第153話 仕舞
エヴェリを左腕に抱き留めたシシュは、隠そうともしない殺意を以て上階を睨む。
赤獏は、開けられた穴の縁にしゃがみこんで、にやにやと二人を見下ろしていた。
「心地よい憤怒だなぁ。その女が大切で仕方ないのかぁ。それが悲嘆に変わったら、さぞかし美味だろうなぁ」
「黙れと言ったのが聞こえないのか?」
刃そのもののような声音に、エヴェリはびくりと身を震わせる。
知っていたはずの彼が、まるで別の人間にでもなってしまったかのようだ。彼女を抱く腕から、しんと冷たさが伝わってくる。
それは人ならざる冷たさで―――― だが内には何もかもを焼き尽くす激情が潜んでいるようで、エヴェリは一言も口を利くことが出来なかった。
上階に残っているはずのミヒカや他の人間たちは無事でいるのか。
足下から小さな呻き声が聞こえて、エヴェリはあわててタセルの姿を探した。彼女と一緒に落ちた青年は、何とか受け身は取れたようだが相変わらず床に転がったままだ。木の破片まみれになっているタセルを助けてもらおうと、エヴェリは恐る恐る顔を上げた。
「あ、あの……」
だが彼女がそれより先を言う前に、シシュは軍刀を斬り上げる。
その刃は、氷閃となって二人へと飛びかかろうとしていた赤獏へと向かった。
床を砕き、壁を破砕する剣閃。
神の一撃を赤獏は空中で身を捻ってかわす。赤獏は一階の床に降りるなり、細い右腕をシシュへと振るった。
小柄な体とは不釣り合いな、不気味に長い腕。指の先には湾曲した鉤爪が光る。
シシュはエヴェリを抱いたまま、その爪を軍刀で払った。続けざまに首を刎ねようとする刃を、赤獏はあらかじめ分かっていたかのように、後ろに回転して避ける。
そうして彼から距離を取りながら、赤獏はからからと笑った。
「どうしたぁ? 人間のような振りをしているなぁ」
赤錆色の瞳が、嬲るような愉悦に染まる。
「隠しても全部分かるぞぉ。煩わしい全てを殺して、愛しい女を犯してしまいたいのだろぉ? お見通しだぁ」
「っ、」
心視の言葉にエヴェリは身を強張らせる。
だがシシュ自身は獣の嘲りに何も言わないままだ。
彼は提げたままの軍刀を軽く振る。タセルの手足を縛っていた荒縄がばらばらと床に落ちた。シシュは赤獏を見据えたまま、青年に問う。
「動けるか? 彼女を頼みたい」
「……かしこまりました」
立ち上がったタセルに、シシュは自分の軍刀を渡す。代わりに彼は、腰に佩いていた黒塗りの鞘からもう一振りの刀を抜いた。
美しい刃紋のついた儀礼刀にも見える刃。だがエヴェリはその刀よりも、鞘の螺鈿細工に視線を釘づけられた。
「なんでウェリローシアの紋が……」
ウェリローシアの紋が入った刀を、何故彼が携えているのか。
エヴェリの記憶では、確かに同じものを蔵の中で見た記憶がある。だがそれが当主の許可なしに持ち出されるなどあり得ないのだ。
彼女の呟きに、シシュは瞬間、困ったような微苦笑を見せる。
だがすぐに元の険しい表情になると、彼女の体をタセルの方へ押しやった。
「シシュ様……」
「大丈夫だ」
それだけしか彼は言わない。シシュは軽く床を蹴った。
赤獏が引き攣れた笑い声を上げて跳躍する。薄氷を纏う刃が、その体を両断しようと振るわれた。
―――― 白光が炸裂する。
世界から音を奪うほどの衝撃。
ぴしぴしと周囲に冷気が走る。
悲鳴を上げようにも声が出ない。ただ狂ったような笑い声が聞こえる。それを追うように閃光が走った。
何が起きているのか、頭を庇って小さくなるエヴェリを、タセルの手が引く。彼女の袖を掴んで引っ張る青年は、小声で囁いた。
「距離を取った方がいい。ここを離れるぞ」
「で、でも」
「俺たちが近くにいると殿下が戦いづらい。君が参加したいというなら別だが」
エヴェリはあわててかぶりを振る。
自分に出来ることと出来ないことは分かっているつもりだ。少なくとも、彼の足手まといにはなりたくない。
二人はぼろぼろの床に気をつけて倒壊した壁から外に出る。
戦いは隣の建物にまで移動したのだろう。背後から聞こえてくる炸裂音に彼女は身を竦めた。まだ手に持ったままの針に気づいて震えを飲みこむ。
「……もう、何これ……」
「それは俺が聞きたい……」
溜息混じりにそう言ったタセルは、エヴェリに何かを差し出した。
見るとそれは、書類袋と中に入っていた書類の束だ。上階から落ちた際に、袋が破れて中身が零れ落ちてしまったのだろう。決して人に見られてはならないそれに、彼女は一瞬で顔色を失くした。あわてて袋ごと書類を抱き取る。
「み、見た?」
「少しだけな。でも別に問題ないだろう。俺は知ってる話だ」
「……知ってるの?」
「そこに書かれているようなことはな」
言われてみれば、彼はシシュの知り合いらしいのだ。
そのことに一瞬ほっとしかけたエヴェリは、だがすぐに自分の置かれた立場を思い出す。うなだれてしまった彼女に、タセルはあわてて言い繕った。
「だ、大丈夫だ。何だかよく分からないけれど大丈夫だ」
「どうしてその状態で大丈夫って言えるの……」
よく分からないのに安請け合いにも程がある。唇を噛むエヴェリに、けれど青年は困りながらもきっぱりと言った。
「どうしてと言われても。君が悩んでいるのは殿下のことなのだろう? だったら大丈夫だ。殿下が一番大切にしているのは君だからな」
「…………」
随分無責任な慰めだ。初対面の人間に何が分かるというのか。
それでも―――― 本当にそうだったのならきっと自分は幸せだったろう。
彼女が溜息をつきかけた時、入り組んだ路地から別の人間が現れる。
「エヴェリ!」
悲鳴じみた叫びを上げて駆けてきたのはフィーラだ。後ろにはトーマの姿も見える。
二人は彼女が屋敷にいないのを知って探しに来たのだろう。細身の剣を提げたフィーラは、エヴェリの前に来るなり剣を捨てて彼女をきつく抱きしめた。
相当心配したらしく滅多に見ない従姉のそんな姿に、エヴェリは驚きながらも掠れた声で謝る。
「ごめんなさい、フィーラ……トーマも」
「いいのよ、あなたが無事なら。それよりこの国は最悪ね。滅ぼしてしまいましょう」
「おい……何なんだ君の知り合いは」
げっそりした顔になるタセルを無視して、彼女は剣を拾い上げるとその切っ先をエヴェリの後方に向けた。突然の行動にエヴェリは目を丸くする。
「フィーラ?」
「黙って」
その言葉と同時に、崩れかけた屋敷の中から、ミヒカが二人の護衛だけを伴ってよろめき出てきた。
蒼白な顔色の王女は、先程までの意気もすっかり見られない。まるで数年分は年を取ったかのようだ。
見るからに憔悴しきったミヒカに、従姉の女は何の遠慮もなくすらりと伸びた剣を構える。艶やかな口元だけで宣言した。
「わたしの姫を好きに遇してくれたようね。礼を言うわ。ここからはわたしが代わりましょう。最後の言葉くらいは聞いてあげるから、感謝なさい」
「ちょ、フィーラ――」
横顔だけ見ても、従姉が相当に怒っていることはよく分かる。このままではミヒカはよくて晒し首、悪くて遺体も残らぬほど処分されるかもしれない。エヴェリは振り返って兄に助けを求めた。
「トーマ、フィーラをとめて」
「放っておけ。あいつも本気じゃない。ただ次がないようきっちり脅しとかないとな」
ぽんぽんとエヴェリの頭を叩く兄も帯刀している。微かな血臭がするということは、二人はここに至るまでに何らかの戦闘を経てきたらしい。
街の惨状といい、王都で一体何が起きているのか。
―――― それでも、この有様が全てミヒカの仕業ということはないはずだ。
エヴェリは従姉を止めようと向き直る。
だがその時―――― 王女の向こうに軍服姿の青年が現れた。
右手に刀を下げたシシュは、左手に氷の塊を提げている。
それが何か、怪訝に思って目を凝らしたエヴェリは、分かった瞬間ぞっとした。
凍り付いた赤獏の首。
自身の刈り取ったそれを、シシュは無造作に足下へ置く。そうして誰かが何かを言うより先に、彼は己の刀をミヒカに向けた。
「―――― 覚悟はいいか? 王女殿下」
研ぎ澄まされた切っ先にミヒカは硬直する。代わりに声を上げたのはその場にいた他の面々だ。
「へ……?」
「げ、まじか」
「あら」
タセルがぽかんと口を開き、トーマとフィーラが表情を変える。
それら全てを聞いて、けれどエヴェリは唖然としたままだ。
何が起きているのかついていけない。その間にも、シシュは動けないミヒカに向けて歩を詰める。
「警告してあったはずだ。彼女に害を為すことは許さないと」
「で、殿下、わたくしは……」
「あなたは禁を破った」
温度のない宣告。それが事実でしかないことを示すように彼は淀みのない動きで刀を振り上げた。
ミヒカに向かい刃を振り下ろす―――― 寸前で、二人の人間が割って入る。
「ま、さすがにやめとけ」
「気が早いにも程があるわ」
武器を手にシシュに相対する二人は、いつもの軽口を叩きつつ、けれど表情には緊張が漂っている。
冷え切った空気が、彼の纏う怒りそのものであると理解しているのだろう。それでもミヒカから視線を逸らさないままのシシュを、タセルが震える手で留めた。
「で、殿下……彼女の前ですので……」
「………………」
「―――― シシュ様」
消え入りそうな声。
彼の名を呼ぶエヴェリの呟きに、シシュはようやく視線を動かした。
黒い瞳が、彼女を見止める。
真っ直ぐなその眼差しに、エヴェリは息を飲む。
胸を焼く思いは、恐怖なのか安堵なのか。
子供の傷心か、当主としての諦観か。
―――― それとも、変わらぬままの恋情であるのか。
「…………わ、私」
みるみるうちに視界が滲む。
気が緩んだせいか彼の顔を見たせいか、両拳を握ってはらはらと泣き出す彼女に、周囲はたちまち居たたまれない空気になった。自然と皆の視線がシシュに集中する。「なんとかしろ」との暗黙の声に、彼はようやく自身の刀を見下ろした。―――― その双眸から凍えるような殺気が消える。
狂熱も、覚める時は一瞬だ。
彼は深く息を吐き出す。自身の刀を鞘に納めるとエヴェリに歩み寄った。頼りない体を腕の中に抱き取る。
「遅くなってすまない。……もう大丈夫だ」
優しい声。
それだけは昨日と変わらない。
何も知らずに、少女の憧れを彼に向けていた頃と。
―――― だがそれは、もう過ぎてしまった夢だ。
夢は、いつか覚める。子供は憧憬の先を知って大人になる。
自分にもその時が来たのだろう。
ただ変わってしまう前に恋を知れたのは、きっと幸福だった。
エヴェリは彼の胸に顔を埋めて、熱い涙を零す。
髪を撫でてくれる大きな手、確かな温かさに安堵する。
幸せで、胸の痛くなる時間。
そうして泣き止んだのならもう……大人になろうと思った。
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