第131話 進言



『タセル、一人で遠くに行っては駄目よ』

 そう、姉に襟首を掴まれたことを覚えている。

 周囲からはおしとやかで物静かと思われている姉だが、タセルに対しては親代わりである分、いつも厳しかった。容赦がなかったと言ってもいい。

 凛と、毅然と、気を張って立っている姿。

 それが、タセルの真っ先に思い出す姉の姿だ。弱さも恐ろしさも飲みこんで、弟には見せないように気丈に振舞っていた。

 そうして強くあろうと生きている彼女を、いつか自分が守れる側になりたいと思っていたのだ。

 だが彼が士官になった矢先、姉の縁談が持ち上がった。タセルは正直拍子抜けして……けれど、姉の幸福を心から喜んだのだ。

 これで彼女は自分の人生を生きられるのだと、そう思って、だが――――



          ※※



「外洋国から入り込んだ虫……ですか」

 通りをシシュと並んで見回りながら、タセルは渡された書類に目を通していた。

 そこに書かれているのは、事件の少し前に王都とアイリーデに持ち込まれた品物の目録だ。

「共通しているものは布や茶葉が多いですね。調度品なんかもいくつか」

「基本的にこの街に持ち込まれるものは、嗜好品が多いからだろう」

 夕暮れ時の通りでは、まだ灯り籠に火を入れている店も多くない。

 広場では敷物を敷いて楽を奏でる者たちがいて、そこには人だかりができていた。シシュはちらりとそちらに視線を送る。

 王都からこの目録を取り寄せていた上官は、既に一通り目を通しているはずだ。タセルはシシュに尋ねた。

「殿下……ではなく、シシュ様は、何が怪しいと思われますか」

「様はやめてくれ。まずその虫が、普通に生物かどうかが問題ではあると思う」

「普通に生物か?」

 ―――― 虫というものは、普通は生物ではないだろうか。

 タセルはそう思ったが、相手が目上であることもあって、それ以上の言葉を飲みこんだ。

 だがシシュは、素直に疑問へと答えてくれる。

「この街では化生が実体化することがあるが、他の街では普通の人間には化生が見えないだろう? 今回もそれと同じで、巫だからこそ察知出来た存在なのかもしれない。だとしたら、見つけるのは困難だ」

「……ああ、確かに」


 虫の羽音、とサァリが言ったからと言って、本当にそんな虫がいるかは分からない。

 いたとしても、巫だから存在を把握できる何かかもしれないのだ。


「だから、言ってしまえば今が好機だ。中に虫を入れている人間を捕まえれば済む」

「娼館から逃げ出したあの男ですか」

 いつの間にか追いかけていたのに見失ってしまった相手。その姿は今でもよく覚えている。もう一度見かけたなら、次は逃がさない。巫にしか見えぬ「虫」がこの街にいるというなら、あの男を捕まえることしかタセルが追えるものはないのだ。

「……何としても、捕まえます」

 口にした言葉は、自分でも思った以上に罅割れていた。

 シシュがちらりと彼を見る。

「タセル」

「分かっております」


 私情に狂うつもりはない。王都にいた時には、それで捜査から外されたのだ。

 そうしてアイリーデにまで来て、同じ轍を踏むつもりはない。

 たとえ幸福になるはずだった姉が、もはやこの世にいないのだとしても――――


「違う。そうじゃない」

 シシュの声に、タセルは顔を上げる。

「違い……ますか?」

「ああ」

 己の思考に沈みかけていた彼に、今や化生斬りとなった上官は言った。

「無理に何もかもを飲みこむ必要はない。感情を押し殺す必要はないんだ。少なくともこの街では」

「それは……」


 神話に謳われる街、アイリーデ。

 その成り立ちは、神への返礼として作られたというものだ。

 神が求めた対価は、美酒と芸楽と人肌。

 だからこそ今もこの街は、時代が変われども変わらぬ享楽街として存在し続けている。


「この街は、人の欲を肯定する。感情を肯定する。だからお前も、自分の思うようにすればいい」

「思うように……ですか?」


 そう言われても、どうすればいいのかよく分からない。

 自分が何を感じているのかさえよくわからないのだ。何もかもを飲みこめずにいるままで、きっと一歩も進めていない。

 姉の婚約者が死んだと聞いた、あの時からきっと――――


「……裂けばよかった」

「タセル?」

 聞き返されて、タセルは顔を上げる。自分で何を言ったのか、ぱっと思い出せずに彼は首を捻った。

「す、すみません。少しぼうっとしていたようで」

「無理もない」

 きっぱりとそう言うシシュは、人の善性を当然のように信じているように見える。

 知れば知る程、この街とはあまり似つかわしくないように見える上官に、タセルは尋ねた。

「あなたは、思うようになさっているのですか」

「ああ。サァリーディがそれを許している」

 彼の伴侶である女。

 この街唯一の巫であるという彼女の権限は、一体どういうものなのだろう。単なる恐妻家というのとは、また違う気がする。

 そこで彼は、この街の由来を思い出した。

「そういえば、神話正統の月白の娼妓ということは、彼女は聖娼なんですね。聖娼に選ばれたということは、あなたが神の代わり、ということになるのですか」

「いや……まったく違うんだが、ある意味近いような……やっぱり違うな」

 腕組みをしてしきりに悩む上官は、何に引っかかっているのかよく分からない。

 タセルは自分から聞いた手前、申し訳ないと思いつつ、目録の確認に戻った。ざっと一通りを見て―――― ある一箇所で目を留める。

「この白歌鳥っていうのは何でしょう」

「ああ、嗜好品に区分される鳥だ。こちらの大陸ではほとんど見ない上、声が美しいから貴族に好まれる。一度だけ陛下に献上されたものを見たことがある」

「やっぱり白いのですか?」

「真っ白だ。外洋国では雪歌とも呼ばれるみたいだな」

「なるほど……」

 何故それが気になったかと言えば、一つは単純に「虫というからには、寄生元がいるのではないか」と思ったからだ。サァリの話ではないが、世の中には特定の動物に寄生して移動する虫がいるという。ならば他の生き物も疑ってみるべきではないかと思った。

 だがもう一つ、気になった理由があるとしたら、それは――――

「タセル」

「はい」

 考えこみかけていたタセルは、向こうからやって来る男とぶつかりそうになって、無意識のうちに避ける。そうしてようやく顔を上げて、忠告してくれたのだろう上官に御礼を言おうとする。

 だがそこで―――― 通りの向こうに別の人影を見た。

「あれは……」


 真っ白いドレスを着た少女。

 淡い金髪が夕闇に浮き立って、まるで灯り籠の火のようだ。

 雪を思わせる滑らかな肌に細い四肢。足は相変わらず裸足で、だが彼女はそれを気にもせず通りをふらふらと歩いている。

 周りの誰もがそれを気にしていないのを見て、タセルは自分が幽霊を見ているのかとも思った。


「そう言えば、この街では化生が実体化するっていう……」

 今はほとんど実体化はしないが、かつては人と見紛う化生が街にまぎれていたという。

 ならばあの少女もそういった物の怪なのだろうか。

 タセルは、同じ化生斬りの能力を持つ上官に尋ねた。

「あの、先程はありがとうございます。それで、突然で恐縮なのですが、あそこに白い少女がいるのですが……」

 見えるだろうか、と思って指し示したタセルに対し、シシュはすぐに「ああ」と頷いた。

「いるが、彼女がどうかしたのか?」

「ど、どうか……? ……あ、いえ、裸足なので……」

 まるで当たり前のように返されて、タセルはあわてて言い繕う。

 ―――― ということは、彼女は化生でも物の怪でもないということだろうか。

 シシュは、咄嗟の言い訳を聞いて苦笑した。

「確かにあれは驚くが、本人の拘りでもあるだろうからな……」

「え?」

 まるで彼女を知っているような口ぶりにタセルは驚く。

 サァリに聞いた時は「知らない」と言われたが、ひょっとしてシシュは白い少女のことを知っているのだろうか。

「あの、彼女は―――― 」

 少女について聞こうとタセルはシシュを見上げる。



 だがその時、少女自身がくるりと振り返った。緑石色の目が、まっすぐに彼を捉える。

 驚きか、それ以外の感情か、思わず胸の鼓動が跳ねた。

 少女はタセルをじっと見つめて、そして口を開く。

 声は、距離があって届かない。

 だが口の形でいくつかの単語は分かった。



「……『どうして、そんなに』?」


 少女の言葉は、そこから先も続いていた。

 だが何を言われたかは判然としない。タセルは直接彼女に続きを聞きに行きたいと思いつつ、自分が見回り中であることを思い出して逡巡した。


 ―――― その時耳元で、ぶぅん、と厭な羽音がする。


「っ……!」

 反射的に振り返るも、虫の姿はない。

 隣ではシシュもまた、整った顔を顰めて宙を睨んでいる。その険しい目に、タセルは自分の幻聴ではないと分かって安堵と警戒を覚えた。

「今、確かに……」

「ああ」

 厚羽が空気を震わせる音。

 丸々とした胴体を想像させるそれは、だが肝心の虫が見つからない為、嫌な残響だけをタセルの耳に残していった。

 かぶりを振って辺りを見回したタセルは、けれどふと雑踏の中に立っている女に気づく。

 髪を結い上げ、着物をきちんと着た娼妓。

 知らないはずの女の顔を、しかし何処かで見た気がしてタセルは首を捻った。


 隣のシシュが彼女に声をかける。

「あなたは、外を出歩かない方がいいと言われていたのではなかったか?」

 その言葉で、タセルは女が何者なのか思い当たる。

「あ、あの男の……」

 逃げ出した男の、恋人であった娼妓。

 そこにいたのは、危うく殺されかけるところだった彼女だ。

 娼妓は姿勢を正すと、シシュに向かって深々と頭を下げる。

「此度は、わたくしどものことでお手を煩わせて申し訳ありません」

「それは構わないが、どうかしたのか?」

「ええ。―――― 白月の姫に、申し上げます」

「しらつき?」


 聞き覚えのない呼称。

 タセルが聞き返すと同時に、だが隣のシシュの纏う空気が変わった。

 鋭く研ぎ澄まされた戦意。

 ぞっとタセルの背が凍る。シシュは何かを聞き返すより先に、刀に手をかけた。


「何者だ。何が言いたい」

 二人の間の距離は、歩にして約八歩。

 化生斬りの刃がいつ振りかかるかもしれない剣呑な空気に、だが女は悠然と微笑んでいるだけだ。

 彼女は軽く伏せた目で続けた。

「神配よ、どうか姫にお伝え頂きたい。あなた様の術は、確かにわたくしからあの方を守ったのだと。……心より御礼を申し上げます」

 微笑む彼女は、美しくも何処か物悲しい。

 シシュは軽く眉根寄せた。

「術? サァリーディのか?」

「そしてもう一つ――」

 女の声が変わる。

 その白目がみるみる充血していく。たちまち真っ赤になる眼球を、タセルはただ呆然と眺めていた。


 皺がれたような、子供のような、異様に高い、だが低くもある声。

 いくつもの声が重なったような声音が、シシュへと語る。



「我々は、人間にのみ興味がある。だから異種よ―――― 我々に対しては、不可侵が妥当である」



 そう言い終えた直後、娼妓は両手で己の喉を掴む。

 何をするのかと思った直後、彼女の口から血が噴き上がった。

 高く空中まで上がった血飛沫に、一拍の間を置いてあちこちから悲鳴が上がる。

 ぼたぼたと路面に滴る血の中、娼妓は舞うようにくるりと一回転して……倒れ伏した。



 投げ出された体。

 大量の血に浸されたそれに命がもうないことは、一目で分かる。

 騒然となる大通り、逃げていく人々に逆らって、シシュとタセルは倒れた娼妓に駆け寄った。血溜まりに膝をついて、シシュが娼妓に手を伸ばす。

「……死んでいるな」

 彼は首に触れて脈を取ると、深く溜息をついた。開いたままの瞼を下ろしてやる。

 その姿を立ったまま見下ろしていたタセルは、ふと足下をさざめくものに気づいて視線を落とした。―――― そしてぎょっと立ち竦む。


 鮮やかな血溜まり。それが独りでに波紋を作ってさざめいているのだ。

 まるで意思があるかのような動きに唖然とした瞬間、血はたちまち色を失って黒い砂へと乾いていった。そのまま、風に霧散して消え去る。


 すっかり血の跡の残っていない地面に、タセルは我が目を疑った。

「な、なんなんだ、今のは……」

 その言葉に答えられる者はいない。

 刻々と近づいて来る夜の時間、タセルは悪夢そのものの光景に呻いて……ただ口の中で姉の名を呼んだ。

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