第139話 愛情



「来い」と命じるサァリは、微笑んではいたが目は笑っていなかった。

 むしろそこには全てを凍てつかせる怒りが窺える。

 道に膝をついたままのタセルは、美しい人外を前に無意識のうちに息を殺す。もう既に彼女の視線に射すくめられているにもかかわらず、「見つかりたくない」と思ってしまったのだ。

 彼女に存在を気づかれたくない。小さくなって消えてしまいたい。

 それくらいの存在の差が、自分と彼女にはある。

 そしてそれは―――― 彼の中にいる羽根にとってもまたそうなのだ。

 タセルは彼女の誘いに、羽根が怯えて震えるのを感じ取っていた。


 答えない羽根に、サァリは愛らしく小首を傾げる。

「どうした? 来ればいい。私が人の愛を教えてやる」

「サァリーディ、それは駄目だ」

 苦い声で割って入ったのは彼女の夫であるシシュだ。サァリはそれを聞いて、紅い唇を尖らせた。

「大丈夫。私だもん」

「正体が知れない。危険すぎる。巫にそんな危ない橋を渡らせることはできない」

 軍刀の柄を握るシシュの指に、僅かに力が籠る。

 彼は、羽根の出方次第では、タセルを斬り捨てることも選択肢のうちなのだろう。

 それは、シシュが部下を容易く処断出来るほど薄情だという意味ではない。ただ彼にとって―――― サァリの方が絶対的に重いのだ。

 どんなに大切なものであっても彼女と天秤にかけるなら、シシュは痛みを覚えつつも妻のことを選ぶだろう。それが王都を離れた彼の生き方なのだと、タセルは唐突に理解する。


 けれどサァリは、夫の忠言に頷きはしなかった。碧眼を光らせたまま言い募る。

「大丈夫だってば! それにどうせもう後がないんだし、これくらいいいでしょ!」

 子供の駄々のような言葉だが、その内容は酷薄だ。

 彼女は羽根に負ける気もなければここから逃がす気もない。だからこれは、きっとただの戯れだ。

 シシュは苦虫をおかわりし続けているような顔で返す。

「それで何かの間違いがあったらどうする。巫が何かを譲ってやる必要などない」

「でも、このままじゃ業腹だし」

 サァリは薄い衣裳の裾を払う。どこまでも傲岸な、理解しがたい眼差しが、タセルの中の羽根を見下ろした。

 しん、と体の奥が冷える。

 それはまるで氷原に一人取り残されたかのような感覚だ。

 無数の死体が雪の中に消えていく中、自分だけが呆然と座りこんでいる。

 そうして、置き去りにされるのだ。何一つ分からないまま。


 果てなき絶望。

 たちまち感情全てを染め上げて没させるそれは、タセル自身のものではない。

 そうと気づいた瞬間、彼は重い息をついた。

 ここから先、どんな結末が自分を待つのだとしても、もはやそれを選ぶ権利は自分にはない。


 だからただ、タセルはサァリを見上げる。

 彼女は美しい笑みの中に、消えない怒りを湛えながら言った。

「私がそう決めたの。だから誰にも止められないし拒否権もない。―――― この私が、羽根如きに遅れを取るとでも?」

 しん、と空気が冷える。

 サァリの最後の一言は、反論を許さぬ力に満ちていた。

 気まぐれな子供に似た、だがもっと恐ろしい何か。

 彼女のそんな真実をよく知っているのだろう上官は、苦い顔は崩さぬままタセルから一歩距離を取った。

 それを了承と看做して、サァリは氷の腕を差し伸べる。

 そして命じた。


「来い」


 次の瞬間、タセルの中に沸き上がったものは、脳を侵す浮遊感だ。

 足が地から離れる感覚、だがそれもまた彼自身のものではない。

 彼の目の前に、ふわりと白い羽根が現れる。

 夜の中、月光を受けて青白く光っているそれは、まるで自らの意思で宙に留まっているように見えた。

 タセルは本物と変わらぬその羽根へと恐る恐る指を伸ばす。

「これが……」

 だがその指が触れる直前、彼の視界は真っ白に染まった。

 溢れるほどの羽根が、次々彼の中から飛び出していく。ひとたび現れたそれらは、強風に巻き上げられるようにうねりを生んで、サァリの手の中へと吸いこまれていった。

 美しい手に羽根を受け止める女は、自らの中に入ってくるそれらに、青い目をうっとりと細める。

 シシュが息を詰めて妻の様子を注視した。



 またたく間に全ての羽根が彼女の掌の中に消えると、サァリは自らの白い指を月にかざす。

「なるほど。こういう感じか」

「サァリーディ」

「……ん」

 彼女は赤い唇を緩める。


 それだけの仕草が―――― ぞっとするほどに艶めかしい。

 紅を含んだ筆を、染み一つない肌に落とす瞬間のような背徳感。

 紗幕の向こうに秘されたものを覗き見ているような、軽い酩酊感は欲情によく似て……だがタセルにはただ恐怖しかもたらさなかった。

 女の美しい貌も、細い躰も、艶冶であればあるほどただただ恐ろしい。

 理解出来ないのだ。彼女の視線が、指先一つがひどく煽情的で……だからそれが人の触れられない「何か」であるように思えて仕方なかった。


 硬直するタセルに反して、だがシシュは掠れた声で注意する。

「サァリーディ、それはあまり……」

「何が?」

 彼女はくすりと笑う。

 自らの存在そのものが人の心を侵す花であると、自覚して知らぬ振りをしている女は、無造作に夫を手招いた。

「それよりこっち。来て」

「……今はちょっと」

「そう? なら後で可愛がってくれる?」

 サァリは軽く右手を振る。そこから零れ落ちる羽根の一枚を、指で摘まんだ。

 彼女はそれに軽く口付ける。そして自らの内にいるものに囁いた。

「―― ほら、こんな気持ちだ」


 羽根が、震える。

 それは、全てを焼き尽くすような熱情だ。

 愛している。触れて欲しい。触れたいと願う。

 生きて欲しい。安らかに。愛している。どうか自分のものになって。自分のものにはならならいで。

 抱きしめてしまいたい。壊して、守りたい。ただ触れたい。

 その体に身を埋めて、臓腑に触れて。温かさを感じたい。

 侵して欲しい。ばらばらに、全てを注いで。全てを閉じ込めて、否、自由に。

 言葉が欲しい。要らない。欲しい。

 違う。

 何もかも正しい。何もかも間違っている。

 だから、食べられても構わないのだ。この身一つ残さず。この心を全て。

 全て、貴方に。

 それが


 ―――― 焼け串で頭の中をかき回されるような衝撃。

 その熱がタセルにまで伝わってきたのは、直前まで羽根が沁み込んでいた名残だろう。

 気が狂うような熱と強さ。彼女自身の纏う冷気と相反するようなそれに、彼は地面に蹲って呻いた。

 サァリの恍惚とした声が聞こえる。

「食べられてもいいの。殺されてもいいの。殺したいくらい。殺したくないのに」

「……サァリーディ、その言い方は語弊がある」

「だって本当だもの」

 彼女の言葉が真実であると、タセルには分かる。

 本当に彼女は、壊したいくらい夫を愛しているのだ。ひたすらに抱きしめて、死なせてしまっても愉悦を感じているだろう。

 それと同時に、彼を壊したくないとも願っている。自らの手を放してでも、全霊で守ろうとも願っている。

 無私の愛であり、利己の欲。同一で相反するものを、あの華奢な体に収めて笑っているのだ。

 そしてそれを、只一人の男に向けている。

 ―――― これが愛だというなら、ただひたすらに恐ろしい。


 サァリは赤い唇を指でなぞる。

「お前によって喰らわれた人間は、恐れていたか? 恍惚としていたか? どちらにしてもお前には理解できぬだろう。それは、人の感情だ。人ならざる私たちに得られるものではない。愛を知りたいならお前は、お前自身の愛を以て人と交わるべきだったのだ」

 羽根はただ震える。

 存在の違いに、想いの狂気に散り散りになる。

 耐えきれずサァリから逃げ出そうとした一枚を、サァリはまた指で摘まんだ。

「自らの求めるものとは違うと思ったか? ならばお前の思うそれが、人の愛だ。お前は自分が知っているはずのものを、愚かさがゆえにずっと余所に探していたのだ」


 サァリの銀の髪から、薄衣を着た背から、白い羽根が次々溢れ出す。

 月光の下舞い上がる羽根は彼女自身と相まって、気が遠くなるほど美しかった。

 だがその羽根は、空に舞った端から散り散りに凍りついて砕け散っていく。サァリがそれを許していないのだろう。彼女は優美に微笑む。


「お互いを強く想う一対ばかりを選んだのだろう? 代わりのきかない彼らの愛情を、お前はその目で見てきたはずだ。見てきて、だが理解できなかった。お前自身の想う相手の代わりはもういないからだ。―――― 愚か者め」


 白羽をその身に呼び込んだサァリは、タセルの見た雪原と同じものを見ているのかもしれない。

 彼女は柔らかな声で、酷薄に続ける。

「お前が生かされたことこそが、人の愛だ。なのにお前は自分でそれを踏み躙った。こんな遠い場所で死ぬのは、お前自身が招いた末路だ」

 羽根は、次々に散っていく。凍りついた破片が月光に輝いて、粉吹雪のようだ。

 泣き声とも悲鳴ともつかない羽根の断末魔が夜空を震わせる。

 引き裂かれる鳥に似たその声を聞きながら、サァリは最後の羽根一枚を、指で弾いた。

「だからもう死ね。死んでお前の愛した男を探しに行け」

 地面に散った氷片は、すぐに溶け去って消える。

 その後には、羽根の一枚も残ってはいなかった。

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