏み入れた彼は、軽く息を飲む。
「これは……」
「お母様に御礼を申し上げますわ」
別室に広げられているのは、二着の婚礼衣裳だ。
白無垢とドレス、どちらも繊細の極みと言える豪奢なそれらを前に、シシュは口元を押さえる。エヴェリは細い首を傾げた。
「殿下? どうかいたしました?」
やはり打掛をもらうのには問題があったのだろうか。不安になるエヴェリに、彼は言った。
「いや……実際目の当たりにすると嬉しいものだと思って」
「嬉しい?」
「あなたが俺に嫁いでくれることが。嬉しい」
緩んだ口元から手を放して、彼は照れたように笑う。
そんな顔を見ると何も言えなくなって、エヴェリはただ唇を噛んだ。
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