第138話 雪歌
『だからせめて、お前は生きてくれ』
※
通りに立つサァリーディは、タセルの知る少女とはまったく異なる存在に思えた。
姿形は変わらない。だがそれ以外は何一つ同じではない。
蛍火のように光る双眸。そこから漂う威は、尋常な人間のものではない。
否……彼女もやはり、人ではないのだ。
時折感じた圧力が、違和感が、タセルにその事実を受け入れさせる。
第一、そうでなければああも簡単に虫をジィーアから退けることは出来ないだろう。
タセルは地面の上に倒れた女を見る。細い体が呼吸の度にゆっくりと動いているのが分かって、彼は心から安堵した。
そうしてほっと息をつく彼は、サァリに視線を戻し、息を止める。
青い瞳に在るものは、塵芥を見るも同然の冷淡だ。
衣の裾に跳ねた泥を厭う目、それよりももっと怒りを秘めた目に、タセルは遅ればせながら予感する。
―――― 自分はおそらく、ここで死ぬのだ。
それで終わるのだと分かる。サァリは、人のように見えたこの少女は、アイリーデを荒らした羽根のことを決して許しはしないだろう。元々タセルのことも、夫の部下であったからこそ守ってやろうしていただけだ。
だから、殺されるのは仕方がない。
タセル自身、死に場所を探していたくらいだ。今更命乞いをするつもりもない。
ただ心残りなのは、ジィーアのことだ。彼は乾ききった喉を鳴らす。
「彼女に……詫びておいてくれ」
タセルのことを必死で助けようとしてくれた彼女。だが彼は既に、羽根に蝕まれた身だったのだ。
彼自身その自覚がなかっただけで……危うく関係のない彼女まで犠牲にしてしまうところだった。
それが未然に防がれたのはサァリのおかげだが、ジィーアが起きて彼の末路を知ったなら落胆してしまうかもしれない。タセルは最後に間近で見た彼女の瞳を思い出す。
寄る辺ない子供のような。
それでいて想いを惜しむことのない眼差し。
いじらしいその目に、もっと早く出会っていたらどうなったか、と思う。
だがすぐに、タセルは埒もない想像を打ち消した。
「何を伝えて何を伝えないかは、君に任せる。彼女に不要だと思ったら俺の詫びも伝えなくていい」
理由も分からぬまま二度も傷つけてしまったのだ。
これ以上、同じ思いはさせたくない。後の始末は、ジィーアのことを知る館主に任せた方がいいだろう。
タセルは抜いたままの軍刀を手に、地面へと両膝をついて座す。氷の視線を向けてくる女を見上げた。
「羽根は確かに俺の中にいる。この事態を引き起こしたのは、俺自身の失態だ」
ここまでの不始末を、どう詫びたらいいか分からない。
分からないが、きっとサァリになら委ねられるだろう。古き街に棲むという彼女は、きっとそれだけの力を持っている。
だからタセルは、短い間に心を決めると呼吸を鎮めた。
そして軍刀を両手で持つと―――― その刃を自分の首に当てる。サァリが軽く目を瞠った。
「後の始末をよろしく頼む」
脳裏に浮かんだのは、何人かの姿だ。
王都にいる友人や親族たち。
敬愛する上官や、確かにもういない姉。そして……まだ何も知らない彼女。
全てに突然に、そして途中のまま別れていく。
だが死とはきっと、そういうものだ。
だからタセルは迷いを振り切って、首に当てた刃を――――
「馬鹿者」
聞えたのは、呆れたような女の声だ。
そして彼の手を止めたのは、上から伸びてきた男の腕だった。
軍刀の刃を掴んで留めた手。素手でそれを為している相手に、目を開けたタセルは唖然とする。
「で、殿下……」
「殿下はやめてくれ。あとはこういう真似もだ」
いつの間にか彼のすぐ脇に立っている青年は、掴んだままの軍刀を見やる。
次の瞬間刃は、高い音を立てて砕け散った。あまりと言えばあまりな光景にタセルは絶句する。
普通ならば、刃を素手で掴んだ時点で指が落ちるものだ。
だがシシュの指には傷一つついていない。むしろ辺りに立ち込める冷気と同様、薄い靄を纏っているように見えた。
シシュは手についた破片を払うと、その靄を抑えるように手袋を嵌めた。
端整な顔を苦々しく顰めた青年に、妻である女は問う。
「他のところは?」
「全部片づけてきた。八人見つかったが、漏れはないと思う。それらは全て虫だった」
「じゃあ羽根は結局彼だけだったんだ?」
「おそらくは」
タセルは交わされる会話から今の状況を理解する。
サァリがここにいるということは、巫舞は終わったのだろう。
そして巫舞の効果を得て、街に潜んでいた虫たちは炙り出された。
残されたのは姉の姿を取っていた虫と―――― タセルを蝕む羽根だけだ。
だが、そうして自分ごと終わらせようとしたタセルに対し、サァリは呆れ顔で、シシュは苦りきった表情だ。
タセルは上官の青年を見上げる。
「殿下、小官は羽根に……」
「分かってる。その可能性も考えていた」
「え?」
いつからそんなことを疑われていたのか。タセルの疑問にサァリが答える。
「最初は聞こえなかった虫の声を、あなたは途中から聞いてたから。怪しんではいたよ。死人が見えるジィーアと違って、私には探知出来ない相手みたいだったし」
サァリは足下で倒れている女を一瞥する。そうしていると、先程の恐ろしいまでの威圧感が和らいで、元の彼女であるように見えた。
だがすぐに彼女は、正体の知れぬ笑顔でタセルを見やる。
「とりあえず、シシュの前で馬鹿なことはやめてね。あなたは私の言葉を覚えてるでしょう?」
「……ああ」
死ぬなら彼の目の届かぬところで死ね、と言われたのだ。
それを破ったならサァリに死ぬより酷い目に遭わされる気がする。
軍刀の柄を離し頭を垂れるタセルに、サァリはふわりと微笑んで……だがすぐに、蒼眼から笑みを消した。
「それで、私はあなたの中にいるものに話があるのだけれど。―――― いつまで黙っているつもりだ? 白羽よ」
サァリの声音が変わる。
それと同時に、タセルの隣に立つシシュが軍刀に手をかけた。
―――― もし少しでも怪しい動きをすれば、即座に首が落とされるだろう。
そのことを理解しつつタセルが留まっていると、胃の底から何かが競り上がってくる。
眩暈を覚えたのは一瞬、自分のものではない声が、喉の奥から滑り出た。
『わたくしの望みは、ささやかなものでございます』
どこか遠くから響いてくるような女の声。それは童女のものによく似ていた。
否、童女に似ていると彼が感じただけで、本当は違うのかもしれない。
言葉もはたして同じであるのか。ただタセルは混乱に襲われそうになりながら、その意味だけを理解した。
サァリは唇の片端を上げて見せる。
「ささやかなもの? そのささやかなもののために、何人食わせた? 大方あの黒い虫もお前が生み出したものだろう?」
「―― そうなのか?」
妻の言葉に驚きの声を上げたのはシシュだ。サァリは尊大に首肯する。
「『我々』などというから、別の存在だろうとは思ったがな。さっきの写し身を見て確信した。あの黒い虫の正体は死んだ人間だ」
「死んだ人間!?」
思わず叫んだタセルは、自分がまだ声を出せるということに安堵した。サァリは彼の反応に目を丸くする。
「お前は元気があり余ってるようだな。……まあいい。あれは確かに死んだ人間だよ。死者の魂を変質させて使役している。だから蛇の気と相性がいいんだ。ここに至るまで、相当殺してきたんだろう」
とんでもないことをさらりと言うサァリに、シシュとタセルは絶句する。
だがそれが真実だと、タセルは自分の中にいる「何か」から直感した。
彼らは皆……元は人間だったのだ。それが死した後、白羽に捕らえられ変質した。そうして虫であるうちに、自分が元々なんであったか忘れていったのだろう。
そう悟るタセルの口から、独りでに別の声が漏れる。
『死人が皆、わたくしの手に残ったわけではありませぬ。わたくしの知りたいことを知る人間は、わたくしの手から逃げてしまいましたので』
「数多殺して繰り返しても分からぬままなら、さっさと諦めればいいだろう」
冷ややかに言い捨てるサァリに、白羽はだが退かなかった。
『わたくしは、それでも知りたいのです。―― 人の愛が、どういうものであるのかを』
その言葉を聞いた瞬間、タセルの視界が真っ白に染まる。
目を焼かれたのかと思ったが、そうではない。
見えているのは、一面の雪景色だ。見たこともない山中の景色。
曇天の下、凍てつく雪が吹雪いている。それは無数に斃れた人間の上に降り積もり、見る間にその体を覆い隠していく。
戦の後なのだろう。鎧をつけた男たちのほとんどは既に息を引き取っており―――― ただその中で一人だけ、まだかろうじて生きていた。
痩せ細り、傷だらけでもう長くないのだろう男は、彼を見ているタセルに向かって手を伸ばす。
『俺を、食べてくれ』
男の血で汚れた顔を、タセルは―― 否、「彼女」はじっと見下ろしている。
『食べていい。生きてくれ。お前だけでも』
彼の言葉は理解できない。
何もわからないのだ。彼女はただ、自分の白い羽に飛び散った赤い人の血を見る。
そしてまた、男に視線を戻す。
『愛している。私の雪歌』
男は微かに笑って、目を閉じる。
彼女はその傍らに寄り添う。
血の流れ過ぎた体を温めるように、男の体にもたれかかる。
そうして全てが雪と同じ温度になるまで―――― 彼女はずっと男の傍から動かずにいた。
「……っ!」
突如見えた幻影に、タセルは顔の前を手で払う。
たちまち雪景色は消え、元の通りが戻ってくる。月光の照らすアイリーデの風景。
彼は自分の中にいる「彼女」に向かって問うた。
「今のは、お前の記憶か?」
『わたくしは、知りたいのです。人の愛とは何かを』
「それは……」
タセルは言葉を失くす。白羽の正体は何であるのか。
ただもしあれが彼女の記憶なら、人外の「何か」である彼女が、死んだ男の心を知りたいと思ったことが始まりなら、それこそが彼女が求める答えではないのか。自らを失っても、相手に喰らわれても生きて欲しいと願う想いこそが、愛情ではないのか。
―――― これが理解出来ないというのなら、白羽はずっと知りたいことを知れぬままだ。
そうしていつまでも人を殺し続ける。人の中に宿り、愛する者に喰われるという疑似体験を繰り返しながら。
そんな悪夢に……タセルはただ愕然とした。
どうすればこの無理解を終わらせられるのか分からない、そう絶望しかけた彼に、だが女の笑う声が聞こえる。
「人が己のことを知らないなど当たり前のことだ。どうやって思考が、感情が生まれるか、心の臓が動いているか、自分で説明できる人間などほとんどいまい。お前がどれだけ人を殺そうとも、お前の欲しい答えは永遠に分からないままだろう」
サァリの言葉に、タセルの内で彼女が震える。神の纏う冷気に、雪山でのことがまた思い出された。
胸が痛む。それが自分のものか彼女のものかは分からない。
『……たとえ永遠に辿りつけなくても、わたくしは――』
諦めることは出来ない。理解したいのだ。知りたいと願う。
そう続けようとする彼女の言葉を遮って、神は宣言する。
「だったら、私のところに来ればいい」
唐突に、タセルに向かって差し伸べられた白い手。
その意味を理解したのは、彼女の夫が顔色を変えたからだ。
「サァリーディ!? 何を言って――」
「傍から見た方が分かることもあるという話だ。人の愛情とはどういうものか、人ではない私の方が知っていることもある」
そう言うサァリの声音に、自嘲が混ざったように聞こえたのはタセルの気のせいか。
彼女は己が手を差し出したまま謳う。
「だから来い、白羽よ。お前が欲しかった答えを、人と契った私が教えてやろう」
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