第136話 恍惚


 藪の中に、白く光るものが見える。

 それは恐ろしいまでに純粋な輝きだ。

 無垢であり無知。ただ綿毛のように彷徨い続けるそれは、うっすらと霧のようなものを引きずっていた。

 彼女にしか見えぬ、白い光がたなびかせる何か。

 やがて溶け消えるだろうそれは―――― もうこの世のものではない、死した人たちの列だった。



                  ※



 広場の板舞台の周囲には既に、楽の音を聞いた人だかりが出来ていた。

 常連客も多いのだろう。ミディリドスの前座に聞き入っていた彼らは、衣裳をつけたサァリが現れるとどよめいた。

「これはまぁ……随分美しい娘だねえ。あれもミディリドスの人間かい?」

「いやあれは巫だよ。月白の主だ」

「アイリーデの姫さんだ。巫舞を見られるなんてついてるねえ」

 波に似たざわめきと共に、自然に人垣が割れる。

 その中を歩むサァリは嫣然と微笑んで舞台の上に上がった。白い袖を払って優美な仕草で中央に座す。

 そうして彼女が目を閉じると、場はしんと静寂に包まれた。


 咲き誇る花のような顔。

 朱色で鮮やかな模様が描かれた巫の姿は、月の光のように静謐だ。

 その神秘に打たれて人々は息を飲む。

 張りつめた空気が、一本の糸になる。


 時は日の落ちかけた誰彼時だ。

 まもなく夜が始まる。サァリは空に浮かぶ月を見上げた。

 うっすらと微笑んで、彼女は口を開く。


「―――― 白月より、羽根へと申し上げまする」


 艶のある声。

 まるで囁くようなそれは、だが静寂の中を全員の耳へと響いた。

 街の主から人へ、そして「羽根」へと告げる言葉。

 サァリの碧眼に冷えた光が宿る。


「この街は、神に捧げられた街。人も心も全て、神の領域に在るものでございます」


 古き時代から続く不文律。

 神と人が永く紡いできた約定。

 その先端にあるのが、サァリと今のアイリーデだ。


「ですからこそ、何人たりともこの街に属するものを損なうことは出来ない。……そのことをよくお含みおきくださいませ」


 たとえよそから来た遊客であっても、それは変わらない。

 ましてや分を弁えない人外が、好きに振舞うことなど許されない。

 誰よりもサァリが、その不遜を許さないのだ。


 皆が居住まいを正して見守る中、弦の音が鳴り始める。

 サァリは白い袖を上げた。形の良い指先に、月の光が落ちる。


 ―――― そして巫舞が始まった。


              ※


 溶け合って空へと響く笛と弦の音。

 だが時を追うごとに人が増えていくのは、誰よりもサァリ見たさにだ。

 彼女が舞う度に上がる鈴の音。月光を散らすようなその振りに人々は息を止めて見入る。

 分厚くなっていく人垣にタセルは思わず感心して―――― だがすぐにかぶりを振った。

「まずい。見てないで行かないと……」

 サァリの巫舞は、白羽を炙り出すためのものなのだ。

 今の機会に街中を回らなければならない。何より「ここにいてはならない」という感覚がタセルにはあった。

 ―――― 一刻も早く、離れなければならない。そうしなければ不味いことになる。

 彼は軍刀を意識しながら、舞台に背を向ける。

 その背にひやりとした寒気を感じたのを、彼は意識できないままだ。ただぼんやりとサァリとの会話を思い出す。


 死口から生まれた死口。

 死者を見るジィーアは、どうして自分を客に選んだのだろう。

 姉が死を警告していたからか。それとも

 ―――― 自分と、何かを始める為に選んでくれようとしたのか。


「でも、俺は……」


 いつまでも燻っているのは姉のことだ。

 死した姉と、これ以上始められることは何もない。既に何もかもが終わっている。そのはずだ。

 なのに何故、臓腑を冷めない熱が焼き続けているのか。


 考えてもまとまらない。

 ただ言葉以前の破片だけが生まれては散り散りになるだけだ。


 タセルは軍刀の柄に手をかけながら、見えてきた角を左に曲がる。

 そうして決められた通りの道を回ろうとしていた彼は、だがその先に立っている女を見て足を止めた。



 黒い、喪服のような着物。

 背を向けている女は帯だけが血のように赤い。それは闇の中に映えて、タセルに祭りの夜の灯りを思い出させた。

 人気のない夜の通りで、女は少し俯き気味に立っている。

 綺麗に結い上げた髪の下、見えているうなじは恐ろしいほど白い。

 それはまるで血の気を感じさせないもので……だが、そんな蒼白も当然のことだ。

 何故なら彼女はもう―――― 死んでいるはずなのだから。


「……姉さん?」


 震えて呼ぶ声。

 それに、相手が答えなければいいと思った。ただの見間違いだと。

 だが女はゆっくりと振り返る。長い睫毛の下の双眸が、緩やかに彼を見とめた。

 そして首を傾げて微笑む。


「なぁに、タセル」


 その笑顔は、間違いなく亡くなった姉のものだった。





 ―――― この街に来てから、非現実めいた出来事しか起きていない気がする。

 中でもこれは最悪だ。死んだはずの姉が、目の前に立っている。それも、見たことのない着物姿で。

 これは一体何の冗談なのか。タセルはこみ上げてきた吐き気に口を押えた。

「何だこれは……どういうことだ……」

 悪夢を見ているのだとしたら、いつから夢の中にいたのか。

 嘔気と戦う彼に、女は柔らかな声を投げる。

「どうしたの、タセル。具合でも悪い?」

「そんなの―――― 」

 死んだはずのあなたが現れたからだ、と言いかけて、けれどタセルは気づいた。


 ―――― 姉は、本当に死んだのか。


 少なくともタセルは遺体を見ていない。死んでいたのは姉の婚約者だ。

 そして虫の存在を知ってから、姉は「食べられたのだ」と思うようになった。

 だがそれは本当に事実だったのか。もし姉が生きていたのだとしたら。


「……裂けばよかった」


 口をついて出た言葉に、タセルは目を瞠る。

 だがそれは、ずっと心の奥底に潜んでいた思いだ。姉の死の真相を知ってから、否それ以前からずっと。


「あの時、あの男の腹を裂いてみればよかったんだ」


 そうすれば、姉の骨の欠片一つ、髪一本でも、枯れた臓腑の中から掬い上げられたかもしれない。

 そうでなくとも、姉が本当に死んだかどうか確かめられただろう。

 少なくとも、あの男をただ葬ってしまうことなどしなければよかったのだ。

 何故なら自分は本当は――――


「どうしたの、タセル」

「……姉さん」


 優しい声だ。

 子供の頃、彼の手を引いてくれたあの頃と同じ。

 柔らかく、蕩けるような声。

 女は、白い手を彼に差し伸べる。


「こっちへいらっしゃい。わたしを探してくれていたのでしょう?」

「……姉さん、死んだんじゃなかったのか?」

「いらっしゃい、タセル」


 まるで話が噛み合っていない。

 頭の中で警鐘が鳴る。だがそれを押しつぶすように、「何か」が心の奥底からせり上がってきた。

 吐き気が眩暈に溶け消える。

 女の声だけが聞こえる。


「おいで。―――― わたしを愛しているでしょう?」


 その言葉に、魂が震える。

 目を背け続けていたものが浮かび上がる。


 ―――― 愛している。


 それは、気が付いた時にはタセルの中にあった感情だ。

 たった一人の肉親。繋いだ手。同じ血。

 何よりも、ずっと共に生きていた一人の女。


 だから、愛している。

 誰よりも近くて、だが距離が縮まるはずのない相手を、ずっと愛していたのだ。

 焦燥のような、妄執のような、消えることのない情愛を。肉親としての感謝と憧憬に変えて。

 それでも相手の男のことを引き裂いてしまいたいと思っていたのは、きっと真実だ。


「俺は……」

「愛しているわ、タセル」


 女は甘い言葉で微笑む。

 その一言に、体の中から支配される。せり上がってきたもの……強い恍惚が、彼の脳を浸す。

 喉が渇いて苦しい。何も考えられなくなってくる。

 ただ多幸感が湧きだして、立っているのさえ苦しくなった。

 今すぐ彼女の元に駆け寄りたい。細いその体をかき抱いて、伝えたいのだ。


 ―――― 「食べて欲しい」と。


「…………あ、れ?」


 何かがおかしい。

 頭の隅でそう感じる。だがそれもままならない。

 ただ求めているのだ。彼女に食べられたい。知りたいのだ。愛情を。愛するという気持ちを。知りたい。答えを欲しい。欲しくてたまらないのだ。愛情の。愛するという。人の、人の心の、ほら、白羽よ、教えてやる、今、


「……やめて」


 聞こえた声は、子供のもののように思えた。

 少し不機嫌な、厭な物を厭と憚らない声。無限の恍惚に浴びせられた冷水に、タセルはゆっくりと振り返る。

 そんな彼を、月光の下、白いドレスを着た少女は苛立たしげな目で見ていた。

 いつもと変わらぬ裸足のままのジィーアは、白い指を上げて着物の女を指す。


「あれは、あなたの姉じゃない。その人は死んで、あなたの後ろにいる」


 死口はそうして、不快を隠さぬ目で女を睨んだ。

 冷ややかに宣告する。


「あれは写し身。この街とあなたが生んだ、化生の一人よ」

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