第151話 転路


 ―――― 彼には、アイリーデに内縁の妻がいる。

 それはまるで、皮のついたままの果実を食んだかのように、ざらざらとした違和感をエヴェリに与えた。

 凍りついたまま動かない彼女に、呼びに来た召使が首を傾げる。

「エヴェリ様?」

「あ……何でもないの」

 城からの迎えをあまり待たせるわけにはいかない。

 エヴェリは少し迷ったが、書類袋も携えると馬車が待つという門前に向かった。

 そこで待っていた長身の士官は、エヴェリを見とめて頭を下げる。

「レノス・テドと申します。殿下より仰せつかってお迎えに上がりました」

「シシュ様から?」


 彼が自分で来ずに人を介するとは珍しい。

 元々が平民として暮らしていたというシシュは、士官らしくはあるが王族らしさはまったくないのだ。

 それとも彼が動けないような何らかの事態が起きたのか。


 エヴェリは途端に彼のことが心配になる。表情の曇りを察したのか、レノスが苦笑した。

「ご心配なく。必ず殿下のもとに送り届けますので」

「わたくしのことは別に……」

 自分のことなど、自分である以上どうにでもなるのだ。

 だがここでそんな駄々をこねても何も意味はない。エヴェリは頷いて馬車に乗った。

 レノスは御者台に同乗した為、自然と彼女は一人で馬車に揺られることになる。

 窓に張られた布のせいか、息苦しさを覚えながらエヴェリは胸に抱いた書類袋を見下ろした。

「娼妓の妻……」


 その事実に驚きはしたが、彼らしいとも思う。

 彼はきっと、身分や立場で人を判断しないのだ。だから人の評価に囚われず、実直に相手を選んだ。

 だが問題は、何故その上自分と結婚しようとするかだ。


「……多分、都合がいいからなんだろうけど」

 王侯貴族がいつまでも妻帯せぬままでいれば、要らぬ圧力が振りかかる。

 だからこそ皆、家同士折り合いをつけて結婚するのだ。

 その中であえてウェリローシアを選ぶ理由があるとしたら、それは――

「―――― 顔を、隠してるから」

 顔を隠していることが当たり前の女など、他にいない。

 ならばエヴェリを妻にすれば、件の内縁の妻を王都に連れてくることもできる。

 ヴェールの下が誰であろうと、皆気づかないはずだ。エヴェリは普段外に出ない。ウェリローシア外に知り合いなどいないのだ。


「これは……納得の結果」

 今までずっと、何故自分が選ばれたか不思議だった。

 けれどようやく腑に落ちた。シシュがあんなに優しいのも彼女にうしろめたさがあるからだろう。

 分かってみれば、絡まった糸が解けたかのようにすっきりする話だ。

 エヴェリは深く息を吐いて膝の上に書類袋を置く。みるみる滲む涙が、ぽたりと袋の上に滴った。彼女は手袋を嵌めた指で目元を押さえる。

「もう、馬鹿……」

 立場を弁えない期待をするから、こんな思いをするのだ。

 最初から己をきちんと知っていればよかった。そうすれば、彼ともっとよい距離の取り方が出来ただろう。実情がどうであれ、表面的にはよい関係を築けたはずだ。


「―――― 違う」


 エヴェリは紅い唇を噛む。

 築けたはずだ、ではない。これから築いていくのだ。

 それが、ウェリローシア当主として生まれた彼女の責務だ。自分の感情など自分でどうにでも出来るものだ。

 だから、全てを飲みこむ。


 彼女はきつく両目を閉じた。

 今が誰もいない馬車の中なのは幸運だ。彼に会う前に、きちんと感情を抑えて笑えるようにならなければならない。

 エヴェリは目元を押さえたまま、何度か深呼吸する。そうして曲がる馬車に揺られていた彼女は……けれどふと違和感に気づいた。

「あれ?」

 ―――― 道が違う。

 それは外が見えなくても分かることだ。道を曲がる回数が明らかに多すぎる。

 この馬車は、本当に城に向かっているのか。王家の紋章は本物だったから無防備に乗り込んでしまったが、本当はフィーラを待つべきだったのかもしれない。

 エヴェリは窓に張られた布に手をかける。釘打たれているそれを、そっと引き剥がそうとした。


 だがその時、馬車の外から人の叫び声が上がる。


「ああああぁぁぁああ!」

 引き攣れたような絶叫。

 異様すぎるそれに、エヴェリはびくりと身を震わせた。腰を浮かし辺りを見回す。

 だがそれは、一度では終わらなかった。

 何人もの悲鳴が、叫びが、次々と重なりだす。

 距離はそう遠くはない。だが、間近というほどでもない。

 増えていく叫びに呼応するようにして馬車の速度が緩む。

 エヴェリはまるでそれが、目的地に到着したかのように思えて息を飲んだ。


 自分は何処に連れてこられたのか。

 そもそも本当に―――― この馬車はシシュの迎えであったのか。


 がくん、と反動をつけて馬車が停まる。

「……っ、」

 迷っている暇はない。エヴェリは掛け金を外すと馬車の外に飛び降りた。

 見える限りそこは王都の街中で、だが彼女の知らない場所だ。街並みからして中流層が暮らす住宅街だろう。―――― やはりこの馬車は、城には向かっていなかったのだ。


 彼女はドレスの裾を翻し、近くの小道に飛び込む。後ろからレノスの声が聞こえた。

「姫! お戻りを……」

 その声が届かぬ場所へ、追いつかれないようにエヴェリは走る。

 見知らぬ角を曲がり、ひたすらに汚れた地面を駆けた。

 得体の知れない生臭ささが鼻をつく。断続的に何処かから聞こえる悲鳴。それらから遠ざからねばと思いつつ、何処で何が起きているのか見当がつかない。後ろから聞こえたかと思えば、すぐ前方から叫びが上がる。

 入り組んだ街の中、恐慌に包囲されてしまったかのような状況。

 エヴェリは上がりかけた息を飲みこんで、先へと走った。小路の先に大通りが見える。

「あそこまで行けば―――― 」

 誰かに助けを呼んで、フィーラを待つか兄のいるラディ家に行けばいい。そうして事態を整理するのだ。

 エヴェリは上がってしまった息を整えながら、拓けた道へと出た。

 そして、一帯の惨状を目にする。



 通りは、血の海だった。



「……なに、これ」

 あちこちに転がっているのは、無残な人の死体だ。

 無造作に落ちている腕や足。それが誰のものだったかは、もうきっと分からない。

 五体が揃っている方が珍しいのだ。壁にまで跳ね返った血飛沫。獣に食い散らかされたような有様の遺体は、十や二十では収まらない。

 生きている者のいない、暴虐の過ぎ去った後の通り。

 呆然とその只中に立ち尽くすエヴェリは、けれど再び上がる悲鳴を聞いて我に返った。

「やだっ! いやぁぁぁ!」

 若い女の悲鳴は、すぐ近くの店の中からだ。

 エヴェリは一瞬逡巡する。だがすぐに、声のする方へと駆け出そうとした。

 ―――― けれどその肩を、背後から掴まれる。


「っ……!」

 振り返りながら、エヴェリは反射的に手を払った。

 しかしその手は難なく相手に避けられる。代わりにヴェールが舞い上がって、彼女の青い目が相手の目前に曝け出された。

 士官姿の青年―――― だがレノスではない。

 くすんだ金髪に幼さの残る顔立ち。年はエヴェリと同じくらいだろう。初めて見る顔の彼は、エヴェリを見て驚いた顔になった。

「なんで君がここに……まさか王都を滅ぼすつもりか」

「え? 誰?」

 まるで知人のように話しかけられたが、誰だかまったく心当たりがない。

 軍刀を携えた青年は、彼女の反応に顔を顰めた。

「誰って……まぁいい。出来るなら手伝ってくれ。見ての通り酷い有様なんだ。おまけに相手の得体が知れない」

「それって……」


 誰が何をしてこんな惨状になっているのか。

 エヴェリは改めて悲鳴の聞こえてきた建物を振り返る。

 だが今は何の悲鳴も、物音も聞こえない。まるで全部が終わってしまったかのようだ。

 エヴェリは乾いた息を飲む。それでも足が勝手に一歩を踏み出した。

 けれどその時、彼女の体は乱暴に押しのけられる。


「っ、逃げろ!」

 見知らぬ士官の青年が、彼女の前に立って軍刀を構える。

 だがその彼に、路地から出てきた数人の男が襲いかった。顔を隠した黒服の男たち。彼らの後ろにはレノスの姿も見える。

 エヴェリを庇った青年は、レノスの姿を見とめて声を上げた。

「あなたは、一体何を……」

「捕らえろ。早急にだ」

 男たちのうち、二人がエヴェリに向かってくる。彼女はそれを見て素早く身を翻した。腕の中の書類袋を抱きしめる。

 見知らぬ青年の声が背を叩いた。

「逃げろ! 殿下は城にいらっしゃる!」


 その言葉に、エヴェリは息を詰めて駆けだす。

 彼女を捕らえようとしている相手が誰なのか、何の狙いがあるのか。

 少なくとも、この書類を他の誰かに渡してはいけない。王弟である彼の立場が危うくなる。

 自分の幼い我儘で、彼をそんな目に遭わせるわけにはいかないのだ。


「城に―― 」

 白い靴が血溜まりを跳ねさせる。

 悪夢のような逃走は、けれど長くは続かなかった。伸びてきた腕が彼女を掴む。

 視界が、暗転する。

 天地が逆さになる感覚。乱暴な力が彼女の呼吸を圧する。

 そしてエヴェリは―――― 呆気なく意識を手放した。



               ※



『絶対に外に出ては駄目ですよ。あなたは世間知らずなんですから』

 片目だけを顰めて、かつて彼女にそう煩く言ったのは、今はもういない従兄だ。

 フィーラの弟である彼はいつもエヴェリに厳しく、だが振り返って思えば、それは全て彼女を思ってのことだったのだろう。

 ―――― 後からそんなことに気づくのは、きっと自分が子供だからだ。



「…………痛い」

 自分のそんな言葉で、エヴェリは目を覚ます。

 何が痛いのか、すぐには分からない。彼女がいるのは薄暗い小さな部屋だ。

 木の床に転がされていたエヴェリはゆっくりと体を起こした。家具も窓もない室内を見回す。

「どこ、ここ……」

 印象としては、何処かの屋敷の使われていない納戸のようだ。

 拘束はされていない。書類袋もきつく抱え込んでいたせいかそのままだ。

 エヴェリはそのことにほっとして、けれど小さな呻き声に気づくと飛び上がった。

 目を凝らしてみると、部屋の隅にさっきの若い士官が転がされている。あわててエヴェリは彼のもとに這い寄ると、その顔を覗きこんだ。

「ね、生きてる?」

「とりあえずは生きてる……よかったら解いてくれ」

 エヴェリと違い、彼は手足を縛りあげられて武器も取り上げられたようだ。

 彼女は荒縄の縛り目に指をかけたが、簡単には解けそうにない。エヴェリが四苦八苦している間に青年は溜息をついた。

「まったく……君と会うといつも散々な目に遭っている気がするな……」

「いつもって。初対面なんだけど」

 名前も知らない相手に何故そんな苦情を言われなければならないのか。

 エヴェリの言葉に青年は沈黙する。たっぷり考えこむだけの間を置いて、彼は聞き返した。

「君、どうしたんだ? 様子がおかしいぞ」

「どうしたって……」


 何があったのかと聞かれたら、何もかもだ。

 一度に色んな事がありすぎてよく分からない。街の惨状も、今捕まっている理由も見当がつかないのだ。

 ただ、一つだけ分かっていることといえば――――


 荒縄の縛り目に、温かい涙が落ちる。

 歯を食いしばって、声もなく突然泣き出すエヴェリに、青年はぎょっと目を見開いた。

 彼女は子供のようにしゃくりあげながら、罅割れた声を吐き出す。

「し、失恋……した……」

 初めて恋をした相手には、別に愛する人がいたのだ。

 寄せていた想いが、相手に届く前に宙に浮いてしまった。

「ちゃんと……好きになったのに……」

 見知らぬ相手でなければ、決して口にしなかったであろう弱音。

 すすり泣くエヴェリの言葉を聞いた青年は、数秒の後―――― 「はぁ!?」と声を上げた。

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