第152話 対峙
見知らぬ誰かに泣いて愚痴を言うなど、初めての経験だ。
エヴェリは放っておけばとめどなく零れそうな涙を手の甲で拭う。
そうして何とか泣き止もうとする彼女を、青年は恐る恐る宥めた。
「何が何だかよく分からないんだが……勘違いがあると思うぞ。殿下が君を裏切るなんてありえないだろう」
彼の言葉は、疲れてはいるようだったが、妙に力のある断言としてエヴェリに響いた。
彼女は改めて見知らぬ青年を覗きこむ。
「……あなた、誰?」
「タセルだ。恐いからそろそろ覚えてくれ」
げっそりしているような彼は、悪い人間ではないらしい。
そもそも捕まってしまったのも、きっと彼女の巻き添えなのだろう。
きつく縛られた荒縄と格闘していたエヴェリは、手袋の先に血が滲んでいるのに気づいて眉を寄せる。爪が剥がれかけたか何かだろう。それでも構わず縄に手を伸ばす彼女を、タセルはあわてて制止した。
「もういいから。このままでいい」
「でも、逃げるなら今のうちだし……」
誰かが来る前に逃げ出さなければ。自分と今の彼では、何にも対応出来ない。
街の通りは酷い有様だったのだ。あれがエヴェリの見た悪夢でないとしたら、今のこの状況は不味い。
構わず縄に手を伸ばした彼女は、けれど廊下を近づいて来る足音に気づいた。
複数人の足音に、タセルが囁く。
「隠れろ。俺が引き付けてる間に逃げろ」
「そんなの……」
「いい。どのみち俺の命は君が拾ってくれたものだ。それに、向こうもすぐに殺したりはしないだろう。……立場がある」
「立場?」
それはどういうことか。
問おうとするより先に、部屋の扉が開く。
部屋を照らす燭台の灯り。それを持って入ってきたのはドレス姿の若い女と、彼女の護衛らしき黒服の男たちだ。
エヴェリは覚えのあるその顔に息を飲む。一度だけ、城の宴席で遠目に見たことがあるのだ。彼女は予想外な人物を唖然として見上げた。
「……イスファの王女殿下……?」
「あなたが、ウェリローシア当主ね」
遠慮ない値踏みの視線がじろじろとエヴェリを舐めまわす。
白を切ってやろうかとも思ったが、そんなことをする意味はあまりない。エヴェリはタセルを庇いながら頷いた。
「そうですけど、どのようなご用件で?」
二人を拉致したのがイスファ王女の仕業だとしたら、たとえ他国の王族であっても許される行いではない。何の意図があってこのような無法を行ったのか。怒りを押し隠して問い返すエヴェリに、ミヒカは笑いもせず言った。
「単刀直入に言うわ。―――― あなた、殿下との婚約を破棄なさい」
「……は?」
眉を寄せて聞き返すエヴェリの足元で、タセルが「死ぬ気か……」と呟く。
訳も分からず答えぬままの彼女に、ミヒカは淡々と続けた。
「わたしは、どんな手を使っても彼をイスファに連れて帰らないといけないの。でも、彼は私との結婚を即答で断ってきた。あなたがいるからだわ」
「それは私のせいじゃ……」
むしろ本当の妻がいるからこそ、シシュは他国に行かないのではないか。
そう反論しようとして、けれどエヴェリは口を噤んだ。
自分の安全を買う為に、立場の弱い見知らぬ女性を売るようなことは出来ない。
たとえ未熟者の当主であっても自分は貴族なのだ。矜持に背くような行為はしない。
エヴェリは意を決すると立ち上がる。タセルを背後に庇いながら、ミヒカを睨んだ。
「そのような要求は飲めません。いくら王族と言えど、弁えが足りていらっしゃらないのでは?」
身分ある者には、相応の振舞いが求められる。
だからこそ度が過ぎれば、排斥されるのだ。
民が国を捨てるように。―――― ウェリローシアが、そうして行く先を見失った国に引導を渡してきたように。
古き時代から、国が変われども残り続ける家。
その正体は単純だ。ウェリローシアは今まで何度も、己を擁する国を捨てて取り換えてきた。
情報を手繰れば運命も導ける。それだけの知識と策略がこの家には蓄積されている。
もしエヴェリが生きて帰らなければ、そしてその因がシシュとミヒカにあると分かったのなら、残されたフィーラは速やかに報復を始めるだろう。
出来るならそんなことはさせたくないが、それも自分がこの場を乗り切れたらだ。
怯んではいけない。俯くことも。泣くことも。そんなことは、当主のすることではない。
エヴェリは背を伸ばし、美しい碧眼を細めてミヒカに対する。
彼女のそんな姿に、ミヒカは顔を歪めた。
「あなたは何も知らないからそんなことを言えるのよ。……いえ、あなたも見たでしょう? あの惨状を」
「あの惨状って……」
通りを埋め尽くす血と死体。
誰が為したかも分からぬそれは、ミヒカとどう関わりがあるのか。
王女の唇が震える。それは苛立ちではなく―――― 恐怖の為だ。
「五尊が来ているの。きっと外洋国の差し金だわ。無作為に人が殺されていく。今もイスファでは、それが起きているの」
「……あれを為したのは、赤獏なのですか?」
シシュが相まみえ、殺した人外。
だが怪死事件の原因はそれには留まらないからと、用心するよう彼は念を押していったのだ。
その赤獏が他にもいて、トルロニアならずイスファでも狂気を撒き散らしているというのか。
ミヒカは返答を探すように視線を彷徨わせる。
「おそらく赤獏……でも、きっとそれだけじゃないわ。雪歌も、青蛇も来ている……誰かが送りこんだのよ。普通の人間じゃ太刀打ちできない……」
「ひょっとして―――― だから殿下を?」
「…………」
沈黙の答えに、エヴェリは確信する。
化生斬りの力を持ち、人外をも斬り伏せられる人間など多くはない。ましてや相手を凌駕できる存在などは。
ミヒカは、何処からかシシュのことを知って、彼を自国に連れ帰りたいと願ったのだろう。
得体の知れぬ人外の暴虐から、民を守る武器として。
だがそれは―――― トルロニアの危険を無視してのことだ。
「……身勝手な……」
「あなたには分からないわ」
怯えて、うろたえる王女の目。だがその眼差しには、隠し切れないうしろめたさが宿っている。
エヴェリはその目に確信を覚えた。シシュやフィーラから伝え聞いたこと。それらの欠片が結びつく。
「この国に五尊を連れてきたのは、あなたではないですか?」
「な、何を……」
「シシュ様から伺いました。あの方が『白羽』について話していた時に、あなたは『五尊のことを話しているのか』と問うたのだと。でも、『白羽』というのはシシュ様が正体不明の怪異に便宜上つけた通り名なのだそうです。なのに、それを聞いてあなたがすぐに『五尊』と言ったのは何故ですか? あなたは、雪歌がこの国で被害を出していたことをあらかじめご存知だったのでは?」
「…………」
再び押し黙るミヒカを、エヴェリは冷ややかな目で射貫く。
静かな怒りが、臓腑の底から湧き上がってきた。
指先が冷えていく。思考が止まっているような、逆に急速に回り続けているような感覚。
叫び出しそうな感情を飲みこむと、エヴェリは人として、異国の王女に告げた。
「王女殿下、あなたにあの方をお渡しすることは出来ません」
「何を……」
「あの方は、わたくしの夫となられる方。あなたのような卑怯者に触れさせる筋合いはございません。恥を知りなさい」
彼の心が何処にあろうと、エヴェリが彼に恋をしたのは事実だ。
彼が自分を選んだのではない。―――― ウェリローシアの当主である己が、己の心で彼を選んだ。
そこに偽りはない。ならば、何を損なわせる気もない。
今はこの国で眠る神代の家が、彼を守る為に動くだろう。
堂々と、一分の迷いもなく言いきるエヴェリに、ミヒカはたじろぐ。その目が忌々しげにエヴェリを睨んだ。
「この状況でよくも言えたものね。あなたを殺して死体を通りに捨てたっていいのよ」
「あさましい方でいらっしゃいますね。その報いは必ずあなたの身に返って参りますが」
エヴェリは言いながら、ドレスの裾を意識する。
今、この状況になるまで「それ」を手に取らなかったのは、惨状に対するにも縄を切るにも不向きだったからだ。
けれど無法者に一矢を報いることならば出来る。
エヴェリはいつでも動けるように呼吸を整えながら、機を待った。
けれどその時―――― 床下から激しい物音が上がる。
「なに?」
家具の倒れるような激しい音に、驚きの声を上げたのはミヒカの方だ。
すぐに何かが階段を駆け上がってくる音がする。部屋の外で悲鳴が上がり―――― 球のようなものが室内へと飛んできた。
足下に落ちたそれを見て、ミヒカは悲鳴を上げる。
「ひっ……あ……」
虚ろな目を開いたまま転がっているのは、見知らぬ男の首だ。恐怖に見開いた目と口。もぎとられた肉の中に白い骨が見える。
護衛としてついていた男たちが、すぐさま剣を抜いて振り返った。
「か、構えろ! 殿下を守れ!」
だがそう言った直後、もっとも戸口近くにいた一人が廊下に引きずり出される。
「ぎ……っ、ああぁぁぁあ……!」
絞り出すような断末魔の声に、室内の全員が顔色を失くす。
壮絶な悲鳴が途切れた後、立ちこめたのは恐ろしいまでの静寂だ。
唖然と凍りつくエヴェリの目の前で、開いたままの戸口に白い手がかかる。
忌まわしいもの、血と暴虐の訪れ。
そこから顔を出した者は―――― 「赤い子供」だった。
赤錆色の髪をざんばらに下ろした赤獏は、エヴェリを見て笑う。
「見つけたぁ。お前が神嫁かぁ」
「……赤獏」
シシュが殺したはずの人食いの人外。
死んでいなかったのか、それとも複数いるのか。
通りの惨状と無関係ではないだろうそれは、エヴェリを見てにやにやと舌なめずりをした。
「やっぱり美味そうだぁ。足も、腹も、さぞ柔らかいだろうなぁ。愉しみだぁ」
異様な食欲を隠しもしない貪婪な目。
その目に曝されエヴェリは息を飲む。足下のタセルが囁いた。
「君……不味いぞ。戦えるか」
「無茶ぶりしないで」
フィーラと違って、エヴェリは戦闘訓練など受けていないのだ。せいぜいが護身術くらいで、間違っても人外と戦えるものではない。
だが―――― 人食いの獣相手に、素直に敗北を認める気もなかった。
エヴェリはドレスの裾をたくし上げる。タセルがぎょっと声を上げた。
「君、一体何を……」
「黙ってて!」
白い肢にベルトで隠し止めてあったもの。それは、シシュから昨日「念の為に」ともらったものだ。
表面にびっしりと呪が刻み込まれた長い銀の針。神の力を宿したそれを手に、エヴェリは赤獏を見据える。
「際限を知らぬ獣が……私が、ただ喰われるだけと思うなよ」
たとえこの身が喰らわれようとも、相手も無傷では終わらせない。
せめてその赤い目の片方だけでも道連れにしてやる。
「ウェリローシアを、舐めるな」
それが、大陸最古の家に生まれた者の矜持だ。
エヴェリは細く長く息を吐く。腹の底に溜まる冷気が、彼女の瞳をうっすらと光らせた。
それに呼応するように、針もまた冷気を帯びる。その様を見たミヒカが凍りつき、赤獏がからからと笑った。
「いいぞぉ、神嫁めぇ。欠片も残さず喰らってやるわぁ」
「来い!」
エヴェリの言葉と共に、赤獏は床を蹴る。
軽々とミヒカを飛び越え、その手が彼女の頭蓋に振り下ろされる。
全てを喰らいつくす暴虐を前に、エヴェリは手に持った針を投擲しようとした。
その時、彼女の立っていた床が砕け散る。
「え?」
一瞬の浮遊感。
足場を失ってタセル諸共落下するエヴェリを、だが誰かの手が受け止める。
目標を見失った赤獏を、氷の一閃が払った。絶大な神の力が、建物の壁から屋根までを硝子のように割り砕く。ばらばらと崩れ落ちてくる木の破片から、エヴェリは反射的に両手で頭を庇った。
赤獏の声が聞こえる。
「来たかぁ。随分と怒っているなぁ。狂い出しそうだぁ」
「―――― 黙れ」
冷え切って、芯にまで響く声。
その声に打たれたエヴェリは、恐る恐る顔を上げる。
軍刀を手に、彼女を抱き留めている男。
秀麗な顔を怒りに染めた青年は、彼女を妻とするこの国の王弟だった。
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