第141話 婚姻


 ―――― 彼女の客となった当初、「花代は要らない」と言われたが、それも申し訳ない気がする。

 すっかり月白に泊まることにも慣れたある朝、帰ろうとして玄関先で友人と出くわしたシシュは、ずっと悩んでいたその内容を口にした。

 上り口に胡坐をかくトーマは、呆れたように返す。

「お前、それで毎回払ってたらあっという間に無一文になるぞ。初回の時に金額聞いただろ」

「聞いた。払った」

「どうやって払ったんだ? 持ち歩ける量の金じゃなかっただろ」

「貴金属で払った」

 下女に遠慮がちに告げられた金額は、小さな家が一軒くらいは建つものだった。

 それを、あらかじめ用意しておいた大粒の宝石一握りで払ったシシュは、トーマの隣に足を組んで座る。

 いくら館が開いていない早朝とはいえ、他に泊まっている客がいたならぎょっとされるだろう。だが月白はそう客が多い妓館でもない。

 当然のように下女が彼らに茶を持ってくると、二人は玄関で落ち着いてしまった。

 茶を啜るトーマは、歴史ある館の天井を見上げる。

「ま、どうしてもっていうならサァリに相談しろ。別に要らないって言われるだろうけどな」

「気が引ける……」

「まめに出入りしてやれば、用心棒にも力仕事にも重宝されるだろ。それに、俺はもう来なくなるからな。面倒見てやってくれ」

「そうなのか」

 茶碗を手に取りながら普通に返して、シシュは言われた内容に気付いた。思わず茶を零しそうになる。

「は? もう来ない?」

「お前が来たからな。俺はそろそろイーシアを連れて王都に戻る。アイリーデには来るけどな。月白の客でいるのは終わりだ」

 笑いもしない男の横顔は、娘を嫁に出した父親を思わせる。

 数秒間、唖然として友人を凝視していたシシュは、トーマが肩を震わせて笑い出したところで我に返った。驚いてしまった自分を恥じて座りなおす。

「なんだ、冗談か……たちの悪い」

「いや本気だっての。ってか、お前も将来同じ気持ちを味わうからな。お前の娘が次の月白の主だ」

「…………」

 そんなことは考えもしなかった、というか、思いつかなかった。

 愕然として固まるシシュに、トーマは笑いながら立ち上がる。青い蝶の描かれた湯呑を、男は上り口に置いた。

「んじゃ、次来る時が最後だ。―――― あれを頼む」


 時代はこうして、移り変わるのかもしれない。

 黙って頷いたシシュに、トーマは笑って手を振ると玄関を出て行った。

 しんと静まり返る三和土に時間の重みが振りかかる。





 その日の夜、サァリに友人との会話について話すと、彼女はまるで分っていたかのように「そっか」と苦笑した。兄のことには触れず、花代の話についてのみ答える。

「お金は本当にいいんだけど」

「食事代だけでも出したいんだが。気が引けて仕方ない」

「んー」

 白い躰に襦袢だけを羽織った彼女は、寝床で首を傾げた。何かを思いついたのか、人差し指をぴんと立てる。

「なら、シシュ、離れに住む? ちょうど一階空いてるし」

「え?」

「一緒に住も。それならいいでしょ。主の間使わなくてもよくなるし」

 名案だ、と笑顔になる女にシシュは何も言えなくなる。

 だが……トーマに頼まれたことを思うと、その方がいいのかもしれない。思案顔になった彼に、サァリはべったりとくっつく。彼よりも少し体温の高い女は、そうして幸せそうに眼を閉じた。ただ一人の客であり、同族。夫でもある男に添って、彼女は眠る。

 ―――― 去っていく者がいようとも、自分だけは彼女の傍に居続ける。

 シシュは己の誓約を思い出し息をつくと、小さな頭をそっと抱いた。

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