第144話 流儀
サァリの従姉であり、ヴァスの姉のフィーラは、シシュにとって非常に苦手な相手だ。
何を考えているか分からないし、何をしてくるか分からない。サァリが非常に恐れていたのも頷ける。
だが今この場にあって、フィーラの登場に頭痛を覚えたのは、何よりも馬車の外に立つ彼女が明らかにこの状況を楽しんでいたからだ。
口にしたい諸々を飲みこんで、シシュは馬車の外へと降りる。扉を閉める前に、サァリを見上げて言った。
「すまなかった……エヴェリ」
貴族としての名を呼んで詫びると、彼女はびくりと震える。
そんな姿に申し訳なさを感じて、シシュは扉を閉じた。改めてフィーラに向き直る。
「―――― あなたは、今の事態をどこまで把握している?」
「どこまでだなんて。大事な姫のことなら全て把握しているわ」
「なら、彼女はいつから王都に?」
「生まれた時からずっとかしら。当たり前のことでしょう?」
「…………」
含みのある笑顔に、シシュは無言になる。
だが不毛にも思えるやりとりで、二つのことは分かった。
まず一つは、フィーラが事態のおおよそを把握しているということ。
そしてもう一つは、シシュにその情報を素直に渡すつもりがないということだ。
自分の役割を好んで演じているような女に、シシュは溜息をつくと頷いた。
「分かった……とりあえずは彼女を頼む。後で出直してくる」
「陛下によろしくお伝えくださいな」
そうフィーラが釘を刺してくるということは、やはり今回の首謀者は王なのだろう。
脳裏に浮かんでくるいくつもの呪詛を飲みこんで、その場を去ろうとするシシュに、フィーラは顔を寄せて囁く。
「あなたが、毎晩わたしの姫を好きにしていると思うだけで、はらわたが煮えくり返る思いだったわ」
「……神供として正式な手順は踏んでいる」
「アイリーデのね。そんなの、わたしは知らないわ」
フィーラは艶やかに笑うと馬車の扉に手をかける。
「だから今度は―――― 王都の流儀でいらっしゃいな、殿下」
勝ち誇ったようにそう言って、フィーラは馬車の中に消える。
そうして出ていく馬車を見送ったシシュは、苦い思いを抱えながら……改めて今回の首謀者を訪ねた。
「説明をお願いいたします」
夜の謁見室は、冷え切って寒々しい。
それはシシュ自身が放っている剣呑な空気のせいだけではなく、室内の景観自体も影響しているだろう。
あれだけ部屋中を埋め尽くしていた花は、今は一鉢も残ってない。王は自分の巫がいなくなって以来、それらを全て外の温室に移し、庭師の手に委ねたのだ。
だから今、王自身が育てている鉢は一つもない。
そのことを考えると複雑な気分になるが―――― それはそれ、これはこれだ。
怒りを隠せない異母弟の目に、玉座に座る王はあっさりと笑った。
「先に彼女の方に行ってしまったのか。お前にとっては当然の選択だったが、結果的には失策だったね」
「……説明をお願いいたします」
王の言わんとするところを理解して、シシュは一層苦い顔になる。
―――― つまり、あのサァリは本当に何も事情を知らないのだろう。だから、突然現れたシシュに怯えたのだ。
王はくすくすと笑うと、真面目な顔になる。
「今回の虫の件、実は先に余が相談したのは、彼女の方なのだよ」
「サァリーディに?」
そこまで言って、シシュはすぐに思い当たる。
数日前、蔵明けから帰ってきたサァリがしばらく思い悩んでいたのは、王からの相談があった為なのだ。
そうして彼女は何かを迷って、心を決めた。その結果が今なのだろう。
得心するシシュに王は苦笑した。
「お前の推測通りだ。彼女は虫の話を聞いて、『誰かが意図的にトルロニアを攻撃している可能性がある』と言ったのだ。だが『自分はその解決には乗り出せない』とも」
「……彼女は、アイリーデの主ですので」
神である彼女と契約を結んでいるのは、アイリーデという街そのものだ。
時代によって所属する国を変えてきたアイリーデは、実質国の存亡には興味がない。
だからこそ彼女は、乗り出したくともこの問題に関わりきれないのだろう。
だがだからと言って無視することも出来ない。彼女はこの国よりシシュを神供として受け取ったからだ。
「短期決戦であれば、彼女自身が出ようとも言ってくれたのだけどね。この状況では時間がかかる。だから結局、彼女はお前を此度の解決にあたる人員として選んだのだ」
神の半身である男。
人であった頃の彼の出自を考えれば、確かにそれは当然の結論だ。
ただ、問題なのはそこではない。彼女自身が、どうしてあったなったかだ。
「……サァリーディは、記憶を失っているのですか」
「正確には、失っているのは記憶ではなく神性だがね」
「神性?」
まだ彼女が少女であった頃、巫としての彼女と神としての彼女は分離していたのだ。
それが神の目覚めによって二面性を得た。やがてその二面性が融合して、今のサァリーディになったのだ。
その神性を失っているとは、言ってしまえば彼女の半分が失われているということだろう。
「彼女が巫であったのも、神の力があったからこそだろう。だからそれが失われれば、残るのはただの美しい少女だ。古き家の当主として、若き身に重圧を背負って生きている」
「それが、今のサァリーディですか」
「エヴェリ・サリア・ウェリローシアと言った方が正しいだろうね。彼女にとって巫としての自分は知らない自分だ」
「ですが、サァリーディが何故そんなことに……」
王都の問題をシシュに委ねたなら、彼女自身はアイリーデにいてもいいはずだ。
それを何故今のような状態を選んだのか。
むしろ彼女には、安全なアイリーデにいて欲しかった。
そう思いながら言葉を飲みこむシシュに、王はふっと顔を綻ばす。嬉しそうな表情は、初めて感情が見えるものだ。
王は穏やかな目で異母弟を見た。
「他国が絡んでいるかもしれない状況で、お前を一人にはしたくなかったのだろう。お前には立場があるし、その性格だ。一人でいれば間違いなく損な目に遭う」
それはつまり、政略結婚についての圧力ということだ。
事実、王とシシュ以外の皆は、彼がイスファ王女と婚約することを予想していた。
だがサァリがそれをよしとするはずがない。日頃からサァリは、シシュが王弟という立場に困っていることを心配していたのだ。
「でも『自分が自分のまま王都に来れば、いざという時、この国を滅ぼしてしまうかもしれないから』と言ってね。彼女は自ら、自分の神性をお前に預けたのだよ。勿論、アイリーデの守護に残した分を除いてだけどね」
「私に……預けた、ですか?」
と言われても、そんな覚えはない。
彼は、客取りの儀礼時に彼女の手によって人から外れたものになったが、それは彼女自身の神性を譲り分けたわけではないのだ。
ただ……言われてみれば、少し前から時折、眩暈を感じる。
それは体の奥底に眠る焔が、ふっと揺らいでいるかのようだ。
―――― 一体いつからこの焔が身の内にあったのか。
探ろうとしてすぐにシシュは、心当たりに思い至る。
「というわけで、彼女がああなったのは彼女自身の選択だ。お前との婚約は、言わば彼女の厚情に対する余からの返礼だ」
「……それならそうと、事前に教えて頂きたかったです」
「それをするとお前は顔に出る」
「…………」
演技ができない、と言外に言われて、シシュは口を噤む。
それに関してはまったく否定できない。事前にあの話を聞いていたなら同じ反応は出来なかっただろう。
王はそこで、笑顔を消して頷いた。
「皆にとって予想外の発表だということに意味があるのだよ。こういう機会に多くの反応を見ておきたい。今はもう、ベルヴィがいないからね」
王の片腕であった先視と遠視の巫女。
彼女の不在は、王にとって多くの意味で痛手なのだろう。夜道を照らす灯りが失われたように、これからは自分で全ての情報を集めるしかない。
それだけでなく彼女は、王にとって精神的な支柱でもあったのだ。
―――― 気持ちは分かる、などとはとても言えない。
シシュにとって出来ることはただ、現状を受け入れ役目を果たすだけだ。
サァリが彼に今回の解決を委ねるというのなら、出来るだけ速やかな決着を。
シシュは、腰に佩いた軍刀を意識する。
「かしこまりました。では当初の予定通り、事件の解決に努めます」
「任せたよ。余は余でお前に出来ないことをしよう」
そう言って微笑む王は、既に感情の分からない笑顔だ。
シシュは一礼して退出しようとし、だがふっと気になっていたことを思い出した。今のうちに王へと尋ねる。
「私が預かった神性は、事件が終われば自然に彼女に戻るのですか?」
サァリーディがあの状態では、彼女に聞いても分からないに違いない。
王ならばそれを聞いているかと思ったシシュは、だが返された言葉に絶句した。
「『預けた時と同じようにすれば戻る』と言っていたよ。お前が自分で機を判断して返しなさい。くれぐれもこの国を滅ぼさないように」
「……………………」
サァリの神性を、いつどのように預かったのか。
心当たりは一つだ。客取りの儀式と同様、床において受け取った。
かつてサァリは言っていたのだ。「交わっている時に変えると、気づかれにくい」と。
シシュは、眠ったままの妻を寝所に置いて出てきたのが、「サァリーディ」と会った最後だと思い出す。
つまりあれと同じようにするとは、今の「エヴェリ」の心を改めて自分に向けさせるということで――――
「無理だ…………」
突然そう言って頭を抱える弟を、王は唖然として見やる。
だがどんなに奇異の目で見られても取り繕えない。
今のシシュには外交よりも、謎の怪死事件よりも―――― 二度目の神婚の方が、困難な問題に思えたのだ。
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