第149話 初恋
子供の頃はよく、熱を出して寝込んでいた気がする。
屋敷の外には何があるのかと、まだ毎日のように夢想していた頃、体と心の不均等さはよく彼女を蝕んでいた。
だが、今自分が熱っぽいと感じるのは、きっと昼間の一件のせいだ。
「お戻りになったのですね」
平坦に言おうと思った言葉は、だが口にした瞬間非難の色が滲んでしまった。
エヴェリは自室の戸口に立ったままの青年を睨む。彼女の婚約者である男は、やはり昼間と同様困ったような顔で彼女を見ていた。
「すまない……。理由はあったんだが、人道にもとる行いだった」
「そこまでは思っておりませんが……」
一体何がしたいのか、詫びるくらいならやらなければいいと思うのに、まったく意味不明だ。
エヴェリは無意識のうちに自分の唇を押さえる。体の中にまだ吹き込まれた冷気が渦巻いている気がした。
黙ってしまうと自分の熱が上がる気がして、エヴェリは彼から視線を逸らす。
「あなた様がそのように仰る必要はありませんわ。式が終わればわたくしを好きに出来る立場なのですし」
「同意なく何かをするつもりはない。今回は例外だと思って欲しい」
「……おかしな方ですね」
謝罪に現れたのに戸口にいるままなのも、彼女の同意がないからなのだろうか。
エヴェリはどう応対するか迷ったが、答えはとっくに自分の中にある気がする。落ち着かなさを抱えたまま、彼女はテーブルの向かいにある椅子を指し示した。
「お入りくださいな。あの後のことについてもお伺いしたいですし」
彼が察知した「何か」を、エヴェリ自身も感じたのだ。
あれが何だったのか、彼がそれをどうしたのか、聞いておきたい。
シシュは軽く頷くと、扉を開けたまま中に入って彼女の向かいに座った。何かあった時、エヴェリが人を呼べるようにだろう。それは昼のことを踏まえての気遣いなのだろうが、やはり彼は変わっている。
彼女にそんなことを思われているとは露知らず、シシュはふっと視線を巡らせた。窓際に置かれた金平糖の器に気づく。
何かを言われるより先に、エヴェリはあわてて口を挟んだ。
「折角頂きましたので……」
「気に入ってくれたなら嬉しい」
そんな風に言って頬を緩めるのは、人のよい演技なのか違うのか。
子供扱いに嫌味を言ってやろうと思っていた気も挫かれて、エヴェリは落ち着かなさに口を噤んだ。
召使がお茶を持ってくると、彼はまず昼間の一件について話し始める。
「―――― そのような事件が起きているのですか」
「ああ。しばらくは気をつけていてくれ。外で一人にならないように」
「どの道、屋敷の外には出ませんわ」
当たり前のこととして返すと、彼は少し困った顔になる。
だが何と思われても、ウェリローシアはそういう家だ。エヴェリはカップに視線を落としたまま口を開いた。
「わたくし当主は、人様に顔を見せません。それはこの家に伝わるしきたりで、変えようのないものです。ですからわたくしは、屋敷の外を知りません。そうであることも当主の務めですから」
外の世界を知りたくないわけではないが、自分の我儘で家に迷惑をかけるつもりはない。
それは、シシュと結婚したとしても変えられないものだ。
だから―――― そんな自分を、何故彼が選んだのか。
顔を隠した妻など、宮廷に引き出しても好奇の目で見られるだけだ。それはウェリローシアがこの大陸でもっとも古い家柄であっても拭えない。
理由の分からぬ苛立ちを覚えて、エヴェリは眉を寄せた。半ば八つ当たりだと知りながら口を開く。
「シシュ様も、婚約を撤回するなら今のうちです。わたくしを妻にして得るものなどございませんよ」
何か彼にとって好都合なことがあるから自分を選んだのだろう。だがそれにしてもウェリローシアは自由のきかない家だ。
その事実を理解しているのかと釘を刺す彼女に―――― シシュは軽く目を瞠った。噛んで含めるように問う。
「あなたと結婚すれば、あなたが妻になってくれるだろう?」
「…………そう、ですけど」
蛇が尾を飲みこんでいるような言葉に、エヴェリは当惑する。
言われた意味がよく分からないままの彼女に、シシュは言葉を選ぶ様子で続けた。
「勿論俺は、ウェリローシアの事情も責務も分かっているつもりだ。あなたが当主の務めを重んじていることも」
エヴェリに母はいない。
母は、家を捨てて他家に嫁いだ。だからその分まで彼女は「ウェリローシア」でなければならない。
それを誇りに思いこそそれ、不満には感じていないのだ。
誰よりも彼女は、当主であるのだから。
「だが、俺はそれをひっくるめて、あなたを妻にしたいと望んでいる。エヴェリ、あなたが弱い人ではないと知ってはいるが……一人で気を張って無理をする必要はないと思う。俺も出来得る限り支えていく」
「………………」
彼は、おかしな人間だ。
何故ろくに知りもしないはずの自分のことを知って、そんなことを言ってくれるのか。
血が繋がっているから助けてくれるフィーラや兄とは違う。まったく違う場所で、違う人生を歩んできた相手だ。
なのにどうして、そんな風に情をかけてくれるのか。
―――― まるで自分にだけ都合のよい夢のようだ。
エヴェリは白い瞼を閉じる。滲みそうな涙を心に溶かす間、冗談めかして言った。
「物好きなお方ですね。ご自分で面倒を背負いこもうとなさるなんて」
「自分は幸運だと思っている。これくらい面倒でもなんでもない」
染み入るような言葉には、彼の実直さが滲んでいる。
これが彼の手管だとしたら、少なくともエヴェリよりは遥かに人心掌握に長けているだろう。
彼女は潤んだ碧眼で目の前の青年を見上げると、微笑む。
「なら折角ですからシシュ様、面倒ついでにもう少し、わたくしとお話ししてくださいな」
※
もう少し、と言ったのに随分遅くまで他愛もない話に付き合わせてしまった。
屋敷の玄関までシシュを見送りに出たエヴェリは、外を見て不安になる。
「こんなに暗くて……」
「大丈夫だ。それよりあなたは外に出ないように。あまり窓辺にいるのも避けてくれ」
シシュは、一人城に帰る自分よりもエヴェリの方が心配らしい。
他にも次々付け足される注意に、彼女はくすくすと笑い出した。その反応にシシュは気まずげな顔になる。
「すまない。つい……」
「ご心配くださって、ありがとうございます」
子供扱いも、彼の性格を考えると不思議と不快ではない。
微笑んで見上げるエヴェリの頬にシシュは手を伸ばしかけて、だが「同意がなければ」という前言を思い出したのかその手を止めた。
彼女は生真面目な婚約者にはにかむ。
「お好きにどうぞ。それくらいで目くじらはたてませんわ」
「……すまない」
昼の暴挙のせいか、彼は少し眉を顰める。
だがすぐに彼女の頬に触れると、長身を屈めて顔を寄せた。
「風邪をひかないようにしてくれ。体を冷やさないように」
囁かれる言葉を、エヴェリはぼうっと受け止める。そうして玄関の扉が閉まると、口付けられた額から熱が全身に伝染していくようで―――― 彼女は真っ赤になった顔を両手で押さえた。
熱に浮かされたまま自室に帰らなかったのは、時が経つごとに落ち着かなさに耐えきれなくなったからだ。
エヴェリはふわふわとした足取りで、屋敷の応接間を尋ねる。
そこにいたのはフィーラと兄のトーマだ。地図や書物を積み上げて何かを調べているらしき二人は、真っ赤な顔のエヴェリを見て何か言いたげな顔になる。
だがそれより先に、エヴェリは口を開いた。
「わ、私、あの人のこと好きかも……」
そう言った瞬間、フィーラが机に突っ伏し、トーマが笑い出したのは何故なのだろう。
確かに血族の中で一番年下の彼女が子供扱いされるのは常だが、もう結婚するような年なのだ。
エヴェリは二人の反応を不満に思いつつ、気になって仕方なかったことを言葉にした。
「私が世間知らずだからそう感じるだけ? やっぱり騙されてる?」
「―――― あいつにそんな器用さないから。安心しろ」
笑いながらそう言う兄からは、真剣味がまったく感じられない。エヴェリは今度は従姉に尋ねた。
「フィーラはきっと、あの人のこと調べてるよね。私、信じてても平気? すごく優しいし、真面目だし、私のこと大事にしてくれるんだけど」
「……あなたがそう思うのなら、そうなんじゃないかしら」
苦りきった返事は、フィーラの真意が分かるようで分からないものだ。「自分のことなのだから自分で考えろ」とは、もっともな話だが、それは欲しかった答えではない。若輩で人を見る目に自信がないからこそ、他者の意見を聞きたいのだ。
心が動かされれば目も曇る。エヴェリは自分がその状態に足を踏みこみかけていると自覚していた。
だから客観的な目で見たシシュのことを聞きたかったのに、二人が二人とも面白がっているか呆れているかだ。
真剣に話を聞いてもらえない子供のように、エヴェリは頬を膨らませた。
「分かった。自分で考えるから」
「好きなだけ悩んどけ、面白いから」
「もう少し焦らして灸を据えてもいいと思うのだけれど……。あなたの好きにするといいわ」
変わらない血族の反応に、エヴェリは憤懣を覚えて応接間を出る。
シシュは屋敷から出るなと言ったが、また会いに来てくれるとも言っていた。その時までに調べて考えておけばいいのだ。それで決まらなければ、また今度に。
彼の妻になるまでに心を決めればいい。当主の義務を以て政略結婚をするのか、彼に恋をして嫁ぐのか―――― どの道結果は同じだ。
ただ心だけは、大違いだ。
「いいもの。自分で調べるから」
人の評判を調べるくらい、彼女自身も伝手がある。
彼のことを真剣に考えていないらしいトーマも、彼への評価が辛いフィーラも、エヴェリが自分で調べた事実を見れば納得するだろう。シシュのあの性格なら、きっと埃の一つも出てこないに違いない。
部屋に戻ったエヴェリは、調査依頼の為に簡単な書類を作り始める。
そうして出来たものに封をして召使に託した彼女はその晩、浮き立つ心を抱えて眠りについた。
夢の中で彼の妻になっていたエヴェリは……とても幸せだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます