第134話 心喰
月白の花の間で、タセルだけがおそらく異物だ。
ジィーアは人形のような無表情で彼を見ているままで、他の女たちは二人を気にもしていない。
タセルは強張った右手を動かし、顔を覆う。
「姉さんが……」
自分が近いうちに死ぬかもしれない、という話。
それを警告してきているのは、おそらく亡くなった姉なのだ。咄嗟に受け入れられる話ではない。
もちろん、「目に見えないものは信じない」などと言うつもりはない。
だが、実際目にした訳ではない姉の死をまだ飲みこめていないのに、それ以上を差し出されても反応出来ないのは事実だ。
『タセル、遠くに行っては駄目よ』
「……遠くに行ったのは、姉さんの方じゃないか」
しかも、彼の知らないうちに、見ていないところでいなくなった。
死んだという確信もなく、死に様も分からない。
ただ曖昧な染みとして彼の中に残るだけだ。おそらくは、一生消えることなく。
―――― それを思うと、何もかもが厭になる。
「感情を殺さなくていい」とシシュは言ったが、己の感情を自由にすれば曝け出されるのはただの暴力だ。
全てがどうでもよく、目に映る全てを壊して回りたい。粉々にして、意味のない絶叫を上げたい。
それが「死んでしまいたい」という意味なら、確かに自分は死にたいのだろう。
タセルはきつく奥歯を噛みしめる。
感情を制するまでの僅かな時間、幼い頃の記憶が脳裏を駆けて行った。
月光だけが照らす夜道。一歩先を行く姉の背。それを見上げる自分。
二人はそうして、何処までも同じ道を無言で歩き続けていた。
その果てが―――― 今だ。
彼は顔を覆っていた手を下ろすと、白い女を見る。
「姉は、何て言っているんだ?」
「それを聞いてどうするの?」
「君は死口なんだろう? 死者の言葉を代弁出来るんじゃないか?」
「出来たとしても、それが本当かどうかなんてあなたには分からないじゃない」
「…………」
思いのほか正論で返され、タセルは苦虫をかみつぶす羽目になった。
死した姉の言葉を聞いたとして、果たしてそれを信じられるのか。信じられないとしたら聞く意味はあるのか。
図星を差された彼は、別のことを尋ねる。
「何故君は、死期の近い人間を客に選ぼうとするんだ?」
「サァリがそう言ったの?」
ジィーアの顔からさっと笑顔が消える。
その後に残るのは、まるで木のうろのような空洞だ。
何処までも、覗きこめば落ちていきそうな虚ろ。
反射的に「何もなさ」を恐れたタセルは、どう彼女に答えるべきか迷った。下手なことを言って、月白の人間関係を悪化させてしまわないか―――― そんなことまでを考えた彼に、だがジィーアは皮肉げに口の端を上げて笑う。
「サァリは、自分が殺す側なのを棚に上げて、人のことを言うのよ」
「自分が殺す側?」
ジィーアはそれには答えない。彼女は床の上のビー玉を拾い集めるとおもむろに立ち上がった。
見向きもせず広間を出て行こうとする彼女に、タセルは我に返るとあわてて声をかける。
「ま、待ってくれ! 姉は……」
自分の死期が近いというのは別にいい。
だが姉は、何故悲しそうなのか。何を言おうとしているのか。
それが知りたいのだ。もしかしたら自分は、それを聞く為にこの街に来て、彼女に出会ったのかもしれない。
死した姉の言葉が聞けるなら、その時こそは――――
必死の声に、ジィーアは首だけで振り返る。
緑の瞳が軽く細められ、小さな唇が微かに動いた。
「……『人を愛してはいけない。羽根を呼んでしまうから』」
「羽根?」
聞き返す言葉に、ジィーアは答えない。
ただ彼女は美しい顔を少し歪めた。苦痛を堪えるように、緑の目が細められる。
そして、彼女は言った。
「『どうかあなたは、無事でいて』」
「……姉さ、ん」
それは、紛れもなく姉の言葉だ。
不意に喪われた彼女が、残してきた弟へと向ける言葉。
死してなお、彼女は彼のことを見つめ続けている―――― そうと分かった瞬間、言いようのない戦慄がタセルの背を走り抜けた。よく知っている感情、だが見ぬふりをしていたその輪郭が瞬間浮かび上がる。
夜の道。月の光。
たちこめる霧と……姉の、赤い服の裾。
結い上げた髪の下に見えるうなじが異様に白く、
霧は、踏み出す足を飲みこんで。
『ねえさん』
吸いこまれる声
置いていかれまいと、彼は駆けだす。
だが姉との距離は縮まることがない。いつまでも、同じ道を同じ距離を開けて進んでいく。
『姉さん』
胸を焼く焦燥がじんわりと熱を持つ。
言葉には出来ぬもの。長じてなお、変わることのなかったそれは、
だが影のような映像は、はっきりとした形を得る前に、ジィーアが踵を返したことでさっと霧散してしまった。
彼女は何も言わぬまま広間を出て行く。現実が急速に戻ってくる。タセルは改めて周囲を見回して、自分が月白の広間にいることを思い出した。震える指で前髪をかき上げる。
「何だ、今のは……」
望んでいたはずの姉の言葉だ。
だが真偽が分からないどころか、前半は意味も不明だ。何を警告してくれたのか掴みきれない。
タセルは聞いたばかりの断片を反芻する。
「羽根……白羽……」
さっき死んだ男と姉。
巻き込まれた者の証言に共通するものはそれだ。そしてもう一つ――――
「……そういうこと、なのか?」
導いた仮説は、あまりにも馬鹿馬鹿しく理解しがたく……だが話の筋は通る。
あとは、本当にそんな薄気味の悪い存在が実在するかだ。
「いや……いるかもしれないのか」
元々、ここに至るまで普通ではない光景を何度も目にしている。最初から、普通の結論などあるはずもなかったのだ。
これはやはり、上官に相談した方がいいだろう。
サァリは用事があるらしいが、シシュは連絡を受けて月白に向かっているはずだ。
彼はそう決めると、足早に広間を出る。
外の廊下には、既に白い女の姿は見えない。部屋に戻ったか、また外をあてどなく彷徨い歩いているのか。
話してみた彼女は、想像とはだいぶ違っていた。
違っていたが、むしろ妖しげな少女であった頃より、確かに実体を持った人間なのだとは安心出来る。
ただ―――― 彼女が何を考えているのか、何を思って動いているのか、そこはまるで意味が分からないままだ。結局、何故死期の近い人間を客に選ぶのかも教えてはもらえなかった。
元より、月白の娼妓を自分の尺度で測ろうとすること自体、無駄なことかもしれないだろう。
それでも、いつの間にか出来ていたささくれのように、ほんの僅か引っかかるものがあるとしたら、それは最後に見た彼女の背中だ。
一人でいることを当然として在る背中。
堂々と広間を出ていくその姿は……けれど何故かタセルの目に、傷ついているように映ったのだ。
※
「人の感情を食らう?」
「或いはそれに近しいものではないかと。男は死ぬ前に、『この思いを知りたいのなら教えてやる』と言っていました。死口曰く、死んだ姉からの忠告は『人を愛すると羽根を呼ぶ』と。胡乱な話ですが、犠牲になった人間が恋仲の人間に限られていることといい、やはり……」
「人の愛情に引き寄せられる虫、か」
真面目くさって頷くシシュに、タセルは安堵する。
他の人間ならば一顧だにされなかったかもしれないだろう。だが、この上官はどんな話でもきちんと受け止め、真剣に考えてくれる。その結果として二人は、月白の門前で難しい顔で唸りあっていた。
シシュは深い溜息をつく。
「その条件ではいつ誰が犠牲になってもおかしくないな」
「人に憑いてない時もあるのだと思います。白い鼬や鳥の姿をしていることが……そこを捕らえることが出来れば可能性はあると思いますが」
実際、タセルは二度白い鼬を見ているのだ。
化生を斬るようにあの鼬を斬れたなら、話は早い。
シシュは少し考え込んで、頷いた。
「そうだな。明日には巫舞がある。そこで炙り出せれば斬って終わらせられる」
「巫舞?」
「サァリーディが舞う神舞だ。彼女の力を以て侵入者を退ける」
「ああ……」
得体の知れない敵に、巫も本気になったということだろう。
確かに異様な空気を持つ彼女なら、それくらいのことは出来るのかもしれない。
だがそこでタセルは、もう一人の巫のことを思い出した。
「あなた様は……彼女のことを前からご存知だったのですね」
「彼女?」
「裸足で道を歩いていた、月白の」
「ああ」
それで得心したらしいシシュは苦笑した。
「彼女はよくも悪くも目立つからな。花の間に上がったことのある人間なら、大体印象に残ると思う」
月白がいくら特殊な妓館とは言え、床に寝そべってビー玉を転がしている女がいたら、皆気になって見てしまうだろう。
だが彼女は、他からのそんな視線をまったく気にしていないようにも見える。
タセルは初めて出会った時、貴族の令嬢にしか見えなかった彼女のことを思い浮かべた。
「そう言えば……彼女は何故、あの白い鼬を追いかけていたんでしょう」
「白い鼬を?」
夜の雑木林から飛び出してきた彼女は、確かにあの時、白い鼬を追っていたのだ。
あれが彼女の飼っていたものでないとしたら、ジィーアはどうして鼬を見つけて、捕らえようとしたのか。
もしかしたら死口だという彼女には、彼女しか分からぬ何かがまだあるのかもしれない。
タセルは反射的に月白の建物を振り返った。
「彼女は……」
「ああ、そう言えばサァリーディから伝言を預かっている」
「伝言? 小官にですか?」
「ああ」
シシュに言付けてあるということは、花の間から出て行った後のことなのだろう。
一体わざわざ何の伝言なのか。はっきり言って嫌な予感しかしない。何しろ「死ぬならよそで死ね」と笑顔で言うくらいの女なのだ。
反射的に身構える彼に、シシュは怪訝そうながらも内容を口にする。
「『死者の言葉に耳を貸さないように、彼らは容易く嘘をつく』……だそうだ。どういう意味だかは分からないが」
「嘘?」
タセルは軽く眉を寄せる。
それは、ジィーアの言葉に気を引かれ過ぎるなということだろう。
だが心配されるほどのことではない。自分はちゃんと冷静だし、姉が自分に嘘をつくことなどあるはずがないのだ。
―――― だから、その忠告は無用の産物だ。
タセルは軽くかぶりを振って違和感を振り落とすと、シシュに頭を下げた。
「ありがとうございます。確かに受け取りました」
「ああ。巫舞は明日の昼前だそうだ。中央の広場から波紋状に炙り出しがかかるだろう。留意していてくれ」
「かしこまりました」
それまでの間、もう白い鼬を見ることは出来ないだろうか。
シシュと別れて月白を後にしたタセルは、雑木林の間を歩きながら、ふっと視界の隅に白いものがよぎった気がして振り返った。
だがそこには何もない。鬱蒼とした林が続いているだけだ。
「気のせいか……?」
気にしすぎて意識にこびりついてしまったのだろうか。
前を向きなおしたタセルは、判然としない感情を抱えたまま歩き出す。
その後ろには、淡く溶け去る白い羽が点々と落ちていた。
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