第135話 識欲


 紅皿に筆を浸す。

 そうしてたっぷりと紅を含んだ筆先を、サァリは肌の上に乗せた。白い頬の上にゆっくりと走らせる。

「―――― 感情を喰らう、ね」

「タセルの推測ではあるが、近いと思う」

 背後のシシュが頷くのを、サァリは鏡越しに見やる。


 人を次々死に至らしめる「何か」。

 あれらは確かに、人への興味を訴えていた。

 それが、人の何についての興味かと考えてみれば単純な話だ。

 お互いを恋う心。深い愛情。

 そんなものに興味があるからこそ、あれらは次々一対の恋人同士を喰らっていったのだろう。


 そして、それだけ喰らってもなお興味は尽きていない。

 貪欲に、渇えているように次を探している。


 サァリは鏡の中の自分をじっと見つめながら、滑らかな肌の上に赤い花を描いていった。

「別大陸から来たんじゃないか、ってシシュ言ってたでしょう」

「ああ。外来種の仕業じゃないかと思ったんだ」

「それ、あってると思う。でもただの虫じゃなくて、人外の方」


 かつて、外洋国から来てサァリを手中にしようとした男。

 その男は人外を無力化する為の道具を持ってきて、彼女に振るったのだ。

 サァリは、今はもう塞がっている脇腹の傷を一瞥する。


「人の感情に触れたいって気持ち、私も分かる。何だかんだでも私もやっぱり人じゃないから」

「サァリーディ」

「自分は人とは違うって思ってたし、人の心が羨ましかった。だから、触れて知りたいって思うんだよ」


 冷え切った指で、サァリは眦の朱粉を伸ばす。

 巫舞の化粧は普段のものとはまったく違う。儀礼用の装いだ。

 細い四肢から肩、そして首から頬に至るまで、鮮やかな紅の紋様を描いた彼女は、振り返ると微笑んだ。夫に紅筆を差し出す。


「今でも、自分の愛情が人の愛情と同じだとは思えないけど」

「サァリーディは、充分愛情深いと思う」


 筆を受け取ったシシュは妻の顎を指で支えると、その唇に紅を刷く。

 ゆっくりと撫でていく筆の感触に、サァリは震えそうになるのを堪えた。


 この躰を越えて走る熱情を、精神が崩れ落ちる程の執心を。

 全ての人間が抱えているというなら、それこそが恐ろしい。


 離れていく筆。サァリは離れようとする手に素早く手を伸ばす。

 突然手首を掴まれたシシュは目を丸くした。取り落としそうになった筆を、逆の手で鏡台に置く。

「どうした、サァリーディ」

「ううん。ただ私のところに来ればいいのにって」

「何がだ」

「黒い虫だろうが白い羽だろうが。私のところに来ればいいのに。そうすれば教えてあげるから」


 狂う程の情を知ればいいのだ。

 その炎で焼け落ちてしまえばいい。自ら何ものも愛さずに、その想いを知りたいと願った不遜の報いとして。


 サァリは腰を浮かす。驚くシシュの襟元を掴み、顔を寄せさせた。

 瞼を下ろし、息を止める。

 相手の熱を、肌のすぐ上に感じる。


 目の眩む程の渇きを嚥下して、サァリは手を離した。嫣然と微笑む彼女から、シシュは片手で顔を隠す。

「サァリーディ……先に何か言ってくれ」

「愛してる」

「そういうことではなくて……」

「本当なのに」


 人の想いを喰らって人を殺すなら、神の情に触れて死ねばいい。

 サァリーディは白い指を伸ばすと、夫の口元についた紅を拭う。

 そして彼女はまた微笑みなおすと「塗りなおしてくださいな」と愛らしくねだった。



                  ※



 巫舞が舞われるのは、街の中央広場に作られた板敷の平舞台だ。

 既に舞台上では伴奏者であるミディリドスの奏者が二人準備をしている。

 その様子に行きかう人々も何があるのかと足を止め、場には緩やかに人だかりができかけていた。


 近くの店の座敷から、タセルはその様子を眺める。間もなく巫舞が始まると同時に、彼ら化生斬りの力を持つものは、外へと見回りに出ていくのだ。街の中心から螺旋を描いて外周に。その何処かで問題の虫を捉えることが出来るだろうと、彼らは踏んでいた。


 深く息をつく音が聞こえる。

 振り返ると、舞装束のサァリが立ち上がるところだ。あちこちについた小さな鈴が、震えて澄んだ音を立てる。紗布を羽織った彼女は、軽く眉を上げてタセルを見た。

「大丈夫?」

「……それはこちらの台詞だ。君の方が標的になるんじゃないか」

「私は平気だもん。炙り出すための巫舞だけど、あわよくば吹き飛ばすくらいのつもりでいくから」

「吹き飛ばすって……」

「それより、自分の方を心配しなさいね」

 まるで年上のようにそう言って、サァリは廊下に出ようとする。その背にタセルはあわてて声をかけた。

「待ってくれ!」

「何?」

 首だけで振り返ったサァリは、青い瞳をすがめて彼を見る。

 その目に手加減の薄い威を見て取って、タセルは怯みたくなった。だがすぐに意思の力だけで踏みとどまる。

「彼女のことを教えて欲しい」

「何故?」

「俺が傷つけてしまったからだ」


 本当は、「傷ついて見えるから」と言いたかった。

 だがそんな風に言ってしまうのは、何も知らない者の傲慢にも思える。

 彼女が傷ついて見えるのは、きっとアイリーデの外から来た者のせいだ。自分がもたらした波紋が、彼女を苛立たせた。理由立てて説明することは出来ないが、きっとそれが事実だろう。


 サァリはそれを聞いて、軽く瞠目した。

「もっとあなたは鈍感かと思っていたけど」

「……自覚はないけど推察はできるんだ」

「本人に聞けば?」

「彼女は自分のことは言わないだろう」

「うん」

 あっさり頷かれて、タセルは顔を引きつらせる。

 だがそれはそれとして、ジィーアのことは別だ。

 姉のことを知りたかったのは事実だが、それで彼女に嫌な思いをさせたのはまったく本意ではない。虫のことも事件のことも自分のことも、今日でかたをつけるつもりだが、彼女のことだけは心残りだ。


 サァリはあまり機嫌がよくなさそうに顔を顰めたが、すぐに溜息をつくと口を開いた。

「ジィーアは死口の巫から生まれた死口。そして月白で生まれた月白の子。父親は彼女が生まれる前に死んでる」

「母が選んだ客は、皆死んだと言ってたな」

「そう。でも実際は一人だけ例外がいる」

「例外?」

「うん。彼女は最後の客を取った翌朝、首を吊ったの。そしてその客は死ななかった」

「どんな男なんだ?」

 素直な好奇心に駆られて問うと、サァリは皮肉げに微笑んだ。

「ごく普通の人だったって話。多分ね、死口が見てるのは、客本人じゃないんだよ」

「本人じゃない?」


 なら、何を見ているのか。

 問いかけてタセルは、すぐに答に気づく。


「……死者か」

「そう。彼女たちが見てるのは客に憑いてる死者なんじゃないかって。その最後の人はね、お母さんを亡くされたばっかりだったんだって。で、その客曰く、彼女は一晩中見えない誰かと話をしてたっていうの」

「ぞっとしない話なんだが……」

「それでも、彼女は満足したみたいだったって。満足したから死んだんだって私の祖母は言ってた」

「満足って、でも娘がいるのに――」

「常識なんて、他人には通じないよ」


 くすりと微笑むサァリはその時、妖艶であるようにも寂しげであるようにも見えた。

 王都の常識とアイリーデの常識の食い違い、そしてそれ以上に、人と人との違いは明らかな溝として存在しているのだと、彼女は語る。

 だがそれでもタセルは、幼いジィーアを残して「満足したから」という理由で死を選べる母親の気持ちが理解出来なかった。

 故人の話から現在に意識を戻したタセルは、ふと自分と彼女のことを思い出す。


「彼女は、俺の姉と話したいから、俺を客に選んだんだろうか」

「さあ?」

「さあ、って。君が止めたんだろう。早死にするからって」

「うん。それは命の危険があったら止めるよ。でも、私たちが客を選ぶ理由は本人しか分からないから。自分でだって分からなかったりするのに」

「自分のことなのに分からないのか?」

「あなたは違うの?」

「それは……」

 さらりと返されて、タセルは言葉に詰まる。


 自分のことを全て分かっているのか―――― 今まではその命題に是と答えられた気がする。

 だが今は、いつの間にかよく分からないのだ。

 姉のことを思うと、どろどろと黒い熱泥に焼かれる気がする。

 今まではそれを見ぬようにしていた。だが本当はもう分かっている。最初から自分はその中にいるのだと。


 ただ……それだけではない何かもまた、彼の中には存在する。

 一滴の、新たな何か。

 けれどそれはジィーアの印象が掴めないように、自分自身の霧がかった奥底に落ちているままなのだ。


 黙りこんでしまったタセルに、サァリは苦笑した。

「だから、気になるなら本人に聞くしかないよ。私はまったくお勧めしないけど」

「勧めないのに勧めるな……」

「勧めてないってば。わざわざ危ないことに首を突っ込む必要はないと思うし」

「う……」

 サァリの言うことはもっともだ。彼女は最初から「ジィーアに関わるな」と言っている。

 それだけ警告されてもなお、気になって仕方ないのは何故なのか。

 真剣に悩み始めるタセルを、サァリはじっと見つめる。いつもとは違う化粧の彼女は、深遠を宿す青い瞳はそのまま、口元だけで微笑んだ。

「人の考えてることなんて分からないけど、私たちの客の選び方は大きく分けて二種類あるの」

「というと?」

 彼女は袖の中の手を上げると、赤く紅の塗られた唇に触れる。

「始まりとして選ぶか、終わりとして選ぶか」

「……始まりと、終わり?」

 対照的な言葉の意味するところは何か。サァリは小さく微笑んだ。

「私なんかは終わりの典型。一生に一人だけだから、よく考えて相手を知って、惚れこんだ一人を選ぶ。でも、みんながみんなそうじゃないの。例えば―――― 相手を識る為に選ぶ娼妓だっている」

「識る為に?」

「そう珍しいことじゃないよ。月白の娼妓は基本的に、外に出たがらない人間が多いから。気になるから、惹かれるから、って理由で客を選ぶ人間は多いよ。そうやって相手を知っていくの。始める為に相手を選ぶんだよ」


 自分と相手の時間を始める為に、全てを知らない相手を選ぶ。

 そこにあるものは、ただ識りたい、と欲するいじらしい心だ。

 ジィーアの、自分を見つめる目。

 何を考えているかは分からない、だがどこか何かを望んでいるような、けれどそれを最初から諦めているような。

 喪失を、謎めいた美貌で隠している瞳。

 それをもう一度見返したいと思っている自分に気づいて……タセルは内心ぎょっとした。


「始める為にって……客になったら死ぬんだろう。むしろ即終わるじゃないか」

「そうなんだけど。私の前で誘ったら、絶対止めるからね。それをジィーアが分かってないとは思わないけど?」

「………………」

 無言になったタセルを、サァリは目を細めて見つめる。

 すぐに、広場の方から弦の音が聞こえてきた。それを聞いたアイリーデの巫はあっさりと踵を返す。

「じゃあ、私は行くから。ちゃんと働いて、って言いたいところだけど、自分の命を最優先にしてね。ジィーアのことが気になるのはわかるけど、今回のことが終わってからにして。なんか面倒なことになりそうだし」

「……きちんと役目は果たす」

「死なないことが人間の役目だよ」

 冗談か皮肉かよく分からないことを言って、サァリは外へと出ていく。

 舞台に向かうその背を見送ったタセルは、自分の分からぬ自分を振り返ると……きつく両の目を閉じた。

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