第130話 羽虫


「遺体の方だけどね、胃の中に残ってるものがあったの」

 サァリは懐から畳んだ手布を取り出した。二人が見つめる視線先、テーブルの上でそれを広げる。

 中にあったのは―――― 一本の黒糸だ。

 シシュは軽く眉を顰めた。

「……髪、か?」

「そう。多分、行方不明になっているお相手のじゃないかな。その人、黒髪? シシュ知ってる?」

 そんなことを無垢な様子で聞く女に、二人の男は押し黙る。

 タセルは彼女の言っていることが理解できずに返した。

「……君は、何を言いたいんだ」

「あれ、分からなかった? ほら、虫の中には産卵の為につがいの相手を食べるものがいるでしょう?」

「…………」

「だから最初はそういう風に作り変えられたのかと思ったけど、同性同士もいるのなら生殖というより純粋に精神的な作用だったんじゃないかって思って。こんな風に―――― 」

 サァリは白い右手で夫の前髪を掻き上げる。そうして愛しげに顔を綻ばせた。

「愛情から『触れたい』と思う。それを少し、書き換える」

 女の目が、うっとりと細められる。

「例えば……『食べたい』とか」



 ―――― タセルは息を飲む。

 彼女の言う意味を反芻し、理解しようとする。

 だがどうしても飲みこめない。よく分からない。

 何故なら、もしそれが真実なら、いなくなった人間は相手を殺して逃げたのではなく――――



 真っ白な思考。

 上官の声が、かろうじて聞こえる。

「では……行方不明者は死んだ連れ合いに食べられたのだと、そう言うことか?」

「私はそれを疑ってる。だって行方不明者がそんな人数いて皆見つからないって、少し難しいよ。違う理由だとしても全員じゃないとしても、死んでいる人はいると思うでしょ?」



 既に、死んでいる。

 その言葉が、タセルの胸中で波紋のように広がる。

 予想外ではない。むしろ常に考えていたことだ。

 姉は、とうにこの世にいないのではないかと。



 白い手布の上の黒髪を、彼はじっと見つめる。

 脳裏をいくつもの記憶がよぎった。幸せそうに微笑む姉の姿を、いつの間にか遠く感じている自分がいる。まるでとっく取り戻せないものだと、分かっていたかのように。

 ―――― 空白を埋めるものは、ただ己だ。

 彼は、ゆっくりと思考を動かす。元の自分を取り戻していく。

 そしてタセルは顔を上げた。神話の街の巫と目が合う。

「君は……どうやれば、そんなことが可能になると思っている?」

「虫が身の内に入り込むことで」

 即答したサァリは、白い指で自分のこめかみをつつく。

「今回の件は初耳だけど。たとえばおかしな病の中には虫が媒介するものがあるの。人よりも動物がかかることが多いんだけど。虫は自分たちが増える為に、寄生した相手の行動を狂わせる。でも寄生された方はそれに気づかない。気づかないまま、普段なら決してしないことをする」

「それが人食いだと?」

「あくまで仮説の一つだからね。どこから来た虫か、誰かが意図的に動かしているのかは分からないけれど。私はそれを捕まえたいの。……ね、出来るかな?」

 優美な、だが底知れぬ力を持った声音。

 彼女のそれは、問いかけではなく命だ。

 何故かタセルには、そうと分かった。姉を殺した……殺させた「虫」を捕らえることが出来るかと。


 もしそれが本当なら、王都では辿りつけないだろう真実だ。

 この神話の街で、別の流儀の世界であるからこそ届くかもしれない事実。

 ―――― ならば答えは、一つしかない。


「……やってみる。あの男を捕らればいいんだろう」

「じゃあ、お任せします。手に余ると思ったら無理しないようにね」

 ぽん、とサァリは手を叩く。話はこれで終わりということだろう。彼女は手布を畳みなおすと懐に入れた。

 今まで黙っていたシシュが口を開く。

「タセル、先に表門のところに行っていてくれ。すぐに俺も行く」

「はい、かしこまりました」

 シシュはシシュで、何か聞きたいことがあるのだろう。そう判断し、タセルは敬礼して去っていく。



 裏庭に人の気配がなくなると、シシュは妻を見下ろした。

「サァリーディ、あの話はどこまで推論だ?」

「ほぼ真実だと思ってる。少なくとも私は、だけど。この街に時々虫の気配がする。耳障りな音がするの」

 残響を振り払うように、サァリは小さな頭を振る。軽く結い上げられただけの銀髪が耳の前に零れ落ちた。シシュはそれを指で彼女の耳にかけてやる。

「虫に侵された人間は、連れ合いを食らおうとも早晩餓死するということか」

「多分、侵された時点で長くないんだと思う。で、死後、血が無くなるってことは、死んだ後の血こそが虫の本来の目的なのかもしれないね。いわば人二人分の濃さの血なわけだから」

 だがそれ以上は彼女にもまだ分からないことなのだろう。

 神の庭に入り込んだ異物のうっすらとした輪郭を捉えることは出来る。だがそこから先は、兵士の役目だ。

 シシュは自分の刀につけた飾り紐を一瞥した。白い半月と黒い半月は彼が巫の客である証だ。

 一生の情を約束する証に、シシュは小さく嘆息する。

「サァリーディ、その虫の影響を、俺が受けるということはあるだろうか」


 ―――― もし、自分が彼女を食らいたいと思えば、それを為すのか。


 かつて人であった頃、蛇の執念に取りつかれ彼女を食らいたいと願った時の記憶が、嫌でも蘇る。

 苦りきった顔のシシュに、だがサァリは艶やかに微笑む。

「食べてもいいよ。シシュなら」

「……やめてくれ、サァリーディ」

「大丈夫、冗談だから。まだ私、あなたの子供を産まなきゃいけないし」

 言うなり彼女は腰を浮かす。美しい顔が近づき、小さな唇が彼の口を食んだ。冷ややかな、神の息が吹き込まれる。

 それは、たちまちシシュの体の隅々まで行き渡り溶け消えた。至近で彼女は優美に囁く。

「これで大丈夫。元々シシュは人じゃないから平気かもしれないけど、違うものは入り込めないはずだよ」

「…………助かる」

 助かるのは事実だが、彼女のこういった振舞いに未だ慣れないのは事実だ。

 変わらぬ神という存在を、血によって継いでいく女。

 かつて少女であった頃は、人として育ったが故の人間くささもあったが、紆余曲折を経て神供の男を迎えた彼女は今や、この街の主人として完成された存在なのだろう。神婚によって唯一の同族となったシシュだが、彼女に捧げられた元人間としては、やはり届かぬものも多い。


 サァリはくすくすと笑うと、夫の額に口付けた。

「一応気を付けて。今回、虫に寄生された人が逃げちゃったのはアイリーデだからかもしれないけど、この先も勝てるとは限らないから」

「アイリーデと王都はどう違うんだ? 巫の結界か?」

 今までの事件は発見された時には、全て手遅れだったのだ。今回が未然に済んだのはサァリの力が満ちているせいなのか、シシュは疑問に思う。だが彼の妻は首を横に振った。

「確かに神域ではあるけど、私はそこまで大きな結界張れないよ。月白の敷地内だけ」

「そうなのか? もっと端々まで行き届いている気がしてたが」

「気が向いたらたまにね。いつもやってると、人らしくなくなっちゃう。……じゃなくて、王都とこの街の違いは、単純に気風だよ」

「気風?」

 それが違うことは明らかだが、何が影響しているのか。

 分からずにいるシシュに、サァリはくすりと笑う。

「単純なこと。愛情と情愛は……似てても少し違うの」


 ひどく似て、同一でもあって、だが何処か違うもの。

 相手を想う深い感情も、だが気風が変われば色を変える。


「アイリーデの気風は欲を肯定するから……そこで差異が出たのかもしれない」

「欲? でもそれなら尚更、食欲を思い止まるのは難しいんじゃないか?」

「んー、ちょっと違うかな。ほら、全てが相手を想う愛情なら、それを変えられたら止まれないでしょう? でも、愛情の一部に我欲が混ざってたら……それを利己的な感情だと自覚していたら、その部分は、変質の影響を受けないんじゃないかな」


 感情の強さも、結果も同じでも、内に幾許かの欲を含んでいるなら。

 それは王都の人間とは異なる結果になるのかもしれない。


 サァリはぱちんと指を鳴らす。

「と言っても、人それぞれだとは思うから。次もこうなるかは分からないけどね」

「……なるほど。難しいな」

 ふっと微笑む彼女の眼差しは、人の営みを愛しげに俯瞰しているようにも見える。

 欲を孕んで動く街。それはこの地の地下に眠っていた蛇にも象徴されるのだろう。

 シシュは頷くと、立ち上がった。

「分かった。ひとまず俺は、他に虫に寄生された人間がいないか気を付けてみる」

「目に見えない虫だと感じたら教えて。巫舞に切り替えるから」

「実体があるとしても、あまりに小さいものだったら困るしな……」

 それとも問題は「何故そんな虫が入り込んでいるか」だろうか。

 誰かの差し金だとしたら看過できない。シシュは、ここに至るまで考えていた可能性を口にした。

「サァリーディ……俺はその虫が、外洋国から持ち込まれた可能性を考えている」


 しばらく前に、外洋国の人間がこの大陸で暗躍し、戦乱を振り撒いたという一件があった。

 その際の首謀者は既にシシュの手によって殺害され、数か国に渡った問題も今は鎮圧されているが、ひょっとしたらその際に副産物として持ち込まれたものがあるのかもしれない。


「外洋国には別種の人外がいると言っていただろう? 同様に、向こうにはこちらに馴染みのない生物もいるのではないかと思う。でなければこれだけの広がり方だ。もっと以前から似た事件が起きていたんじゃないか?」

「……そっか。そうだね。シシュすごい」

「単なる仮説だが」

 新たに生まれたか作られた、という可能性もあるが、やはり「何故今」という疑問は残る。

 それよりは外洋国から来たと考える方が説明がつくのだ。シシュはタセルが王都から持ってきた報告書を思い起こした。

「最初の事件が起きたのが、最東国との通交が回復してまもなくなんだ。その際真っ先に運び込まれたのは、港で留め置かれていた船便だ。中には外洋国からのものもあっただろう」

「じゃあ、その荷の中に何があったか……だよね。あと、アイリーデに来たものとの共通点」

「これから調べる。待たせて悪いが」

「全然。ありがとう」


 夫を見送る為に、サァリもまた立ち上がる。彼女はこれから着替えて店を開ける準備もあるのだ。

 いくつもの役割を負う妻に、シシュは私的なことを言うか迷って……だが結局は遠まわしに口にした。

「サァリーディ」

「はい」

「タセルのことを気にかけてくれるのは有り難いが――」

 そこでシシュは言葉を切った。

 口にしてみると、思った以上にひどい。どうかしている。

 彼はがっくりと項垂れて溜息をつくと、気を取り直した。

「じゃあ、行ってくる」

「待って待って! 今どう聞いても途中だったでしょう!」

「気にかけてくれて有り難い、と言った」

「違うよね!? 何か苦言を言いかけてたよね?」

 サァリは制服の肩口を掴んで、ぐいぐいと引っ張ってくる。いつものようにがくがくと揺らされながらも言い渋っているシシュは、だが今までの経験から、彼女が絶対に諦めない性分だと知っている。ややあって諦め十割で口を開いた。

「有り難いが、巫の本性は人を惹く。俺としては矢張り……少し気になる」


 元々、サァリは人によっては「筋金入りの娼妓」とも言われる存在なのだ。

 その存在が完成された今では、類稀な美貌だけでなく振舞いが、自然に人を惹きつける。謎めいた女に見えるところも、少女のような親しさも、他にない彼女自身の魅力だろう。

 ―――― だが何より人と彼女を分けるものは、神としての本性だ。


 人ならざるものの威。

 それを目の当たりにした者の多くは彼女を畏れるが、惹きつけられる者もまた存在する。

 だがシシュとしては、あまり彼女の崇拝者を作りたくはないのだ。たとえ彼女の客が自分一人しかいないと分かっていても、いい気分ではない。


 とは言え……改めて口にすると余計酷い。

 むしろ何でこれを口にしてもいいと思ったのか、自分に問いたい。

 力なくかぶりを振るシシュに、だがサァリは大きな瞳を丸くしているだけだ。

 彼女はその目をゆっくり細めると、ふっと口元を綻ばせた。

「ありがとう、シシュ」

「……礼を言われる理由が分からないんだが」

「私のこと、大事にしてくれてありがとう」

 少女の頃のように頬を赤らめて、彼女は嬉しそうに笑う。

「でも私は月だから。私が人を惹くように見えるとしたら、それはあなたがいるからだよ」

「俺が?」

「ええ」


 彼女の言うことは、よく分からない。

 分からないが、彼女が嬉しそうならそれでいいのだろう。

 シシュは飲みこめないながらも、もう一度自分の非礼を詫びて、月白の庭を後にする。

 サァリはそんな夫を、曇りない笑顔で見送った。



 誰の姿もいなくなると、彼女は焦がれる声で謳う。

「あなたが私の光なんだから……何を憂う必要もないの」

 だからただ、望むがままに進めばいいのだ。

 それでも、振り返って後ろを気にしてしまうのも彼の性分なのだろう。そんな生真面目さも、珍しく見せてくれた私情も愛しくて、サァリは子供だった頃のように顔を綻ばせる。

 そして彼女は、柔らかな笑顔のまま囁いた。

「だから、巫舞の準備はするからね」



 これ以上後手に回る気はない。

 彼を煩わせるのも、児戯でなければ醜悪なだけだ。

 サァリは浴衣の裾を翻し、自らの住処である離れへと戻る。

 ゆっくりと落ちていく日。夜へと近づく時間。

 だがまだ細い月を―――― 雑木林の中から白い鼬が見上げていた。

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