第154話 問い


 鏡に映る自分の顔は、少しだけ違和感を抱かせた。

 瞼が腫れているからかもしれない。すぐに湯気で曇る鏡面を、エヴェリは濡れた指で拭う。

 城の広い浴場は、今は彼女一人がいるだけだ。いつもならフィーラが一緒に入って洗ってくれるのだが、今日はシシュやトーマと話し合わなければならないことがあるとのことで不在だ。その話し合いでどうして自分だけ風呂に放り込まれるのかとも思うが、子供のように泣いていたのだから仕方がない。己の未熟はこれから埋め合わせていくしかないだろう。

 濡れた銀髪を手で上げながら、彼女は自分の白い裸身を確認する。

 さっきまでのどさくさのせいか、あちこちに薄い痣や擦り傷はあるが、貴族の女としては及第点だろう。

 若干肉付きが足りない、のかもしれないが、それは個人差だ。フィーラが聞いたなら「私が手をかけた芸術品」と言ってくれるはずだ。

 染み一つない白い肌。水を弾く腕を振って、エヴェリは浴衣を羽織る。

 ―――― 何一つ、問題はない。

 これから自分は自分以外の為に、王族へと嫁ぐのだから。



                  ※



「しっかし、外洋国には訳分からん生き物がいるなあ」

 城の会議室で、書類を広げながらトーマをぼやく。

 結局のところ、赤獏の暴虐で出た被害者は三十四人に上った。王都全体の人口から見ればほんの一部とは言え、異常な事態には変わりがない。

 フィーラが冷ややかに口を挟む。

「過去にはそれで滅んだ小国もあるというのだから、早々に手を打った方だわ。もっとも、正体が知れないままなのは変わりがないのだけれど。この辺りはミヒカ王女の方が詳しいかもしれないわね」

 そのミヒカは、今は王と面談中だ。実情は尋問と言った方が正しいだろう。

 彼女を兄に引き渡してきたシシュは、目の前のお茶にも手をつけず言った。

「確かに最初の個体は殺したが、記憶も人格も連続しているようだった。どういう仕組みかは分からないが」

「まぁでも今回は、お前が主体で正解だろうな。ああいう生き物は動きが速すぎて、サァリと相性が悪い。負けはしないだろうが、手傷は負う」


 今は神性を失った妹の名をトーマが挙げると、机の隅にいるタセルがびくりと震える。

 士官として城下での事件に駆けつけた彼は、今回のどさくさに巻きこまれ、ここまで引っ張って来られたのだ。

 サァリとエヴェリについて何か失言されては不味いと一通りの説明を受けた彼は、恐る恐る顔を上げる。


「あの……つまり今の彼女は、アイリーデでの記憶がないという状態なんですよね」

「記憶がないというか、別人として生きてきた記憶があるって感じだけどな」

 それはかつてのサァリに人と神の二重性があったからこそ、可能だったことだ。

 娼妓ではなく貴族の媛として生きていたのなら、彼女は今の彼女になっていただろう。

 突拍子もない話に、タセルはしばらく考えこんだ後、手を挙げる。

「それで今は殿下の婚約者になっている、と」

「そう。こいつが変なことばっかするから、一喜一憂してて可愛いぞ」


 タセルとトーマの会話を聞き流しながら、シシュは深い溜息を零す。

 今の彼女は当主とは言え、貴族の箱入り娘なのだ。凄惨な戦闘や殺気立った己を見せたのは配慮が足りなかった。屋敷から拉致された上にこれでは、ひどく怯えさせてしまっただろう。そんなことを無言で考えている彼に、タセルの強張った声が聞こえる。


「あの……彼女、殿下の調査書を持ってましたよ」

 その一言で、場に沈黙が流れる。

 トーマが一拍おいてフィーラを見た。

「お前が用意したやつか?」

「……違うわ。わたしは何も渡してないもの。エヴェリが自分で調べたんでしょう」

「自分でって。やばくないか、それ」

「殿下がアイリーデで彼女と暮らしていらっしゃることが書かれていましたが」

「………………」


 場の沈黙は、今度こそ重く空間に固着してしまったようだ。

 全員が真顔のまま押し黙る。そのまま永遠に時が過ぎてしまいそうな中で、ようやく口を開いたのはトーマだ。


「……不味くないか?」

「不味いわね。道理で様子がおかしいと思ったけれど」

「…………」


 顔色を失くしたシシュは、その言葉を呆然と聞く。

 エヴェリにだけは知られてはいけないと思ったが、知らないうちにばれていた。

 どこまでが報告書に書かれていたかは分からないが、内縁の妻がいてそれを黙っている男など、彼女が許容するはずがない。

 彼は机に両肘をついて頭を抱えた。


「これは、婚約解消されるんじゃないか……?」

 事情が事情なので説明は難しいが、今からでも誠心誠意謝って、何とか許してもらうしかない。

 それでも、嫌われるのはほぼ確定だ。胃の底に溜まる重みに、シシュは深い深い溜息をついた。

 そうして反動をつけて、彼は立ち上がる。

「―――― よし、謝ってくる」

「まぁ待てって。今お前がそれを言い出すと余計こじれる」

 部屋を出て行こうとするシシュをトーマが留める。友人の言葉に、シシュは眉を寄せて振り返った。

「どうして止めるんだ。後回しにしてもいいことがないだろう」

「花瓶を割った子供みたいなことを言うな。それより、相手側にあんな生き物がいるんじゃ、変にこじらせてもいられないだろ」

「そうね。こうなっては贅沢は言っていられないわ。エヴェリの方にはわたしから説明しておくから、今夜にでも彼女に神性を返して頂戴」

「…………は?」


 いつものたちの悪い冗談のようなフィーラの言葉。

 だがそれが冗談ではないことは、苦々しい彼女の表情を見れば明らかだ。

 大事に丹精した花を、不本意に譲渡しなければならないことへの不服。やりきれなさを漂わせながらも、彼女はシシュを見上げる。


「仕方がないわ。今回は情報操作をしきれていなかったわたしの不手際だもの。あなたが最低の二股人間としてエヴェリに嫌われたのも、わたしの責任よ」

「…………」

「だから、もう終わりでいいわ。あなたがあなたなりに努力してくれたことは分かるし。エヴェリに付き合ってくれてありがとう。そろそろあなたのサァリを取り戻してくるといいわ」

 フィーラの表情からは、その内心は読み切れない。

 不本意ながらも一区切りを宣告する彼女に、トーマが付け足した。

「今のところ赤獏はサァリの方が本体だって気づいてないみたいだけどな。お前の嫁ってことで興味を持ってる。今のままの無力でいて、いざって時何かあったら困るだろ。命優先だ」

「そういう問題じゃないだろう……」

 シシュは思いきり眉を寄せる。


 ―――― 命が大事なのは当たり前だ。

 だがそれはそれとして、彼女の心を踏みにじってもいいかと言ったら否だ。

 エヴェリにそんな思いをさせる為に婚約者となったわけではない。自分の不甲斐なさは自分が負うもので、彼女につけを回すものではない。


 シシュはフィーラに向き直るとかぶりを振る。

「それは断る。彼女に無体を強いる気はない」

「あの子も貴族の女よ。サァリーディが月白の主であるように、エヴェリはウェリローシアの当主なの。それにふさわしい気概も気骨もある。王族への伽くらい飲みこめるわ」

「俺が、彼女をそういう目にあわせたくはない」

 嫌われたのが確実だとしても、まだ謝罪もしていないのだ。

 自分の不始末で彼女に政略結婚を飲みこませるのだとしても、それにはまだ早い。

「巫であっても当主であっても、彼女は彼女だ。どちらかが大事でどちらかが違うわけじゃない。俺にとって、どちらも変わらぬ自分の妻だ」


 かつての自分が、彼女の持つ神と人の二面性を共に受け入れていたように。

 サァリもエヴェリも、愛しい存在であることに変わりはない。どちらかを肯定してどちらかを否定することはしない。

 元々そうやって彼は、神と生きることを選んだのだ。


「もう少し時間をくれ。その間、彼女は俺が守る」


 何者の手からであっても、それは変わらない。

 伴侶としての言葉が、三人の上に響く。



 今度の沈黙は、そう長くは続かなかった。

 息をついたフィーラは、呆れた目でシシュを仰ぐ。

「あなたがそう言うのなら好きにすればいいけれど。永久に嫌われるようなことになったらどうするのかしら?」

「…………努力する」

「そこまで言うならほっといてやれ。最終的には何となく落ち着くだろ。いちいち真剣につきあってると、こっちの胃に穴が開く」

 諦めたようにトーマがお茶を啜る。フィーラと違ってアイリーデでのどさくさを見てきた兄は、思うところもあるのだろう。シシュは少しも順調でなかった客取りの記憶を振り返った。


 だがエヴェリのことはともかく、事件に関しては王の指示待ちだ。

 具体的な方策が出ないまでも話がまとまりかけた時、部屋の扉が開く。そこから着替えた女が顔を覗かせた。

「お話、終わりました?」

「エヴェリ」

 彼女は、立ったままのシシュに気づいて青い瞳を瞠る。

 碧玉と同じ色の澄んだ双眸。

 透き通って輝くようなそれに、彼は一瞬見惚れた。だがすぐに当座の課題を思い出すと頭を下げる。

「すまなかった。こちらの問題であなたを危険な目に遭わせてしまった」

「それは……わたくしの不注意もありますので。そのように仰らないでください」


 エヴェリは困ったようにはにかむ。どこか憂いを帯びたそんな貌は、サァリの見せないものだ。

 同じ花が、色を変えて咲き誇る。それを自分は手の届く位置で見ているのだ。

 シシュは嘆息を飲みこむと、もう一つのことを口にした。


「あとは……俺の身上調査をしたのだろう。黙っていてすまなかった」

「お前、それ自分で言うの!?」

 トーマが叫び、フィーラが机に突っ伏す。血族の有様にエヴェリは困惑の目を向けたが、すぐに頬を赤らめてシシュに返した。

「ご存知なのですね。大変失礼なことを致しました。申し訳ないことでございます」

「いや、いい。当然のことだし、あなたの権利だ」

 彼女のことを、見ているつもりで見きれていなかったのだろう。

 突然自分を求めてきた婚約者を知りたいと思うのは当然だ。そんな不安を見抜けなかったことをシシュは申し訳なく思う。


 一体何から話すべきか……彼が逡巡する間に、エヴェリは微笑んだ。

 曇りのない笑顔は、ひどく大人びたものだ。

 貴婦人のように、夢を見るように、彼女はシシュを見つめる。小さな唇が囁いた。

「わたくしが、殿下に直接お伺いしたいことはただ一つです」

「何だろう。俺の分かることであれば答えよう」

「ではお言葉に甘えて。―――― アイリーデにいらっしゃる奥方様を、愛していらっしゃいます?」


 シシュは目を瞠る。

 それは、彼の芯に触れる問いだ。

 一生を、存在を、想いを、混ぜ合わせた問い。

 だから……誰が相手であっても、偽ることは出来ない。

 彼はエヴェリを見たまま頷く。


「愛している。決して変わらない」


 真実を濁さぬ答え。

 それを聞いて、トーマとフィーラが言葉にならない呻き声を上げた。タセルがそんな彼らを青ざめて見回す。

 けれどエヴェリだけはただ一人、嬉しそうに微笑んだ。

 彼女はそうして、シシュを見上げると謳う。

「ならば、わたくしの誠心誠意を込めて。―――― 妻としてあなたにお仕えさせて頂きます、殿下」

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