第137話 心変
幼い頃から見えていたものは、今はもういない人の姿だ。
既に死した、そして未練を持って彷徨い続ける死者の姿。
そんなものをジィーアはずっと皆に見える当たり前のものだと思っていた。何故なら彼女と暮らす美しい母にも、それらは常に見えていたので。
だが覚えている母の姿は、いつも横顔ばかりだ。ジィーアを育ててくれたのは月白の他の女たちで、死口である母は我が子よりも死者を愛していた。死者と話すことを望み、その言葉に触れて安らいでいたのだ。生まれながら欠けた「何か」を埋めていくように、母は死者ばかりを客に選んだ。
そしてそれが満ちきった時―――― 母は自らも死者になったのだろう。
死んだ母の姿は、ジィーアには見えなかった。きっと未練など何一つなかったのだ。
未練のある死者は、愛したものに付きまとう。
そうして歪な言葉を囁く。
彼女にしか聞こえないそんな囁きは、何故か皆似通っている。
死してなお自らを訴える彼らの愛情を……だからジィーアはいつも、忌々しく思っていた。
※
ジィーアの目は、間違いなく姉らしい女を睨んでいる。
その視線の強さに、タセルは幾許か正気を取り戻した。震えの残る指で額を押さえる。
「化生……? だがあれはどう見ても人間じゃないか」
「アイリーデはそういう街だと、サァリに聞かなかった?」
「聞いた、が」
最近は、そんな化生はほとんどいないとも聞いていたのだ。
だが通りに立つ着物姿の女は、紛れもなく実体を保っている。
変わらず悪夢の中にいるような気分で、タセルはかぶりを振った。
ジィーアはそんな彼に苛立たしげな目を向ける。
「写し身は、実在する人間の姿形を元に実体化した化生よ。だからあれをあなたが『姉』と言うなら、あなたの想念によって実体化したんでしょう。この街の人間なら、皆が知っていることだわ」
「俺の想念だけで、姉さんが……?」
「余所の街で死んだ人間を知っているのは、もうあなたしかいないわ」
―――― 姉のことを知るのは、もう自分しかいない。
それを事実として指摘されたことに、タセルは頬を打たれたような衝撃を覚えた。
分かってはいたのだ。だが何処かで「もしかしたら」と思っていたのかもしれない。それか今、姉の姿を目の当たりにしたことで期待してしまったか。
だが死口は、姉は彼自身の後ろにいるという。
黒い着物姿の女は、石膏のような手を差し伸べる。
「タセル、愛しているわ」
「姉さん……」
姉と変わらぬ姿形、その声。
囁かれる言葉にまた、恍惚が広がろうとする。「食べて欲しい」と欲求が灯る。
―――― 何かがおかしいのだ。だが、それが何かは分からない。
タセルは違和感を振り払おうとかぶりを振って……けれど次の瞬間、己の目を疑った。
足下に舞い散っていく白い羽。
まるで彼自身から抜け落ちたかのようなそれは、だが地面に触れる前にふっと消え去る。
「これは……」
『人を愛してはいけない。羽を呼んでしまうから』
ジィーアの口で語られた、姉からの言葉。それが意味することはつまり。
「俺は……羽に蝕まれていたのか……?」
いつからそうだったのか。だが愛情が羽を呼ぶというなら、子供の頃からずっとそうだ。
ずっと彼女を愛している。だからこそタセルはこの街まで来たのだ。
けれどそれは―――― こんな終わりを導くだけの想いだったのか。
姉の姿形をした「何か」は、美しく微笑む。その笑顔に、感情が全て引きずられる。
「もういいのよ。おいで、タセル」
差し出された手の白さ。
生きた人間のものではないそれを「おかしい」と思いつつ、だが欲動に抗えない。
女に向かってふらりと一歩を踏み出したタセルを、けれど細い指が留めた。
「……だめよ」
いつの間にすぐ後ろにまで来たのか、ジィーアはタセルの袖を摘まんでいる。死口の忠告に、タセルは微かに残った思考で問うた。
「姉さんが、何か言ったのか」
―――― 助言を生かせなかった彼のために、姉が彼女へ助けを求めたのだろうか。
だがそれを聞いたジィーアは、一瞬ひどく傷ついた顔になった。
美しい少女のそんな顔に、タセルはすぐに後悔する。また自分の無知で彼女を傷つけたのだと悟った。
ジィーアは緑の目に逡巡を見せる。
だがあの女が化生だと証明するには、本当の姉の言葉を答えなければと思ったのだろう。彼女は悔しそうに顔を歪めて、小さな唇を開いた。
「『羽根を呼んでしまうから、わたし以外を愛さないで』」
「―――― え?」
「『早く、こちらに来て』」
死口の語る、死者の言葉。
それは以前聞いたものと似て―――― だが、間違っている。
タセルが聞いたのは、『人を愛してはいけない。羽根を呼んでしまうから』と『どうかあなたは、無事でいて』だ。彼の無事を思って、忠告する言葉。
だが今の言葉はまるでその逆だ。唖然とするタセルの脳裏に、巫の言葉が蘇る。
『死者の言葉に耳を貸さないように、彼らは容易く嘘をつく』
もしサァリの言うことが本当だったのなら、何が真実なのか。
何も分からない。姉のことも少女のことも。一体今何が起きているのか、自分自身のことも全て。
「なんだ、これは……」
もう、この恍惚に身を任せてしまおうか。
そうしてしまえばいい。姉も言っていたではないか、「早くこちらへ来て」と。
本当は、ずっとタセル自身そうしたがっていた。
愛する姉を喪って、自分自身の死に場所を探していたのだ。
だから、もう、
彼はふらりと一歩を踏み出す。
だがそこでもう一度、ジィーアに強く袖を引かれた。彼は緩慢な動作で振り返る。
表情に乏しい、人形のような美しい貌。
だが緑の目に揺らいで見えるのは……ただの恐怖だ。
タセルはその時初めて、袖を掴む指が震えていることに気づく。いつもと変わらぬ裸足はよく見ると血が滲んで、けれど彼女はそれでも退こうとしていなかった。
「だめよ」
か細い体で、震えながらも立っている彼女。
恐怖に襲われながらも、彼の無知に何度も傷つきながらも、彼を引き留めようとする女。
その姿はきっと初めて見る彼女の真実だ。
「どうして君は」
思うより先に言葉が滑りでる。
少女の、水を詰めた硝子玉を思わせるような双眸。
子供のような眼差しが彼を見つめた。
「死んだ人ばかりを、見ないで」
「わたしを見て」
―――― 恍惚が、消える。
まるで悪夢が引いていくかのようだ。
そうして瞬く間に消え去っていくそれの代わりに、タセルは「彼女を守らなければ」と思った。
守らなければならない。自分よりも弱い彼女が、今ここに踏み留まっている。留まって、「死者に惹かれないで」と望んでいるのだ。これより先、何かを始めるために。
ならば自分は、それに応えなければならない。
短い呼吸。
一瞬で体勢を、そして戦意を整える。
タセルは彼女を背に庇い、軍刀の柄を鳴らした。
そうして「敵」として女を睨む。
彼のその姿勢に、正体の知れぬ女の顔から初めて微笑が消えた。
生者ではない、そして死者のものでもない虚ろな瞳。
女は、タセルとその後ろのジィーアを見たまま口を開いた。
『そうか、心変わりか』
罅割れた声。
それは女のものではなく、人のものでもない。
薄い何かが震えるような…………つまり、虫の羽音だ。
「っ、」
そうと直感した瞬間、タセルは地面を蹴る。
時間は与えない。守る隙も許さない。
彼は最短で距離を詰めると、抜き放った軍刀を女の細い首へと振るった。
確かな手応え。一閃で切断された首は、地面に落ちる前に黒い塵となる。
その半分は地に沈んで消え―――― だがもう半分は、ぶぅん、と厭な羽音を立てた。
『ならば、次はその娘を』
立ったままの体が崩れ去る。
それは首と同様半分は地面に消えて、残りは黒い大きな球状の靄になった。
微かな羽音が空気を震わせる。初めて見る「虫」自体の姿。その狙いに、タセルはぞっと戦慄した。後ろに跳び退りながらジィーアに叫ぶ。
「逃げろ!」
黒い虫と白い羽。
食うものと喰らわれるものが情で結ばれた一対というなら。
それは自分たちにはまるで当てはまらない言葉だ。まだ何も始まっていない。
だがそれさえも塗りつぶして―――― 羽根は愛を知ろうとするのだ。
タセルの声に、ジィーアは遅れて駆けだす。
それを見ながら彼は、宙に留まる虫球に刃を振り下ろした。
化生斬りでもある彼の振るう刀。だがそこに手応えはない。虫は刃を避けて宙に散ると、獣のような速度でジィーアの背に迫った。たちまち彼女に追いつき、その耳から、目から、口から入り込む。抵抗を許さず華奢な体を侵していく。声なき悲鳴が夜の路地に上がった。
タセルは弓鳴りになる女の躰に叫ぶ。
「やめろ!」
―――― この思いを羽根が知りたいというなら。
それはただの恐怖だ。意味が分からないままに、大事になるかもしれなかった存在が失われるということ。
そんなことが、現実になるという事実がただただ恐ろしい。
恐くてたまらないのだ。何かに縋ってしまいたいと思うほどに。
「やめろ、やめてくれ!」
月光が通りを照らし出す。虫の影は、もはや何処にも見えない。
ただゆらりと立っているのは、黒いドレスの女だ。
人形のように美しく、だがもう恐怖に怯えてはいない彼女。
夜に佇む女は、まるでこの街を体現するようだ。忌まわしく、正体が知れず……深い愛に満ちている。
女は白い両腕を広げる。
軽く傾いだ首。視線の定まらない緑の瞳がタセルを捉えた。
その一瞬でまた恍惚が蘇り――
だが女の首を、後ろから白い手が掴んだ。
「私の言葉を、よく理解しなかったか?」
細い笛のような、険を帯びた声。
それはたちまち通りの温度を冷やしめた。地面の上にうっすらと冷気の帯がたなびく。
高い音を立てて霜が張り始める地面の先、ジィーアの首を掴んで立っている女に、タセルは言葉を失くした。
月光を宿して光る銀の髪に、傾国そのものの美貌。
薄衣裳のままのサァリーディは、彼女の手から逃れようともがく女に目を細める。
「この街は私の街、この女は我が側女。―― 虫如きが気安く触れてよいものではないわ」
吐き捨てたのは一瞬。
ジィーアの体が大きく跳ねる。それと同時に彼女の体からバラバラと黒灰のようなものが落ちていった。
地に溶けなかった虫たちは、たちまち凍らされ白い破片となっていく。
ドレスの色が白へと戻り、ジィーアが力を失って崩れ落ちる。気を失っている彼女を、サァリは感情の知れぬ目で眺めた。
そして神は、視線をタセルへと戻す。
「手間をかけさせてくれたな。……次はお前だ。覚悟はよいか? 白羽よ」
青く光る目に見据えられ、彼は立ち竦む。
体も頭もうまく動かない。現実に立っているのか分からない。
そして自分が相対する存在が何か……少しも理解ができなかった。
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