第155話 嫉妬
城の一室は、窓に鎧戸が下ろされひどく暗い空間と変じていた。
どれくらいの広さの部屋であるのか、目隠しをしたまま連れてこられたミヒカには分からない。今は椅子に座らされ目隠しも外されているが、すぐ両脇に二人の兵士が立っている現状は、拘束されているのと同じだ。
彼女は唯一小さな灯りが灯された机を見やる。その向こうには、王がいつもと変わらぬ笑顔で座していた。
彼は、穏やかに微笑んでミヒカに言う。
「随分と困ったことをしてくれたね。よりによって彼女に手を出すとは」
人外に抗する男を連れ帰りたくて、彼の婚約者を排除しようとした。
その結果、ミヒカは命こそ拾えど窮地に追い込まれている。王族という身分も、場合によっては無意味となるだろう。
「弟はね、自分のことに関しては忍耐強いのだよ。ただ彼女に関しては駄目だ。あなたが殺されないでよかったよ。あれは一度怒らせてしまうと、余の言うことも聞かないからね」
「……陛下は」
そこから先を、ミヒカはかろうじて飲みこむ。
―――― 王は、彼女がこう出ることをあえて分かっていて、婚約発表を行ったのではないのか。
エヴェリの監禁があんなにも早く割れたのは、彼女が抱き込んだと思っていた士官、レノスに王が見張りをつけていたせいだ。
そのレノスも今は何故か行方知れずだが、最初から彼は王の密偵だったのかもしれない。
何処からが王の掌上だったのか。ミヒカは強張った声で問う。
「何が、ご所望なのです」
イスファに有利な立場を取った上での同盟を狙っているのか、それともお互い不可侵でいたいのか。
真意を問う彼女に、王は苦笑する。
「特に何が欲しいというわけではないよ。ただ知りたいだけだ」
「知りたい……?」
「そう。誰が何を考えているのか、何をしたいのか。出来得る限り知っておきたいのだよ。それが分かれば打ちたい時に手を打てる。凡百の身であれば、遠くのことも未来のことも分からないからね」
「あなたは……」
―――― 得体の知れない相手だ。
だが、自分の命運は今、この王に握られている。
ミヒカのしたことを知れば、祖国イスファも強くは出られないだろう。宮廷は、民に犠牲が出続ける現状から見て見ぬふりをしている。それが耐えきれなかったからこそ、彼女は単身トルロニアまで来たのだ。手段が卑劣だったことなど、承知の上だ。
うなだれるミヒカに、王は優しく言い聞かせる。
「ともかく、今はあなたの知っていることを教えて欲しい。赤獏や、それ以外のことも。共に脅威に立ち向かうためには大切なことだ。あなたも彼女に忠告したようだが……異国の地で人外に襲われて終わるなどしたくはないだろう?」
「…………」
ミヒカがエヴェリに忠告したのは「赤獏の仕業に見せかけて殺されてもいいのか」だ。
王は、それと同じことをされてもいいのか、と彼女に言っている。
容赦のない脅しに、ミヒカは奥歯を噛みしめた。
だが―――― 今ここで死にたくないのは事実だ。
彼女はうつむいたまま口を開く。
「お話、します……わたくしの知ることは全て」
それで自分が裁きを受けるのだとしても、五尊を打破することが出来るのなら。
王はミヒカの語る言葉を、目を閉じて聞き始める。
それは一足早くイスファを襲った人食いについての、歪な話だった。
※
何が何処から不味かったのか、振り返ってもよく分からない。
分からないが、たとえそれが問題の引き金になろうとも、偽れない問いというものはあるのだ。
「―――― だから、ああ答えたんだが」
「いや何であんなこと言ったんだ、って分かるけど! 分かるけどなんで!」
「他に答えようがないだろう……」
式の準備をするからと言ってエヴェリが出ていった後の反省会。
シシュはトーマの追及を前に、変わらない答えを返していた。
フィーラは先程から机の上で頭を抱えたまま動かない。精神的に死んでいるのかもしれない。タセルはいつの間にか姿が見えないが、うまく逃げたのだろう。後で巻きこんだことを詫びようと、シシュは頭の隅に刻む。
ひとしきり声を上げたトーマは、脱力したように椅子に座りなおした。
「お前らしいとは思うけどなあ……嘘が言えないなら黙秘とかあっただろうが」
「黙秘していたら、それはそれで不味いだろう。話し合う姿勢がないと思われる」
「……お前は本当に……確かにその通りだけどな……なんでサァリはこれを楽しめてたんだ……」
「楽しんでいるようには見えなかったが」
部屋を出ていく時まで笑顔だったエヴェリは、けれどその表情自体が作り物のように見えたのだ。
娼妓が嫣然と笑うのと同じく、貴族の女が身に着ける、優美な感情の壁としての笑顔。
そんな貌をする彼女はひどく遠くにいるようで―――― シシュは既視感を抱く。
すぐに彼は、それがいつのことかを思い出した。
「そうか……あの時か」
「ん、どの時だ?」
「サァリーディが、人をやめた時のことだ」
それはディスティーラが復活し、呼応するようにサァリが完全なる神になった時のこと。彼女は、美しく微笑みながらも、何処か生きることに倦んでいるようだった。
そして少しずつ人から遠ざかっていったのだ。
―――― 結局あの時、自分は変わってしまった彼女を引き戻すことが出来なかった。
変わっていても彼女自身であるのだからと、その意志を尊重した。
だが結果として待っていたものは、一人の男の死だ。
「あの一件が終わった後、彼女は言ったんだ。『望んでいることはちゃんと口にする』と」
欲しくても欲しいと言えなかったことが、彼女を孤独にした。
だから、サァリはそんな己を変えることにしたのだろう。彼の妻になった後は、いつも愛情を謳って憚らないようになった。
けれど、今のエヴェリが同じ煩悶に自分を押し殺しているのだとしたら。
「……俺が、彼女の望みを汲み取らなければな」
今も彼女を肯定したい思いは変わらない。
けれど彼女は、普段は感情的に振舞いながら、肝心な時にはいつも自らの役割の方を重んじる。
だから本当は、彼女の傍にいる人間はそんな強がりを分かってやらなければならなかった。
それが出来たのは彼女の幼馴染だった男だけだ。
シシュとはあまりにも違う男。そのことを分かっていたからサァリも「自分で口にする」と言ったのだろう。
だが、本当は――――
「多分……これは俺の課題なんだ」
サァリが聞いたなら「別にいいのに」と言うだろう。夫婦である以上、お互いがお互いを補って生きるのは当然だと彼女は思っている。シシュ自身もそれは同意見で……だがずっとあの時のことが引っかかっているのは事実だ。
妻にも打ち明けたことがない、埋まってしまった棘のような感情。
それを嫉妬だと言ったなら、サァリはどんな顔をするのだろう。
―――― きっと一生口にすることはない話だ。
だから、ここで諦めたくはなかった。
意が決まれば、後は動くだけだ。シシュは立ち上がる。
「大丈夫だ。何とかする」
「お前がそう言うならいいけどな。あんまりあいつを甘やかすなよ」
苦い顔のトーマに、フィーラが顔を上げる。エヴェリの保護者である彼女は反論したそうな顔になったが、シシュの視線に気づくとそれを飲みこんだ。代わりに彼へと言う。
「……よろしく頼むわね」
「ああ。ちゃんと話し合う」
「話し合いなの……?」
「だから、いちいち気にしてると胃に穴が開くって言ってんだろ」
既に穴が開いているような顔でトーマは言うと、シシュに向かって軽く手を振った。
「とにかく、何かいい感じに頑張れ。赤獏の方の協力はするから」
「分かった」
彼らの手助けは素直に助かる。真面目くさって頷くシシュに、トーマは苦笑した。
「あと、お前はちゃんと自信持て。あいつが変な意地張るのは、結局今も昔もお前が好きだからって理由なんだからな」
そんなトーマの言葉の意味は、分かるようで分からない。
だからシシュは、ただ「考えておく」とだけ返した。
※
盛大な式である必要はない。形式が整えば十分だ。
大事なのは速やかにそれを終わらせることで―――― だから支度をしようと部屋を出たエヴェリは、すぐにタセルに捕まって眉を寄せた。
彼女を追いかけてきたらしい青年は、疲れ果てたような顔で、エヴェリの袖を掴んで廊下の端に寄せさせる。
「君、ちょっと落ち着け……今のはないだろう」
「ないだろうって。普通の対応でしょう」
政略結婚を求められて、それを受けただけだ。こんな風に苦言を呈される筋合いはない。
エヴェリは憤懣を面に出さないように、彼を見上げる。
「結婚を断るっていうならともかく、ちゃんと受けるんだから、何も問題はないでしょう?」
それが自分の役目で、それ以上ではあり得ない。
王家との繋がりを持って、ウェリローシアはこれからも続いていく。仲睦まじくある必要はないが後継は一人は欲しい。それについては彼と話し合って行けばいいだろう。
半分は隠した苛立ちを以て、もう半分は本気で疑問に思いながら返すエヴェリに、だがタセルは首を横に振った。
「確かに問題ではないけどな、もっと問題なんだ」
「何それ。言っていること変だよ」
「つまり、君の言う問題よりずっと大事なことだ。殿下はそれを大事になさっている」
タセルは大きく溜息をついて辺りを見回す。
城の廊下は、他に人の姿はない。あまり使う者の多くない棟だからだろう。
窓からは美しい中庭が見えて、エヴェリはふっと視線を泳がせた。そうして遠くを見ていると、自分の感情が薄くなっていく気がする。
―――― 大事なものは何か。
それはきっと己の負う責務だ。そしてエヴェリはそれを果たすだけだ。
当然の義務としての婚姻。けれど相手が彼であるのは幸運だろう。
当たり前のように人を愛している彼ならば、きっと信じられる。
密かに期待していたような夫婦になれなくても、いい関係を築いていけるだろう。
「政略結婚の何が問題なの。私は、自分で納得してる」
愛されなかったことが不満なわけではない。それは全て自分の問題だ。
苦味も飲みこんで、前を向く。
そうであろうとするエヴェリに、だがタセルは眉を寄せた。
「俺の知る君は、意に添わない男には指一本触れさせない人だった」
青年は、自分の両手を示す。その意味することに、エヴェリはすぐに気づく。
確かに通りで出会ってからここまで、最初に肩を掴まれた時を除いて、彼がエヴェリに触れたことはない。いつも子供がするように袖を引かれてきた。
「君が殿下のことを好きなのは知っている。でもわだかまりが残って素直になれないなら、それでもいいんだ。殿下はそれをお許しになっている」
「…………」
「不満があるなら素直に言えばいい。君のわだかまりを、どれだけかかってもあの方は解くことを諦めないだろう」
真摯な言葉。
何故その目は、エヴェリよりも多くを知っているように見えるのか。
ただそんな風に人の為に真っ直ぐに向き合える彼の心が、今は羨ましかった。
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