第148話 赤獏


 門を出て、走る。

 向かう先はそう遠くはない。ゆっくりとこちらに近づいてきている。

 一体何処から現れたのか、己の存在を隠しもせずにいる『それ』は、乱雑に塗られた絵具のように浮き立った気配を振り撒いていた。

 シシュは緩やかに弧を描く道を走り、途中の路地を曲がる。

 そこから先は貴族街とは少し毛色を変えた地区だ。すぐに生臭い匂いが鼻をついて、彼は速度を緩めた。

 建物と建物の間を抜ける裏路地に、人の気配はない。今まで怪死事件が起きているのも、大体が似た場所でだ。

 窓のない壁が左右を埋める薄暗い道で、シシュはついに足を止めた。ほぼ同時に先の角から人影が現れる。

『それ』は一言で言うなら―――― 赤かった。


 背丈はサァリよりも頭二つ分は低い。ほとんど子供だ。

 長い髪は赤錆色で、切れ長の両眼も同じ色だった。

 痩せ細った四肢は恐ろしいほど白く……ただその右手には、からからに乾いた人の頭部が握られている。

 裾の擦り切れた赤布を巻きつけて止めただけの服。靴も履いていないその姿は、捨てられた子供同然だった。


 だが『それ』が放つ気配は、子供のものではありえない。

 紅い目が、ちらりとシシュを見上げた。薄い唇の端が上がる。

「―――― 来たかぁ」

 その声は、少年とも少女ともつかないものだ。

 実際、『それ』の顔立ちは整ってはいるが性別を感じさせないもので、どことなく野生の獣を連想させる。

 シシュは誰何するより先に、『それ』の顔に刃を向けた。

 冷気を帯びた軍刀に、『それ』はからからと笑う。

「見事な神気に見に来てみれば。お前がこの地の神かぁ」

「俺は……」

 そこでシシュは言葉を切る。


 ―――― 何故サァリが神性を自分に預けたのか。

 その答えが、おそらくこれだ。

 敵が神の気配を追って来た時、サァリがそこにいれば、相手は彼女を主たるものとして看做す。

 だが舞台が王都である限り、あくまで彼女は外野なのだ。そこの境界を違えてはならない。


 答えないシシュに、『それ』はにやにやと笑った。

「人間のような顔をしておるなぁ。人と共に生きる神など、とんだ笑いものだ」

「……お前は何だ。ここで何をしている?」

「海の向こうから招かれたのさぁ」

 やたらと間延びした語尾が、耳の中で反響する。それは神経を引っ掻くような不快感をもたらして、シシュは顔を顰めた。

「虫を使って人を襲わせているのはお前か?」

 今まで見つかった遺体には外傷が見られない。目の前の『それ』が人の頭部を掴んでいるのは明らかに異様だ。

 だがそれでも、今までの事件と無関係ということはないだろう。

 シシュの問いに、『それ』は無造作に掴んだままの頭部を放る。だがその頭部は地面に落ちる前に、空中で塵となって霧散した。

 唖然とするシシュに、『それ』は愉悦に満ちた笑顔を見せる。

「これしきのこと、驚くほどでもなかろうよぉ。随分と若い神だ」

「質問に答えろ」


 赤い『それ』は気味の悪い笑顔のままだ。

 その言葉を信じるなら、相手は白羽と同様、外洋国から来た「何か」なのだろう。

 人には理解出来ない存在。神よりも獣に近いもの。

 ―――― こんな相手にサァリを関わらせないでよかった、とシシュは内心安堵する。

 エヴェリに残してきた神気も、本来の彼女から考えるとほんの欠片も同然だ。

 自分が彼女の代理人である今のうちに、全てを片づけておきたい。そんなことを考えるシシュを、赤い瞳がじろじろと見やる。

「ふぅん。本当に若いようだなぁ。人のような心をしておる。……ああ、同族の番いがいるのか。美しい女だなぁ。美味そうだぁ」

「お前―― 心視か」

 人の思考を読む力を持つ者。

 巫の中にはそういう能力の持ち主も極稀に存在するという。

 だが目の前の『それ』は、人でも巫でもない。外から来しものだ。

 そして……彼女の存在に勘づかれた。


 ―――― 殺すしかない。


 心視などは想定外だ。エヴェリにこんなものを近づけさせる訳にはいかない。

 意識を切り替え間を計るシシュに、『それ』は薄い肩を竦める。

「やれ物騒だなぁ。そして愚か者だ。全てが吾の掌の上だというのに」

 その言葉を聞き終わるより先に、シシュは踏みこむ。細い体を斬り伏せようと振るった刃は、しかし何もない空を斬った。

 宙から軽い笑い声が降ってくる。

「無駄なことだ、若き神よ。おぬしが何を考え何をするかは、全て筒抜けさぁ」

 体重がない者のようにふわりと浮き上がった『それ』は、紅い目を細める。

「黙ってみておれ、若輩者。全ては些事だ。この地を新たに―――― ぁ?」

 そこで、『それ』は不意に沈黙した。

 自身の胸を見下ろす。


 そこには、銀色の長い針が深々と刺さっていた。


 胸を貫く針から、またたくまに霜が張り始める。

 たちまち全身を凍りつかせていく神の力に、歪な笑い顔が引き攣った。

「…………お、のれ」

 だが、それ以上は続かない。喉も顔も、全てが氷に覆われていく。

 そうして小柄な体は空中でぐらりと傾くと―――― 硬い音を立てて砕け散った。

 人外であった氷片が地面に舞い散る中、シシュは苦い顔で歩み寄ると、銀の針を拾い上げる。

「心視か。面倒だな」

 腕の立つ者であれば、彼自身がしたのと同様、反応を許さぬ速度で攻撃することは出来る。

 だがそれも、一撃で殺すだけの力がなければ泥沼になるのは確実だ。そしてほとんどの人間にそんな力はない。


 シシュは針を懐にしまうと辺りを見回した。

「これで終わりだったらいいんだが」

 話を聞きだして逃がすより、確実に殺すことを優先したが、今の人外で全てが終わりとは限らない。

 神である青年は、苦味を噛みしめながら周辺の路地を探索する。

 そうして薄暗い行き止まりで、四人分の食い散らかされた遺体を見つけたシシュは―――― 改めて、深い溜息をついたのだ。



              ※



「すぐに戻る」と言っておいた割に、報告や事後処理に関わった結果、ウェリローシアに戻って来た頃にはすっかり日が落ちていた。

 出てきた召使に取り次ぎを頼んだシシュは、玄関に現れた女を見て無言になる。

 華やかな美貌と傲岸さを皮として纏っているフィーラは、彼を見るなり笑顔で言った。

「出禁」

「……弁明させてくれ」

 こうなるとは思っていたが予想通りだ。

 何処までをエヴェリに聞いたのか。全部だとしたら婚約解消に一直線かもしれない。

 あの時は彼女を守る為には他にないと思ったのだが、エヴェリの立場からしたらただの人でなしだ。

 だが、その結果嫌悪されたとしても、彼女自身の安全には変えられない。

 そうシシュが弁明しようとした時、玄関扉が向こうから開かれる。そこから別の人物が顔を出した。

「本当、お前って相変わらずだなー」

「……トーマ」

 エヴェリの兄であり彼の友人であるトーマは、からからと笑うと「まあ、入れよ」と彼を手招いた。



「―――― 五尊には、雪歌・赤獏・灰・青蛇・飛葉の五種があるとされているわ」

 ウェリローシアの応接室に移った三人は、重厚な丸テーブルを挟んでお茶を飲んでいた。

 シシュが出会った『それ』についての話を聞き、ミヒカの話も聞いたフィーラは、興味がなさそうに講釈を始める。

「白歌鳥が通称『雪歌』とも呼ばれるのは、この血が薄まって伝わっていると言われているからよ。五尊は、向こうの大陸では古くから存在して、人の立ち入らぬ土地で暮らしていた。でも、時代によってはその力を求めた人間に捕らえられたり使役されたり、もしくは薬の材料として乱獲されたりで徐々に数を減らしていったのね。今では絶滅したとの見方が主流よ」

「詳しいんだな……」

「ウェリローシアの人間ならこれくらいの教養は当然だわ」

 白々と言うフィーラに、トーマは「こいつ、変質的なところあるから」と付け足す。

 だが彼女が完全にそれを無視する辺り、やはり彼らは仲が悪いのだろう。

 フィーラは上品な所作でお茶のカップを手に取る。

「アイリーデの白羽が雪歌だったとしたら、その心視は赤獏でしょうね。五尊なんてものが本当に実在するとしたら、でしょうけど」

「嘘は言っていない」

「あなたの言うことを疑っているわけではないわ。ただ『五尊』なんて適当な名前をつけられた何かと、今こちらに来ている人外が同一かは分からないということ。架空のそれらしい存在に似ているだけかもしれないでしょう」

「それは、確かに」


 先程の赤い何かで分かっていることは、人の姿をして人語を解していたことと心視が出来ること、そして最後に「人を喰う」ことだ。

 シシュが路地で見つけた四人の死体は、今までの怪死事件と同様、全身の血が失われていた。

 そしてそれだけでなく……食害の痕があったのだ。

 人間のものによく似た歯型で、だがそれとは違うもの。

 もぎ取られていた頭部以外にも腹や腿などが噛み取られており、検死にあたった医師はその状態を「食べられたのだ」と判断した。


 凄惨な事件に、フィーラはけれど涼しい顔で付け足す。

「赤獏は、人の恐怖を啜って肉を喰らうと言われているわ。絶滅したのも人食いを恐れた人間に駆逐されたから。もっとも人里から追い払われただけで、生き残りがいるとも言われているけど」

「聞いた限りじゃ、今までの事件全部がそいつの仕業ってわけじゃないだろうな。死体が食われたのは初めてだ」

「―――― 招かれた、と言っていたんだ」


 赤獏の言葉の意味することは「招いたものがいる」という事実だ。

 誰が、何を思って王都にあのような人外を呼び込んだのか。そしてそれが、ミヒカがいる「今」であることと関係はあるのか。


 シシュの思考を読んだかのように、フィーラが言い捨てる。

「ミヒカ王女は、外洋国の文化研究が専門の学者でもあるから、五尊のことも知っているんでしょうね」

「そうだったのか」

「王族で研究者というのは珍しい話じゃないわ。わたしとしては早々にミヒカ王女を国に返すことをお勧めするけれど」

「それはやはり彼女が狙われてると?」

「さあ? でも敵の目的が何処にあるのか、多少は判別がつくでしょう? あなた自身が軽挙妄動して敵に目をつけられる前に、手を打った方がいいわ」

 空になったカップを置いて、フィーラは立ち上がる。

 てっきり「さっさと敵と相打ちになって死ね」と言われると思っていたシシュは目を丸くした。

 その表情だけで彼の言いたいことを察したらしい女は、眉を寄せる。

「あまり自身を軽く見ないで頂戴。あなたは、彼女が選んだ唯一の伴侶なのよ。この国などより己の方が重いと知りなさい」

「……それは」

「こいつはサァリが可愛くて仕方ないんだよ」

「安い言葉で言わないで。わたしの姫は絶対なの」

 血族同士の会話に、シシュは遅れてフィーラの意を飲みこむ。


 つまりは、サァリを何よりも貴ぶ彼女にとって、代わりのきかない神供もまた「損なわれてはならぬもの」なのだろう。

 それはそれとして、彼女の夫であるシシュを嫌ってもいるが、それでもサァリが愛する相手であることには変わりがない。月白の主が相手を変えない以上、フィーラにとってシシュは自分の姫に付随して欠けさせられない存在なのだ。


「……その割には、出禁にされているんだが」

「釘を刺しておかないと、あなたは的外れなことばかりするからだわ。王族だというのに期待外れもいいところかしら」

「それ、俺がアイリーデで散々見てきたから。今更治らないだろ」

「…………」

 ぼろくそに言われているが、現状甘んじて聞き流すしかない。

 今のところ、エヴェリに好かれる要素はない。むしろ今現在嫌われているはずだ。

 深く溜息をつくシシュに、フィーラは顎で扉を示した。

「あまりつまらない話を長引かせて姫を待たせるものではないわ。案内させるから、そろそろ自分の無礼を這いつくばって詫びてきなさい」

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