第140話 結
愛していた。
愛されてもいたのだろう。
ただそれが、噛み合わないことがあるのもまた確かだ。
想って伝わらず、黙して痛みを飲みこむ。
純粋でもあり、欲と結びついてもいる。
健気で、歪な。真摯で、弱い。
それこそが―――― きっと人の愛だ。
何が真実で、何が間違っていたのか。
月光だけが照らす路地で、羽根の消えた宙をタセルは呆然と見上げる。
―――― 白羽が死んだなら、次は自分だ。
そう疑っていないタセルの肩を、だがシシュがぽんと叩いた。
「動けるか? 彼女を月白に連れて帰って欲しいんだが」
「……殿下」
シシュが言うのは倒れたままのジィーアのことだろう。
確かに彼女は早く休ませなければまずい。
だがタセルが彼女に触れることを、果たしてサァリは許すのか。彼は恐ろしい女の顔色を窺おうとして―――― だがその視線はシシュの体で遮られた。苦りきった顔の青年は、ジィーアを指差す。
「大丈夫だ。巫はそれほど狭量じゃない」
「聞こえてるよ、シシュ」
「サァリーディがあまり脅かすからだろう……」
「そんなに脅かしてないのに。それより、ジィーアが風邪引いちゃうから、動けるなら働いて。腰が抜けてるなら他の人に頼むけど」
「…………いや、大丈夫だ」
自分のことはともかく、ジィーアを道に置いたままなのは問題だ。
タセルはよろめきながらも立ち上がると、白い女に歩み寄る。そうしてか細い体を抱き上げた。
砂に汚れた顔には涙の痕がある。少し悲しげに寄せられた目元を見ると、もう彼女を「人形のよう」とは思えなかった。
体は地面に倒れていたせいか、サァリの力を受けた余波か冷えきっている。それでも確かに感じられる体温にタセルは心から安堵した。軽い体を抱きなおす。
「悪かった……巻きこんで」
彼女が本当はどういう人間なのか、何を望んでいるのか知りたいことは山程ある。
だから、目覚めて体を癒したなら、また改めて話をしよう。彼自身のこれからもそうして始まるのかもしれない。
タセルは彼女を庇うように、月光の届かない道を選んで歩き出す。
その不器用な足取りは、だが確かに先へと続くものだった。
タセルの姿が消えるのを待って、シシュは妻の方を振り返った。
うっすらと光を帯びる銀の髪、同じく淡く輝く瞳のままのサァリは微笑む。
「そんなに危険物扱いしなくてもいいのに。別に目が合っても殺さないよ」
夫が意図的にタセルの視線を遮ったことを、彼女は気づいているのだろう。愉しそうに笑う妻に、彼はかぶりを振った。
「それは疑ってない。単に……今の巫を人には見せたくないんだ」
シシュは言いながら、制服の上着を脱ぐと妻に羽織らせた。身長差があるため、サァリが着ると膝近くまでが隠れる。彼女はだぼつく袖を上げて見せた。
「あれ、衣裳透けてた?」
「透けてない」
舞衣は薄絹で出来ているが、何枚も重ねているせいか透けてはいない。
いないのだが、今の彼女は着物をはだけさせた娼妓よりも余程煽情的だ。
有り余る神の力が、その存在が、魂を屈服させるほどの魅力となって細い躰にまとわりついている。
ただの一瞥が、人を狂わせる。
自らの情愛を謳った名残が抜けきらないのだろう。隠しもしない神の在り方は、人肌を呼ぶ引力に満ちていた。
寝所にいる時と同じ、ねだるような青い瞳に見上げられて、シシュは眩暈を覚える。
彼は深い溜息を持って自らから熱を追い出すと、サァリに言った。
「ともかく、一度落ち着かせてくれ。人前に出せない」
「落ち着かせてって、私を? シシュを?」
「…………俺のことは放っておいてくれ」
「構いたいのに」
何と言われても、危うくも保っている均衡を破られては自制がきかなくなってしまう。
普通の男であればタセルのように恐怖で打ちのめされるのかもしれないが、シシュは妻の在り方を当然と受け止めているのだ。彼は、見えている細い首筋に口付けたい衝動を飲みこんだ。
そうして頭の中で史書の暗唱をしながら、シシュはサァリに手を差し伸べる。彼女は少女のように嬉しそうな笑顔でその手を取った。
一定の距離を取りながら彼女の手を引く夫に、サァリは色のある目を向ける。
「シシュは私が恐い?」
「いや? それが巫だろう。当たり前のことだ」
彼女は彼女の理を以て、愛を以て、守るものと殺すものを選んでいる。
その気性は苛烈だが、それは彼女の情の深さと同一だ。
神である彼女は、己の存在の特異さゆえに、ずっと孤独に苛まれてきたのだ。
だから唯一の同族の自分だけは、彼女を恐れることはない。否定することも、離れることも決して。
サァリは夫の答に青い目を瞠る。
そのまま彼に見惚れたのは一瞬、すぐに彼女は夫に飛びついた。
「シシュ大好き! 愛してる!」
「急にどうした……」
どうにも羽根を受け入れた影響で、感情がおかしな方向に振りきれてしまっているのではないだろうか。
少女のような浮き立ちぷりで飛び跳ねる妻に、シシュはげっそりと返す。
だがサァリはそれを見て素早く絡めていた腕を解くと、代わりに背伸びして彼の耳元に唇を寄せた。陶然と囁く。
「わたくしは全てあなた様のもの。可愛がってくださいな、旦那様」
「…………」
歯を食いしばって、波のような衝動に耐える。
そんな彼に、サァリはころころと笑った。何だか昔を思い出すが、昔よりもずっとたちが悪い。
シシュはまた、眩暈を押し出そうと深呼吸する。
「俺で遊ぶな、サァリーディ……」
「遊んでないよ? 好きにしていいよ?」
「後始末をしてからな……」
手を取って握り返される指は氷のように冷たいが、内には恐ろしい熱を孕んでいる。
それが自分を芯から焼き尽くしてしまうようで―――― シシュは揺らぎかけた理性を留めると、また史書を最初からなぞり始めた。
※
不可思議な失踪変死事件は、こうして密やかに幕を閉じた。
当の羽根について、サァリは「永く生きて変じた動物だと思うよ。鼬? 鳥? そういうのが向こうの大陸にはいるみたいね」と結論づける。
それにともなって王都には「外洋国から持ち込まれる動植物には注意するように」という忠告がもたらされた。今後外からどんなものが再び入り込んでくるかは分からない。だがその時にはまた、誰かの手によって相応の末路がもたらされるのだろう。
そうでなければ、再び神が出るだけだ。
※
「色々と……すまなかった」
全てが片付けられた後の寧日、花の間に通されたタセルは、床に寝そべる女に頭を下げる。
『わたしを見て』と願ったジィーアは、今は彼の方を見もしない。いつものようにうつ伏せになってビー玉を転がしていた。
彼女の隣りに胡坐をかいて座っているタセルは、投げ出された裸足を一瞥する。
あの夜、血を滲ませていた傷は、ちゃんと塞がったようだ。彼はほっと息をついた。
何も答えないジィーアに、タセルは続ける。
「俺自身、姉の死からずっと迷っていたのだと思う。……いや、もっとずっと前から迷っていた。その弱さがあんな事態を招いた。君には余計な迷惑をかけた」
姉を愛していた―――― その気持ちはきっと真実だ。
だが今となっては、振り返って思い出すのは郷愁に似た家族への思いだけだ。狂いそうなほどの熱は、羽根を身に宿していたが故のものだったのかもしれない。どこまでが本当でどこまでが歪められたものなのか。だが彼はそこに、境界線を引く気にはなれなかった。
タセルはちらりと自分の背後を見やる。
そこにはもう、姉はいないのかもしれない。全てが片付いて彼女もあるべきところに去ったのか……だからこそジィーアは自分に興味を失くしたのだろう。
そう思うと寂しくもあるが、これ以上を望むのはきっと我儘だ。彼女に会いに花の間に来て、だが自分を見ようとしない彼女に、タセルはそう自らを納得させた。
彼は手元に置いていた箱を、ジィーアの方へ押しやる。
「これは君に。俺は王都に帰る」
「……っ」
ジィーアが初めて顔を上げる。
新緑を思わせる緑の瞳。その色を、タセルは美しいと思った。自然に言葉が滑り出る。
「どうか君は……幸福になってくれ」
不器用に生きているのだろう彼女が、幸せになってくれればいいと願う。
そんな想いも、あると思う。
タセルは笑って立ち上がる。そうして扉へと向かう彼に、ジィーアの声が聞こえた。
「あなたを助けたかったのは、母さまに似てたから」
彼は振り返る。
両手をついて上体を起こした彼女は、真っ直ぐに、素直な目で彼を見ていた。
『どうして助けてくれるのか』と問うた彼に対しての答え。
いささか予想外だったその内容に、タセルは内心落胆しつつ苦笑する。
「そうか。助かった。姉のことも」
彼女が教えてくれた姉の言葉。あれが真実でも違っていてもどちらでもいい。
姉は生前、そんな言葉を口にしなかった。たとえ思っていたとしても最後まで言わなかったのならば、口を噤むことを選んだ方が真実なのだ。
だがそう微笑むタセルに、彼女は勢いよく首を横に振る。
「死んだ人間は、嘘つきなのよ」
「嘘つき?」
「死んで残るうちに、元のその人から変質してしまうから。言葉も変わってしまうの。だから、信じて傷つかないで。きっとあなたの知っている姿の方が、その人の本当なのよ」
「……君は、優しいな」
それはきっと半分が事実で、半分は彼女の慰めだ。
死者に囚われ思い悩む人間に、死口がつく優しい嘘。
彼の言葉に、ジィーアは真っ赤になる。だがすぐに彼女はきっと厳しい目でタセルを睨んだ。
「そんなのは気のせいよ。わたしは娼妓なのだから」
「そうだな。だから、また来るよ」
愚かさに迷い、姉の面影に右往左往した自分では、きっと何も始められないだろう。
だからまたいつか。今度は彼女を傷つけることなく向き合えるように。
「また来る。君に選んでもらえるように」
言葉を交わして、手を取って、始める。
そんな日が来ればいい。彼女が何にも恐れず、憂えず、穏やかに笑えるような日が。
タセルは彼女に一礼して花の間を出ていく。
閉まる扉を見つめて、ジィーアはそろそろと床に座り直した。彼が残していった箱を開ける。
そして息を飲んだ。
そこには、真白い花をあしらった小さな靴が一足収まっていた。
花の間を出た先、玄関にて待っていたのは月白の主だ。
白い着物にきちんと髪を結い上げた彼女は、隙一つない館主であったが、タセルは反射的に慄く。
そんな彼を見てサァリはくすりと笑った。
「もうお帰りでよろしいので?」
「……またいずれ伺うつもりだ」
「うちの花代は高いですよ」
さらりとそんなことを言うサァリは、青い目に稚気を見え隠れさせている。
彼に対する牽制なのか悪戯なのか。ただその程度で済んでいるうちは幸運だ。彼は内心の畏れを隠して返した。
「殿下も、君を娶る時は苦労なさったのか」
「あの方からは命を頂きましたわ」
「……笑えない冗談だ」
もっともどんな経緯があったにせよ、今のシシュが彼女を大切に思っているのはよく分かる。
神に捧げられた街、アイリーデ。
古き正統と呼ばれるこの妓館には、おそらく人には窺い知れぬ古きものが存在しているのだろう。
靴を履き、去っていこうとするタセルにサァリは嫣然と笑った。
「それでも、私が今こうして自由でいられるのは―――― あの方がいらっしゃるおかげなのです」
※
人の子が去っていった後、月白に残るものは神とその側女だけだ。
足早に暮れていく空。三和土からそれを見上げたサァリは、いつものように灯り籠に火を入れる。
誰彼が、夜へと席を譲る時間。玄関に佇む彼女の前に、タセルを見送ったのだろう夫が戻ってきた。
彼女は最愛の客を見て、花のように顔を綻ばせる。
「おかえりなさいませ、旦那様」
「帰ってきたわけじゃないんだ……すまない」
「まだ色々残務があるんだもんね。でもお茶くらいはいいでしょう? 私がそれを読む間くらい」
サァリが指差したのは、夫が携えている王からの書簡だ。此度の事件に絡んで、兄からの返答をもらってきたらしい。
シシュは困った顔で頷いた。
「またどうせ余計なことまで書いてあるんだろう。本文だけ目を通してくれ」
「ちゃんと読むよ。シシュの昔の話とか面白いもん」
「そういうのが余計なことだと……」
「ほら、行こ? いいお茶を仕入れてあるの」
夫の腕に自らの腕を絡めて、彼女は微笑む。代わりのいない相手へ、変わらない愛情を込めて。
その愛がいずれ自らを殺すなら、喜んで受け入れよう。
そして神の街には今宵も、無二の白月が昇る。
【異聞譚:比翼連理 ― 了 ―】
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