第陸譚
第142話 青焔
しん、と静まり返った夜の空気は、命あるもの全てを包みこんで覆い隠してしまうようだ。
街を彩る芸楽の音も、北の外れにあるここまでは届かない。ただ机の上に灯した蝋燭の火が、時折揺れて生き物のように見えるだけだ。
静謐が物言わぬ重みとなってそこかしこを満たしている時間。本の頁を捲っていたシシュは、戸の開く音に顔を上げた。風呂上りの妻を見とめる。
「遅かったな、サァリーディ」
「ん……」
白い浴衣に濡れ髪をまとめ上げた彼女は、化粧をしていないにも関わらず、大輪の花のような艶やかさがあった。
青い瞳は澄んだ色で、高い鼻梁もその下の花弁の唇も奇跡的な造作を保っている。
折れそうな細い躰は、侵しがたい硝子細工のような印象を見る者に抱かせた。
よく知っているはずの妻の美貌に、シシュは見惚れる。
「大丈夫、ちゃんと温まってきたから」
淡く微笑むサァリは、けれど美しい貌に何処となく翳を落としているようだ。
王都の蔵明けより帰って来てから三日、時折物憂げに見える彼女に、シシュは眉を顰めた。
「本当にどうかしたのか?」
彼女が王都の屋敷に帰っていたのは、ほんの数日のことだ。
年に一度、蔵を開けて中のものを整理するという儀式。そこに当主の彼女が立ち会うのは当然のことで……ただシシュは今になって、ついていかなかったことを後悔もしていた。彼女がいない間、街を守らなければということでアイリーデに残ったのだが、知らぬうちにサァリは何か憂いの種を抱えてきたのかもしれない。
今までは、彼女にも色々考えがあるのだろうと踏みこまずに来たが、あまり引きずっているようなら話は別だ。
そう思って立ちあがったシシュに、だがサァリは美しく微笑いなおした。
「大丈夫。何でもないよ」
「だが……」
「本当に。ちょっと迷ってただけだから」
何を迷っていたのか、だがそれを口にする気はないらしい。
おそらくは、生家であるウェリローシアにまつわる問題なのだろう。かつて消えてしまった彼女の従兄、ウェリローシアの青年のことを思い出し、シシュは口を噤んだ。
全てを打ち明けられないことにもどかしさがないわけではないが、サァリにはサァリの負うものがある。それも含めて彼は、妻の意志を尊重しようと思っているのだ。
それに―――― サァリであれば本当に肝心な時には自分を頼ってくれるだろう。
揺るぎない信頼は、深い愛情から来るものだ。
シシュは伸ばされた両手を取る。彼が寝台に座ると、サァリはいつものように膝の上に上がってきた。濡れた銀色の髪が、蝋燭の火を受けて艶やかに光る。見つめれば飲まれそうな美貌が、うっとりと囁いた。
「大丈夫。もう決めたから」
「決めたって何をだ?」
「そのうち分かるよ」
そう言って彼女はシシュの耳朶に口付ける。
首に絡みつく両腕。熱を持った細い躰に、シシュは軽い眩暈を覚えた。
その深奥に何度触れても慣れない気がするのは、彼女の存在が何処か「禁忌」を意識させるからだろう。
―――― 人の身で神聖なるものを侵す。
それは彼が人でなくなった後も、そして無二の愛情を以てしても消えない感覚だ。
だから彼は、割れ物を抱くように妻に触れる。彼女を壊さないように、自らを御する。
時に狂おしく己を焼く熱が、彼女自身をも焼いてしまわないように。
古い約に基づいて、神供を迎え入れる床。
その上にある神は艶めかしい白さの腕を上げ、彼の顔に触れた。
「シシュは、もし私が普通の娼妓だったら買ってくれた?」
「……前にも聞かれたな、それは」
以前彼は同じ質問に、「出会っていれば惹かれただろう」と答えたのだ。そしてその言葉に偽りはない。
たとえ多くの時間を必要とするとしても、自分はいつしか彼女に惹かれるだろう。薄い両肩に多大なる荷を負って、それでも毅然と在る姿を、懸命な彼女の生き方を愛しいと思うのだ。
サァリは婉曲な答えに、嬉しそうに微笑む。
「なら、もし王都の貴族として出会っていたら?」
月白の媛ではなく、王都ウェリローシアの当主として。
彼女を識っていたなら、どうなっただろう。
あったかもしれない仮定、けれど初めて呈された問いに、シシュは一瞬押し黙る。
王の異母弟であり、その忠実な臣下でもあった青年は、ややあって答えた。
「同じことだ。巫には面倒をかけるかもしれないが……」
「シシュ、不器用だもんね」
王都の貴族同士の婚姻となれば、本人たちの意向は関係なく進むのが普通だ。
だがもし自分が私的に惹かれて彼女を娶りたいと願ったなら、さぞ武骨で無粋な立ち回りしか出来ないだろう。腹芸の一つも出来ない男に、月白と繋がるウェリローシアがいい顔をするとは思えない。会う約束を取り付けることさえ難しいかもしれない。
そんな事態に陥らなくてよかったと、シシュは内心安堵する。
アイリーデでは少なくとも、巫と化生斬りという役割が彼らを繋いだのだ。
それでも紆余曲折あった過去を振り返って、シシュは無言を保った。彼の沈黙を答えとして、サァリはくすくすと笑う。
「ありがとう、シシュ。大好き」
「一体どうしたんだ、サァリーディ」
「ううん。ただ聞いておきたいと思って」
サァリはちらりと机の蝋燭を一瞥した。彼女が指を鳴らすと、その火も消える。
後に残るのは窓から差し込む月光だけだ。恐ろしいほど柔らかな躰が、情を以て彼の腕の中に投げ出される。
薄青く光る瞳が、焼けるように彼を見つめた。
「じゃあシシュ……もう一度私に恋をさせてね」
そんな風に囁かれたことを―――― 彼は後に思い出す。
それは神の冷たい焔が、彼へと注がれた晩のことだった。
※
宮廷の気風には、どれだけ経とうとも馴染まない気がする。
何処までも続く気がする長い廊下。その先をぼんやり眺めていたシシュは、我に返るとかぶりを振った。
すぐに後ろから男の声がかかる。
「いかがいたしましたか、殿下」
「……殿下はやめてくれ」
そう言って振り返ると、士官姿の青年はからからと笑う。
赤みがかった金髪が目を引く長身の彼は、レノスと言って士官学校時代のシシュの同級生だ。
ただ同級と言ってもシシュは飛び級をしたため、実際には三歳年上になる。
そのせいか昔から弟にするようにぞんざいに接してくるレノスに、シシュは呆れ顔になった。
「こんなところで何をしてるんだ。今日から皆、警備の強化に駆り出されてるはずだろう」
「夜番と交代したんだ。今は休憩中」
手を広げて見せる彼に、シシュは軽く息をつく。
自分の立場を弁えていないわけではないが、宮廷の空気に若干の息苦しさを感じるのも事実だ。
ましてや今は憂鬱な案件もある。知った顔と話せるのは気が楽だ。
そんなシシュの内心を察しているのかいないのか、レノスはぽんぽんと彼の肩を叩いた。
「で、久しぶりに帰って来たと思ったら、また陛下にいじめられたのか」
「その言い方は語弊がある……」
いくら異母兄弟とは言え、相手は自分の主君だった人間で、今でも敬愛の心に変わりはない。
そんな相手からの所業を「いじめられた」とは言えなくて、シシュは叩かれた肩を落とした。
レノスは窓の外、広がる街並みを見やる。
「何を言われたかは大体察しがつくぞ。大方、縁談についてだろう。―――― 噂のイスファ王女がくる」
「…………」
アイリーデにサァリが帰って来てから三日。
彼女と入れ違うように、シシュは唐突に王都に呼び出されたのだ。
早朝「緊急で」と言われた結果、眠っていた妻とも話せずにここまで来てしまった。下女に言付けはしているが、一刻も早く月白に戻りたい。
だが事態が国同士の問題に関わっているとなれば、そうもいかない。
レノスが縁談などと言うのも無理はないだろう。
隣国イスファが王女を使節として送り込んで来たのは、不穏な動きを見せる外洋国に対し、この国トルロニアと同盟を結ぶためなのだから。
今夜には、王女を歓迎するために王都の有力者や貴族を招いての宴席がある。
大方の人間は、そこで王弟であるシシュと彼女の婚約が発表されるのではないか、と予想しているのだ。
だが、そんな想像に反して王はシシュに何も言っていない。表向きには妻帯していない弟が、神婚を務めた神供だと知っているからだ。
縁談を断ってイスファとの国交がこじれれば面倒なことにはなるだろうが、サァリを怒らせれば王都の滅亡は確定になる。より確実な危機を避けようとするのは、王として当然の判断だろう。
だから王がシシュに言ったのは―――― もっと別のことだ。
彼は声を潜めてレノスに問う。
「例の死人は、まだ増えているのか?」
「残念ながら変わらない。失踪事件がなくなったと思ったらこれだ」
最近、王都で広がっている怪死事件。
数か月前には、夫婦や恋人同士が失踪し、片方は餓死死体で発見されるという事件が相次いでいたが、その決着が人知れずアイリーデでついてからしばらく、今度は新たな怪死事件が続出するようになったのだ。
亡くなる者は老若男女の区別なく、ただある日全身の血を失った遺体となって発見される。その惨状が以前の失踪事件に似ている為、王はシシュを呼び出したのだ。曰く「虫が残っているのかもしれない」と。
人に棲みつきその人を死に至らしめる黒い虫は、サァリによると「死者が使役されたもの」らしいが、それを使役していた白羽は既に滅ぼされている。ならば、今王都で起きている事件は、何が原因なのか。
それはひょっとしたら―――― イスファと同盟を結ぼうとしているトルロニアを、よく思わない何者かの仕業なのかもしれない。
だとしたらひとまず、優先すべきはイスファの王女だ。国内で彼女を死なせることにでもなれば、両国の関係は悪化する。彼女がトルロニアに滞在するのは、今日を入れて十五日。その間の彼女の護衛が、シシュの役目だ。
「怪死事件を解決出来るのならそれが一番なんだが……」
シシュは、戦う力自体は飛びぬけているが、調査し真相を見極める力はそれとは別種のものだ。
以前の事件を解決したのもサァリで、それも彼女が調査関係なく全てを一掃したからに過ぎない。
不甲斐ないことだが、そういったことは城の調査官たちに任せて、自分は守る方に回るしかないだろう。
「……サァリーディに迷惑はかけられないからな」
アイリーデに残してきた妻に、面倒をかけるようなことがあってはならない。
そう言いつつ彼は、くらりと軽い眩暈を覚えてこめかみを押さえた。
体の奥底で、何かが揺らいだような感覚。だがそれはすぐに沈み込むように消え去る。
シシュは軽くかぶりを振って違和感を振り落とすと、優秀な士官であるかつての同級生を見やった。
「おそらく……敵は人外だろう。あてはついてきたか?」
「人外の知り合いはいないからなあ。でも、人は動いてる。時間の問題だろう」
そう苦笑するレノスに、今は人外となったシシュは真面目くさって頷いた。
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