第132話 白羽
「死んだ? あの娼妓が?」
突如もたらされた知らせに、サァリはさすがに唖然としてしまった。
まだ逃げた男も見つかっていないというのに、生き残った女の方が大通りで怪死してしまったのだ。
しかもその死に方が、口から血を噴き上げた挙句、その血が跡形もなく消えてしまったというのだから、さぞ凄絶な光景だっただろう。
死者からの「伝言」を受け取ったサァリは、こみかみを押さえる。
「私の術が、男の人の方を守ったって……」
「何かしたのか、サァリーディ」
月白ではなく、茶屋の座敷で彼女に向かい合っているのは、夫であるシシュだ。たまたま買い出しに出てきたサァリを捕まえた青年は、お茶にも手を付けないまま問う。
サァリは小さくかぶりを振った。
「そんな大したことしてない。ただ灯り籠に小さな術かけたの。そこを核に私の力をうっすら広げて、何かあったら気づけるようにって」
「探知用か……いつかの鈴みたいなやつだな。それのおかげでということは、巫の力が相手の何かに障ったか」
「でも、女性の方が寄生されてたっていうのは全然気づけなかったよ。これ、思ったより厄介だね」
サァリのおかげで、男が守られたのだという言葉。
それは裏を返せば―――― 女が男を殺すはずだった、という事だ。
虫に侵された男が女を食らおうとしたのではない。その反対で支配されていたのは女の方だった。
現にあの娼妓の吐き出した血は、直後黒砂となって消えてしまったのだ。
今までの事件で発見された人間から血液が失われていたのは、あれが原因だったのだろう。
シシュは、すっかり冷めてしまったお茶を見下ろす。
「直前に、虫の羽音を聞いた。タセルも聞いたから間違いないとは思う」
「あれ、あの人にも聞こえたんだ?」
「ああ。だから実体があるものなのかもしれないが……タセルも化生斬りだからな。普通の人間よりは感覚が鋭敏だろう」
そのタセルは、娼妓の死体の解剖に立ち会っているはずだ。
サァリは白い指を顎にかけた。
「で、あとは私に忠告をしてきたって? 不可侵にしろって……」
「ああ。俺のことを神配と呼んだ。相手は俺たちのことを知っている」
「そう……随分といい度胸だね」
―――― すっと、場の空気が冷える。
神の怒りに触れたことによる冷気。それを半ば予期していたシシュは、内心で肩を竦めた。
彼の妻は情が深い分、基本的に短気なのだ。
シシュはこの場が月白ではないことを慮って、口を開いた。
「サァリーディ、畳が傷む。さすがに張替えにでもなったら理由を説明しにくい」
「ぐ……気を付けます」
周囲に霜を張りかけていたサァリは、気まずい顔でお茶に口をつけた。
だが彼女が怒るのも無理はないだろう。これは実質の宣戦布告だ。
―――― サァリ自身には手を出さないから、街の住人に手を出すのは見過ごせと、そう言っている。
そんな話を彼女が飲むはずがない。
サァリは茶碗に氷片を生み出しながら言った。
「明日には巫舞を舞うから。炙り出したなら、後をお願いします」
「……分かった」
アイリーデ全体へと力を及ぼす巫舞。それを彼女が舞うというなら、敵も潜んだままではいられないだろう。巫舞が始まると同時に、彼らを見つけ出し滅する。シシュに振られた役割はそれだ。
サァリは顔を上げると艶やかに微笑む。
「相手が何だったのかとか、何が目的なのかとか、そういうのはもういいから、とにかくさっさと潰す。虫相手なら当然だよね?」
「分かった……。後のことは後でだな。サァリーディのいいようにしよう」
「ちゃんと猛威を振るってやるから! 後始末はお願いね」
「振るう自覚があるなら、少しは手加減できるんじゃないか……?」
「手加減しようかなって思った結果が今だから! 私が甘かったし、全部凍らせてやるんだから!」
「それをするとアイリーデが滅ぶからな……」
―――― どうして彼女はこうなのだろう。
シシュは密かに悩んだが、彼女のこういったところも愛らしいとは思っている。
だから彼は、全ての始末は自分がするつもりで、ようやく冷めてしまったお茶を飲んだ。
※
解剖の結果は、今までとほぼ同じだった。
ただ一つ違うとしたら、他の犠牲者と比べて問題の娼妓はあまり衰弱していないというくらいだ。
立ち会いが終わったタセルは、すっかり食欲のなくなった体を動かして、夜の道を帰る。
今日はもう、宿舎に帰って休んでいいとは言われている。
だが異様な光景に出くわし、気が高ぶっているのもまた事実だ。
見回りがてら街を一回りして平静を取り戻そうとした彼は、けれど、人通りの少ない水路際に白いものを見つけて足を止めた。
「あれは……」
月光を受けて白く輝くもの。
それは、いつかも見た白い鼬だ。
じっと夜空を仰いでいた鼬は、ふっと振り返ってタセルに気づくと逆方向に逃げ出す。
「あ、待て!」
彼は反射的にその後を追った。アイリーデの夜道を駆け出す。
跳ねるように音もなく走っていく鼬は、まるで光る小石が転がっていくかのようだ。
その後を追いかけていたタセルは、曲がりくねった小路を出た先、見覚えのある雑木林の通りに出たことで辺りを見回した。
「ここは……」
月白へと続く通りだ。最初に白い鼬と少女に彼が出会った場所。
だが、今日は少女の姿はない。タセルは一瞬気を取られた隙に、鼬もいなくなっていることに気づいて頭を抱えた。
「しまった……」
白い鼬がまだ逃げているのだとしたら、捕まえて少女に返そうと思ったのだが、この有様だ。
どうにもこの街に来てから、何一つ満足な働きが出来ていない。シシュは「感情を押し殺すな」と言ってくれたが、全体的に頭に血が上っているのかもしれない。
大きく溜息をついたタセルは、しかし次の瞬間刀に手をかけた。
雑木林の中から、がさがさと草を踏み分ける物音が近づいてくるのだ。
「何者だ」
短い誰何に応えて、茂みの中から現れたのは見覚えのある男だ。擦り切れた浴衣、青ざめた顔を見て、タセルは驚く。
「お前は……」
―――― そこにいたのは、今日の明け方取り逃したばかりの客の男だ。
男はこの一日、雑木林に潜んでいたのか、何処もかしこも傷だらけだ。反射的に警戒しかけたタセルは、だが男は実際は「食われるはずだった」被害者であることを思い出した。からくも部屋から逃げ出したからこそ、彼は無事で済んだのだ。
タセルは、言葉に迷いながら口を開いた。
「災難だったろうが、もう安全だ。あの娼妓は―――― 」
その先を言いかけて、けれどタセルはぎょっと凍りついた。
男の両眼から、滂沱の涙が滴る。
言葉が覚束ない幼子のように、彼は口をわななかせた。
「しんで、しまった」
土に汚れた両手で、男は顔を覆う。震える指の間から嗚咽が零れた。
「おれが、逃げたから。だから」
「逃げたって……あの娼妓は、虫に」
彼女は既に虫に侵されていたのだ。仮に男が食われていたとしても、やはり彼女は死んだだろう。それは今までの事件を振りかえれば分かることだ。
どう男に切り出そうかタセルが迷う間に、男は顔を覆っていた手を下ろす。
そして、ぽつりと言った。
「白羽よ、このおもいを知りたいのなら、おしえてやる」
涙に濡れた両眼で、男は天の月を仰いだ。
「ただ、ひたすらに―――― かなしいのだ」
その言葉を最後に、男の体は崩れ落ちた。
鈍い音と共に横たわる体。砂利道に倒れたままぴくりとも動かない男を、タセルは呆然と見つめる。そこにもう命がないのだと明らかなだけに、彼は動けなかった。
男の吐き出した深い悲しみだけがたゆたっている夜道。
けれどタセルは視界の隅に、白いものを見止めて視線を動かした。さっき追いかけていた白い鼬が、雑木林の中からじっと死んだ男を見ている。
感情のないその両眼に、タセルは全てを察した。
「お前……っ」
軍刀を抜く。
林の中にいる鼬に向かって、タセルは二歩で間合いを詰めた。小さな体に向けて刃を振り下ろす。
この鼬が、白い少女のものであるということは頭の中から消えていた。
ただ男を狂わせた虫とこの鼬は、関係があると思っただけだ。
月光を反射する刃。その切っ先が鼬の頭にかかる。
だが鼬の頭が叩き割られようとした瞬間―――― 白い体はぱっと無数の羽根となった。
軍刀を避けて宙に舞い上がった羽根は、再び一つに集まると同じ色の鳥になる。
「な……」
純白の鳥は、そのまま男の上を一回りすると何処ともなく飛び去っていく。その姿が雑木林の向こうに消えるのを、タセルは呆然と見送った。
「な、なんなんだ……あれは化生か?」
にわかには飲みこめない事態だ。確かに王都の化生なら、鳥獣の形を取って好きに姿を変えるが、その色は漆黒だ。白い化生など聞いたこともない。
ただ確かに男は、死に際に「白羽よ」と呼びかけていた。
白い鼬、加えてさっきの鳥は外洋国から入ってきたという「白歌鳥」だろうか。
そして―――― 白い裸足の少女。
この一連の事件に、それらが関係しているのはもはや確定だ。
「くそ、殿下に報告してあの少女を探さねば……」
シシュはきっと彼女の素性を知っているはずだ。
だが今はまず、目の前の男の遺体も何とかせねばならない。タセルは辺りを見回して、ここから月白が近いことを思い出した。
サァリに頼めば、他への連絡も引き受けてくれるだろう。タセルは上着を脱いで男の遺体の上にかけると、月白に向けて駆け出す。
まもなく見えてくる門前、そこにはちょうど主の女がいた。
何処からか帰ってきたところらしいサァリは、タセルに気づくと中に入りかけていた足を止める。
「あれ、どうしたの? そんなに急いで」
「例の逃げていた男が死んだんだ。すぐそこでだ」
「―――― は?」
氷片を含んだような声。
周囲の温度が一気に下がるような女の迫力に、タセルは内心たじろいだ。
女の碧眼が、軽く細められて彼を見据える。
「何それ……詳しく教えて」
「ひ、ひとりでに死んだんだ。体を蝕まれていたようで……多分、白い鼬が……」
タセルはそこで言葉を切る。
彼の大きく見開いた眼は―――― 月白の玄関にいる一人の少女を捉えていた。
相変わらず裸足のままの、白いドレスの少女。
その素足で三和土に立っている彼女は、まるで現実味がない。
灯り籠の傍には下女がいるが、掃き掃除をしてい下女は、すぐ傍にいる少女に気づいてもいないようだ。
タセルはぞっと戦慄する。
「まさか、俺にしか見えていない……のか?」
だがその時、タセルの視線を追って振り返ったサァリが、形のよい眉を寄せた。
「何で教えてって言ってるのに、そっち見てるの。人の話を聞きなさい。―――― あとジィーア、いつも言ってるけど、上がる時は足を拭いて」
「……え?」
サァリの言葉の後半は、紛れもなく白い少女に向けたものだ。タセルは月白の主に問う。
「彼女が見えるのか?」
「何言い出してるの? 見えます。うちの娼妓ですし」
「は?」
「うちの娼妓」
理解出来ずにいるタセルに興味を引かれたのか、白い少女は裸足のまま石畳を近づいてくる。
下女が少女に向かって無言のまま頭を下げた。
そうして少女は、彼の前に立つと―――― 彼の後ろを見つめて、小さな唇を開いた。
「どうしてそんなに、悲しそうでいるのかしら」
「悲しそう……? 小官がか?」
「あなたではなくて」
少女はタセルからふっと視線を逸らすと、サァリを見る。
「彼は?」
「化生斬りです。駄目です」
「なら彼を、わたしの客にしましょう」
「駄目だって言ったよね、私!?」
サァリの叫びを聞きながら、タセルはぽかんと口を開く。
謎めいた事件に関わりが深いと思っていた少女―――― その彼女がまったく別種の不可思議さを持つ人物だと彼が気づいたのは、この時のことだった。
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