第150話 懸念


 アイリーデにいる時、彼にお茶を淹れてくれるのはもっぱら妻のサァリだ。

 彼女はお茶が好きな夫の為に、百近い茶葉を揃えてはその時々で違うものを淹れて出してくれた。

 そうして彼の為に手をかけることを、彼女は日々の楽しみにしていたのだ。それは二人にとって他愛もない幸福な日常だ。


 テーブルに置かれたお茶のカップを見ながら、シシュはそんなことを考える。

 勿論これを淹れてくれたのは、目の前のミヒカではなく彼女の侍女のヨアだ。

 ミヒカから前触れなくお茶に誘われたシシュは、城の中庭で席を立つ機を伺いながら彼女の話に付き合っていた。

 陽気はよく青空には雲一つない。白い四阿から見える庭は、庭師の丹精が窺える。

 ―――― これがただの散歩であったなら、美しい景色を素直に楽しめただろう。

 最初の社交辞令から転じて雲行きが怪しくなってきた話に、シシュは溜息を噛み殺す。

「殿下の婚約者の方は、古き国の王の血族でいらっしゃるというお話ですけれど、今の時代にはそぐわないものでございましょう?」

「時代は関係ありませんし、彼女のことは私事ですので」

 ちりちりとした苛立ちを飲みこんで、シシュは返す。


 エヴェリのことは、国とは関係ない自分たちの問題なのだ。

 にもかかわらず、わざわざ話題に出してくるミヒカは何を考えているのか。

 腹芸の苦手なシシュは、後ろにいるレノスと交代したいと思ったが、相手もそんな交代は御免被るだろう。


 ミヒカは、表情を消したシシュに含みのある笑顔を向ける。

「どういう意味で私事であるかお伺いしたいですわ。殿下にとって婚約発表が突然のことだったのは事実なのでしょう」

「陛下のご決定が突然なのはいつものことですので」

「そうかしら。殿下の醜聞が広まる為に払拭してしまうには、皆様が集まるあの場しか機会がなかったということでは?」

 ―――― 醜聞、と。

 その単語にシシュが眉を寄せたのは、本当に心当たりがなかったからだ。

 心当たりを表情に出したのは、後ろに控えていたレノスの方で、だが振り返れないシシュは分からない。

 分からないから、彼は直接問うた。

「なんのことでしょう」

「あら、ご自分のことなのに、ご自分でお分かりにならないなんて。上手く隠していらっしゃるようですが、調べる人間によっては明らかなことですわ。……普段は王都にいらっしゃらない殿下が、何処でお暮しになっているのか」

 沈黙が場に満ちる。

 シシュは黒い目を軽く瞠った。ミヒカはその反応ににっこりと微笑む。


 彼が何処で暮らしているのかなど、明らかなことだ。

 神が棲む街、アイリーデ。

 最古の享楽街である神話の街が、彼の居場所だ。


 神供である自分がアイリーデにいるのは当然のことで、それを醜聞などとは思ったことがない。

 ただ問題は―――― 今だけはそれを知られてはならない人物が一人だけいるということだ。

 勿論それは、ミヒカなどではない。

 アイリーデの主人である妻のサァリーディ、神性を失った今の彼女にだけは知られては困る。

 貴族らしい矜持と、彼女本来の純真さを併せ持っているエヴェリがこれを知ったなら、憤慨して婚約解消を言い出す可能性が高い。

 そうでなくてもシシュは、持前の不調法で度々彼女に呆れられているのだ。昨日もよかれと思って持って行ったものに驚かれてしまっている。この上、アイリーデのことが知れたら確実にとどめになってしまうだろう。


 ミヒカは彼の表所の変化に、満足そうに囁く。

「愛らしい婚約者の方は、果たしてこの話をご存知なのかしら?」

 それは脅しであるのか違うのか。

 エヴェリは当然知らないはずだ。その手の情報はフィーラが完全に隠匿しているだろう。元々ウェリローシアの武器は情報なのだ。

 だが、ミヒカがこの件を俎上に載せた以上、フィーラの情報操作に安心しきってもいられない。

 顔を顰めるシシュに、彼女は黄色の目を細めた。

「わたくしは勿論、気にはいたしませんけれど」

「……どういう意味です」

 ミヒカの後ろで、ヨアが真っ青になっているのが見える。

 今は見えないがレノスも似た状態かもしれない。陽の光が注ぐ中庭で、二人の相対する四阿だけが氷原のようだ。

 その冷ややかさをあえて無視しているのであろうミヒカは、テーブルの上で十指を組むと宣言する。

「わたくしの夫としてイスファにいらしてくださいな、殿下。―――― それがトルロニアに対する、イスファからの要求です」



                   ※



 純白のドレスの長い裾は、部屋の半分を埋めてまだ足りない程だ。

 芸術品のようなレースをふんだんに使ったドレス。式の為の花嫁衣裳を試着したエヴェリは、背後を振り返って感嘆の息をつく。

「いつの間にこんなドレス作ってたの?」

 エヴェリの為に仕立てられたと思しき衣裳は、細やかな刺繍一つとっても一朝一夕で出来るものとは思えない。

 床に膝をついて針を打っているフィーラが微笑した。

「あなたが十五歳になった時から少しずつかしら。無用で終わるかもと思っていたけれど、袖を通してもらえて嬉しいわ」

「無用だなんて」


 政略結婚であるせいか、それともエヴェリが彼に好感を持ったせいか、式の準備は着実に進みつつある。

 いつの間にか日取りまで決まっているのは、王かフィーラの手際がいいせいだろう。間違ってもシシュの仕事ではない。

 彼は彼で、例の事件の調査と小競り合いに忙しいらしく―――― ただそれでも日に一度は彼女を訪ねてきてくれる。

 やって来て、けれど気の利いた何かがあるわけではない。顔だけを見て帰ることもある。

 それでも言葉を交わす度に少しずつ彼を知ることができて、エヴェリは毎日が待ち遠しかった。


 彼女は白いドレスを摘まんで姿見を覗きこむ。

「大丈夫? 似合ってる?」

「あなたの為の衣裳だもの。当然似合っているわ」

「そう? 喜んでもらえるかな……」

 自分の花嫁姿を見て彼がどんな顔をするのか。想像すると落ち着かなくて仕方がない。

 エヴェリは自分の髪色と同じ、銀糸の刺繍が施された裾を眺めた。

 ウェリローシアの紋章に月をあしらったそれは、古き時代から変わりがない。この紋様を纏って自分は彼に嫁ぐのだ。その日のことを思うと顔が熱を持ってしまう。

 ひんやりとした指先を頬に当てていたエヴェリは、針を打ち終わったフィーラが立ち上がるとあわててその手を放した。


 フィーラは、少し下がって全体を確かめると頷く。

「大丈夫そうね。次は打掛をあわせるわ。着替えて頂戴」

「打掛って……あれ本当にもらってもいいのかな」


 サァリは壁際の衣紋掛けにかけられた正絹緞子地の白無垢を見やる。

 数日前屋敷に届けられたそれは、シシュの母親の生家に伝わるものなのだ。息子の花嫁になる女に、との贈り物は、ありがたくも申し訳ない気がする。自分は彼のことが大好きだが、果たして逆はどうなのだろう。

 大事にされている自覚はあるが、伴侶として想われているかどうかは自信がない。

 だがそれを言葉にして問うことは、自分が子供だと宣言するようで―――― エヴェリは形になれない不安を抱え続けていた。

 その不安は、個人的に出した調査依頼の結果がまだ返ってきていないこととも関係があるのかもしれない。

 さすがに王族相手とあって調査にも時間がかかるのだろう。それは「本当に今の幸福を信じていいのか」というささやかな懸念をエヴェリに抱かせ続けていたが……フィーラやトーマが何も言ってこない以上、さして意外性のある結果は返って来ないに違いない。


 エヴェリに打掛を着つけながら、フィーラがうっとりと目を細める。

「よく似合うわ。当日が楽しみで仕方ないわ」

「フィーラは私の結婚に反対かと思ってたけど」

「あら、離縁したくなったら、いつでも戻ってくればいいわ」

 全てが本音で全てが嘘のような従姉の言葉は、やはりよく分からない。

 ただ、彼の為に白無垢を着る自分はやはり幸せで……まだ少し現実味がなかった。



 衣装合わせが終わると、フィーラは他にも仕事があるのだろう。「彼が来ても二人きりにならないように」と念を押して屋敷を出ていった。

 まだ日は高い。自室の机に向かい書類を整理していたエヴェリは、しばらくして召使から届けられたものに目を瞠った。

 厳重に封をされた書類袋は、シシュについての調査報告書だ。ずっと待っていた結果に、エヴェリは息を飲む。

「フィーラがいない時でよかった……」

 シシュのことをよく思っていない従姉に見つかったなら、些細なことまで揚げ足を取られそうだ。この書類も、さっさと目を通して処分した方がいいだろう。エヴェリはナイフを使って書類袋を開ける。


 ―――― 中から出てきたのは、書類の束と薄く小さな封筒だ。

 エヴェリは封筒を脇に置いて、まず書類の方から目を通し始めた。

 そうして三枚目を捲った彼女は手を止める。


「…………え?」


 よく理解出来ない内容。

 すぐには飲みこめぬそれを、エヴェリはもう一度読み返す。

 だが言葉が頭に入ってこない。何が何だか分からない。

 彼女は呆然としたまま書類を机に戻す。その手が一緒に入っていた小さな封筒に触れた。


 封筒を手に取ったその時、扉の向こうから召使の声がする。

「エヴェリ様、城から迎えの馬車が来ております」

「…………城から?」

 婚儀についての打ち合わせか何かだろうか。

 考えようとしても、よく思考がまとまらない。エヴェリはかぶりを振りながら立ち上がった。机の上に置いた書類をもう一度見つめる。

 そこに書かれていた調査結果は意味の分からぬもので―――― つまり「王弟殿下はアイリーデの娼妓を内縁の妻としている」というものだった。

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