第147話 自失
見惚れてしまうような見事な花束を持って門の向こうに立っているのは、紛れもなく彼女の婚約者だ。
エヴェリは一瞬の自失から抜け出ると、ヴェール越しに平静な声を作って問うた。
「当家に御用でいらっしゃいますか」
相手の身分を考えると、すぐに門を開けるべきだろうとは思うが、一応確認しておきたい。
明確に一線を引こうとする彼女の声音に、青年は困ったような顔になった。手に持った花束を示す。
「ああ。これをあなたにと」
「と?」
「陛下が」
「……陛下が」
冷ややかさの滲む目で、エヴェリは繰り返す。
大方、彼女に菓子を贈ったことがばれて王に注意されたのだろう。子供扱いを取り繕おうとする魂胆だろうが、既に金平糖の四分の一は食べてしまった。
手遅れを指摘してやろうか、と思いかけたエヴェリは、自分がいささか意地の悪い気分になっていると気づいて唇を曲げる。
―――― 勝手に何かを期待して、勝手に裏切られたと怒るのは子供のすることだ。
自身にそう言い聞かせて、エヴェリは門の鍵を開けた。
「どうぞ、お入りくださいな」
無断で人を入れた、とフィーラにお仕置きされるかもしれないが、王からの使者を門前払いは出来ない。
エヴェリは仕方なく赤い光を諦めると、婚約者の青年と並んで屋敷の方へと歩き出した。当たり障りのない会話を探して口を開く。
「殿下はこのような時間に外にいらして平気なのですか?」
暗に「暇なのか」と口にした彼女に、返ってきたのは意外な言葉だ。
「出来れば、殿下はやめて欲しい」
「……と、仰いましても」
彼の名前は何だっただろうか。エヴェリが記憶を探る間に、彼は苦笑した。
「シシュ、と呼んでくれればいい」
「シシュ様、ですか?」
「俺の真名なんだ」
「それは……留意いたします」
真名とは随分古風なことを言う。
だが相手は王族なのだ。そういう風習もあるのだろう。
ただ真名というなら迂闊に口にしていいものとも思えない。彼がそれを明かしたのも、エヴェリが妻になる女だからだ。
―――― 現実味のない未来が、否応なしに近づいてきている。
石畳を踏む足が、ふわふわと覚束ないような気がして、エヴェリはあわててかぶりを振った。
どうせ期待をしても、即座に落胆させられるだけなのだ。
それならば先に自分から現実を思い知った方がいい。エヴェリは近づいて来る屋敷の玄関を前に、深く息を吐きだした。
「陛下は、どうしてウェリローシアをお選びなのです? 確かにわたくしどもは古き血を継いではおりますが、それ以外に何があるというわけではございません」
正確には、ウェリローシアが持っているのはアイリーデとの繋がりだ。
だがそれを明らかにする気はないし、もし王がその繋がりを取りこもうと欲しているなら、こちらにも出方はある。
敵意を隠して問うエヴェリは、だが彼を見上げて息を飲んだ。
いつの間にかシシュの黒い目がじっと彼女を見つめている。その視線に縫い留められるようにエヴェリは足を止めた。
「誤解があるようだが、今回は陛下があなたを選んだわけではないんだ」
「え?」
ならば、あの突然の発表は誰が糸を引いていたのか。
ヴェールの下でエヴェリは首を傾げる。彼の綺麗な顔立ちと、歪んだところのない立ち姿を見上げた。
「俺が、あなたを妻にしたいと願った。陛下はそれを汲んでくださっただけだ」
「…………え?」
何を言われたのか。
上手く飲みこめずに、エヴェリは言葉を失う。耳の奥で金平糖がからからと転がる音がした。
ゆっくりと甘味が溶けるだけの時間をかけて、彼女は言葉を拾い上げる。
「それは……」
何故彼は、自分を望んだのか。
自分が彼のことを何も知らないように、彼も自分のことを知らないはずだ。
先日の宴席に出たのも、年に一回あるかないかのことだ。彼女は基本、屋敷から出ないし誰とも顔を合わせない。彼に望まれる理由など何処にもない。
―――― だからこれは、期待にもならない疑問だ。
エヴェリは動揺しかけた自分を恥じる。自然と声に棘が滲んだ。
「婚姻はわたくしのことでもありますのに、あなた様にしか決定権はありませんのね」
猫の子をやりとりするように、自分の知らぬところで自分をやりとりされるのだ。それが政略結婚の常だとは知っているが、業腹であるのは事実だ。
これから一生を共にするであろう相手への、ささやかな意趣返し。
だがそれを聞いたシシュは、何故か目に見えて落ちこんでしまった。大きな花束を持ったまま軽く肩を落とす。
「……そういうつもりではないんだ。勿論、あなたの意思は尊重する」
「なら、わたくしがこの婚姻を白紙に戻して欲しいとお願いしたら、叶いますの?」
本気でそう願っているわけではない。
ただ少し釘を刺したいだけだ。少なくとも自分は、飴をもらって喜ぶ子供ではない。シシュも自分が反抗的な妻を持つのだと分かれば、彼女の扱いに気をつけるだろう。おかしな期待など要らないのだ。お互いの距離をお互いが弁えていればいい。
そう思ったエヴェリは、だから返ってきた言葉に唖然とした。
「それはできない。申し訳ないが、これに関してはあなたに断る権利はないと思って欲しい」
「―――― は?」
「いや、権利はあるんだ。あるんだが……ないと思っていてくれた方がいい」
「仰る意味が分かりかねます」
「すまない」
「…………」
謝られても困る。言っていることが意味不明だし、不愉快だ。
当然、ウェリローシアの当主として政略結婚の覚悟はある。だが、これからの人生をそれなりに関係していくのだから、お互いに尊重しあうのが筋というものだろう。
それを彼は、さっきから何だというのか。適当な言葉で宥める価値さえ彼女にはないと思っているのか。
ふつふつと苛立ちがこみ上げる。憤懣のまま口を開こうとしたエヴェリに……だが彼はぽつりと言った。
「顔を……見せて欲しい」
「わたくしの、ですか?」
そう言われても外では障りがある。ウェリローシアの当主は代々表に顔を出さない。
突然の要望にサァリが困惑すると、彼はそれ以上に困った顔で告げた。
「あなたを怒らせたいわけではないんだ。気がつくのが遅くてすまない」
「…………」
ヴェールで隠れた顔色は読み取れない。
彼はどうやら、素で女の感情の機微に疎いたちなのだろう。顔を見ていれば少しはましだと踏んだのかもしれないが、この分では顔を見ていても彼女を怒らせるだけではないだろうか。エヴェリは自分が人よりいくらか短気であることを知っていた。
とは言え、本当に消沈しているような彼を見ると、怒る気も減じてしまう。
エヴェリは溜息を飲みこむと玄関扉へと向かった。
「でしたらどうぞ中に。確かに、あなた様に顔を隠したままでいるのは失礼な振舞いでした」
「失礼ではない。あなたの立場では当然のことだろう」
「…………おかしな方ですね」
本当に、変な男だ。
エヴェリは扉を開けると、シシュを中に招き入れる。
ウェリローシアの屋敷は、入ってすぐが吹き抜けのホールになっている。
歴史を感じさせる木の柱が立ち並ぶ円形の広間。二階へと続く階段の前にいた召使が、二人の姿を見とめて飛び上がった。
エヴェリは彼女を呼ぶと、シシュが持っていた花束を委ねる。
「これを私の部屋に生けて頂戴」
「かしこまりました」
「あ、フィーラには内緒ね」
念を押すと、聞いていたシシュもまた苦い顔になる。さして王家に敬意を抱いていない従姉は、王弟であってもいつもの調子のようだ。シシュも痛い目にあわされたことがあるのだろう。
召使の姿が消えると、エヴェリは黒いヴェールを上げた。青い双眸で彼を見る。
「これでよろしいでしょうか」
「……ああ」
ほっとシシュの顔が緩む。
どうしてそんな風に嬉しそうに自分を見るのか、エヴェリは分からない。
シシュは彼女の滑らかな頬に手を伸ばそうとして、だがその不躾さに気づいたらしく腕を下ろした。
代わりに小さく微笑む。
「できれば、俺の前だけでいいからそうしてくれていると嬉しい」
「……あなた様が、そうお望みでしたら」
―――― 落ち着かない気分だ。
ヴェール越しにではなく誰かに見られるのが、ひどく珍しいからかもしれない。
それを望む相手はあちこち腹立たしくて、だが不快ではなかった。
むしろ、惹かれている。
彼の言動の意味不明さが気になるのかもしれない。ほんの少し話しているだけで、感情の起伏がひどく激しくなる。期待しては落胆し、怒っては気が抜けるの繰り返しだ。
まるで終わりが見えないまま走らされているようで、それでも彼と話を続けたいと思うのは、きっと彼のことを知りたいからだろう。
「お茶をお淹れしますわ」
あまり信用してはいけない。これも全て彼の手練のうちかもしれないのだ。
何が入っているのか分からない箱を、子供が覗きこむに似た好奇心。
箱入りだけにそんな自分を自覚しているエヴェリは、応接室の一つへと彼を手招いた。
―――― だがその時、ふっと違和感を覚える。
「……あれ」
何処かで空気の質が変じたかのような。
それが気のせいではないと分かったのは、シシュもまた玄関の向こうを振り返っていたからだ。
今までの困ったような表情とは違う鋭い視線。抑えた戦意。
途端に張りつめた空気が、広間そのものをも凍りつかせてしまうようだ。
何を睨んでいるのか軍刀に手をかけている彼に、エヴェリは恐る恐る声をかける。
「今、何か」
「……こちらに近づいてきているな」
何が、とは聞けない。真っ先に脳裏によぎったのは、先程の赤い光だ。
あの忌まわしくも鮮やかな何かが、近づいてきている。
それは、きっと――――
立ち尽くすエヴェリを振り返って、シシュは一瞬迷う目を見せた。
ここに留まるか、迎え撃つか。その二択をエヴェリもすぐに察する。足手まといになるまいと彼女はあわてて言った。
「シシュ様、わたくしは―――― 」
一人でも平気だ、と。
その言葉より、彼の行動の方が早かった。
細い腰に手が伸ばされる。有無を言わさず抱き寄せられると同時に、顎に手がかかった。
咄嗟に上げかけた声を彼の唇が塞ぐ。
―――― そして神の息が、吹き込まれた。
「…………!」
全身を貫くもの。
それは、何処までも冷たい力だ。
臓腑に落ちて、体の隅々にまで広がっていく何か。
古くから続く、変わりのないもの。そして、代わりのなきもの。
深い水の中に引きずり込まれたかのように、エヴェリは彼の腕の中から逃れようともがいた。
だが、シシュはそれを許さない。
ほんの一瞬唇が離れ、だが空気を求めて喘いだ直後、もう一度氷雪のような息を吹き込まれる。
足の力が抜けて崩れ落ちそうになったエヴェリを、シシュは支えて床に座らせた。半ば自失してしまった彼女を見下ろす。
「これで少しは持つはずだ。ここにいてくれ。―――― すぐ戻る」
迷いのない声。
扉の向こうに消える男の背を、エヴェリは呆然と見送る。震える手がドレスの裾を掴んだ。くらくらと眩暈はするし、動悸はやまない。息が切れて死んでしまいそうだ。
そして、何よりも――――
「……意味が、分からない……」
エヴェリは冷たい唇を噛み締める。
とりあえず、戻ってきたら断固抗議しようとは思った。
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