第129話 白昼
月白の奥の間に安置された遺体。
その前に立つ女は、透き通る眼差しを命のもうない娼妓に向けていた。
青い眼差しが、うっすらと燐光を宿している。
普段の着物ではなく白い浴衣姿の彼女は、遺体の傍に膝をつくと死した女に一礼した。おもむろに己が両手を死体の胸に伸ばす。
「少し……開きますよ」
死した女に断る一言。
そして彼女の指は―――― 音もなく冷え切った体の胸へと沈んだ。
血は流れない。
見つかった遺体は皆、血液を失っていたという。
だがそれが理由ではなく、神の手は人の体を傷つけることなしに内に触れることもできるのだ。
サァリの両手が、女の胸から腹をゆっくりと開いていく。
まるで柔らかな土のように骨と皮ばかりの体は、おのずから神の目に乾いた臓腑を曝していった。
そうして人の腑の内側をゆっくりと撫でていったサァリは、ふと指を止める。
「これは……」
型の良い爪先が、変色しかけた胃の内側から何かを摘まみ上げる。
そしてサァリはそれを、目を細めてじっと見つめたのだった。
※※
―――― 宵闇篭を張れ、と、巫に言われてから三日。
今のところ問題の客と娼妓に変わったところはない。客の男は王都からの逗留客で、もう二週間も彼女に会いに通い続けているのだという。アイリーデを離れる際には身請けも考えているという彼は、随分当の娼妓に入れあげているらしい。
一方、女の方もまんざらではなく、周囲からは「よい夫婦になるのでは」と思われている。アイリーデにおいては、別段目立つこともない恋物語だ。
問題の妓館の通りを挟んで向かい、二階の座敷から様子を窺うタセルは、ぽつりと問う。
「そういうことは、よくあることなのですか」
「そういうこととは?」
聞き返したのは、彼と組んで見張りをしている化生斬りの鉄刃だ。
この街に三人いる化生斬りのうちの一人で、もっとも寡黙で大柄な男は、新人にも分け隔てなく接してくれる。アイリーデ住民の多くが持つ韜晦もなく、タセルにとっては放しやすい相手だ。
そんな相手に、彼は改めて言い直した。
「娼妓を身請けして妻にするということは、ごく普通の話なのですか」
「ああ……頻繁に、と言うほどではないが珍しくもないな。この街の娼妓は自分の意思でここにいるからな。それが変われば、出ていくのも自由だ」
「身請けに制限などは?」
「どれだけの金額がかかるかは、店と娼妓自身による。が、あまりに足下を見れば、余所から物言いもつくだろう」
「なるほど」
王都にいた頃は、国に縛られぬ無法地帯のように思っていたアイリーデだが、実際中に入ってみると古い街らしい不文律が目に付く。
彼らはそうして神話の時代から、お互いに緩やかな統制を敷いてきたのだろう。
街の問題は街の中で解決しながら、今までやってきたのだ。
まだ明け方とも言える時間、窓から見える通りにはほとんど人影がない。
行きかっているのは下働きの人間や職人たちくらいで、その中に女の姿が見える度、タセルは目を凝らさずにはいられなかった。
―――― こんなところに姉がいるはずがない。
王都からは馬で三日程とは言え、彼女は今までその王都から出たことはなかったのだ。
だがかといって、姉がまだ王都の何処かに潜んでいるのかと言えば、それも違う気がする。
ならば自分が探しているのは何なのか。
『虫の羽音が……』
ふっとその時、女の声が脳裏をよぎる。
上官の妻であり、古い妓館の主である巫の声。
あの時彼女は、一体何を聞いたのだろう。自分にはまったく聞こえなかった。
タセルは、目に見えぬ虫を探す気分で、また窓の外を見る。
その時―――― 向かいの妓館から女の悲鳴が響き渡った。
「っ、」
何を言う間もなく、タセルは座敷に置いてあった軍刀を掴む。
そのまま低い手すりを乗り越えて、軒から通りへと飛び降りた。真っ直ぐに悲鳴の聞こえた妓館へと駆けこもうとする。
しかしそれを、男の声が留めた。
「待て!」
背後からの鉄刃の声。
反射的に足を止めていなかったら、タセルの首は上からの衝撃で折れていたかもしれない。
目の前に、重い音を立てて人の体が降ってくる。
それはタセル同様、目の前の妓館の窓から落ちてきたものだ。だが彼とは違い、充分な受け身も取れないまま派手な音を立てて道に転がる。蹲ったままの浴衣姿の男に、タセルはあわてて駆け寄った。
「お、おい。大丈夫か?」
命に別状はないだろうが、骨くらいは折れたかもしれない。
そう思って手を伸ばしかけた彼は、しかし次の瞬間、反射的にその手を引いた。
指先を刃の切っ先が通り過ぎていく。
持っていた匕首でタセルの手を払った男は、素早く立ち上がると転がるように通りを駆けだした。逃げて行こうとするその男を追うかどうか、街の道に不慣れなタセルは一瞬逡巡する。
だがすぐに決断した。
「小官はあの男を! 貴君は中を頼む!」
「分かった」
揺るぎない鉄刃の返事に安心して、タセルは男の後を追う。
男はすぐに路地の角を曲がった。細い小路をよろめくようにして走っていく相手を、彼は全力で追う。
早朝の享楽街は、まるで皆が死に絶えたかのようだ。
普段は聞こえてくる楽の音も、人のざわめきも何もない。白み始めた空が照らし出す裏町は、まるで初めて見る場所のようで、タセルはただひたすら男の背中だけに集中していた。
だがすぐに彼は、おかしなことに気づく。
「なんだ……?」
視界の先を走っていく男は、見るからにふらふらと倒れそうな様子だ。
左右に揺れて、足がもつれて、いつ転ぶかも分からない。
だが、そんな状態にもかかわらず―――― タセルとの差は、少しずつ開いていくのだ。
軍靴を入って全力で走っている彼が遅いわけではない。相手が速いようにも見えない。
けれど、逃げる男の姿はみるみる小さくなっていく。
やがてその背は、入り組んだ小路の向こうへと消えた。
遅れて駆けてきたタセルは、いくつかの角や通りを覗きこむが男の姿はない。
まるで悪夢のような出来事に、彼は思わず呻いた。
「何なんだ、これは……」
その呟きに、答える者はいない。
彼は小さくかぶりを振ると、一体どの道を辿れば元の場所に戻れるのか……一人途方に暮れた。
※※
「え、何それ。それ本当の話?」
「君ならそう言うだろうと思った……」
太陽が真上を回ってまもない時間、シシュに連れられ月白に訪れたタセルは、がっくりと肩を落とした。
率直な感想を述べたサァリは、あわてて手を振る。
「そうじゃなくて、疑ってるとかじゃなくて、ただ夢でも見てたのかなあって」
「それは疑っているだろうが!」
思わず全力で抗議した彼は、我に返るとこっそり上官の様子を窺う。彼女を怒鳴ったことで不快にさせてしまったのかと思ったのだが、シシュは慣れきっているのか溜息をついただけだった。
何処か疲れた声で、上官は付け足す。
「そういう嘘をつく人間じゃないんだ」
「殿下」
「夢を現実と思いこまされている可能性はあるが」
「やっぱり」
「…………」
弁護されたと思ったらあんまりされていなかった。
だが「ふらふらと覚束ない足取りで逃げていく男に、いつの間にか引き離されて見失った」などと、誰が聞いても「夢でも見たのか」と失笑するだろう。ありのままを報告したタセルは、四阿のテーブルに突っ伏す。
月白の裏庭には、今は三人以外の人間はいない。
タセルの話は既に自警団や他には報告済みで、改めてサァリにということで連れてこられたのだ。
王都から来た彼からすると、先視も遠視も出来ない巫をそこまで重要視するのはこの街の不思議の一つだが、あえて異議を唱える気もない。火入れ前とあって浴衣姿のサァリは、細い首を傾いだ。
「それとも、あなたがすごく足が遅いとか」
「……人並みだと思う」
「試しにシシュと競争してみる?」
「信じてやってくれ、サァリーディ」
シシュの助け舟は、競争させられるのが嫌だというより、タセルの身体能力を知っているが故だろう。
だが男二人の疲れたような様子に、彼女は軽く眉を寄せた。
「二人とも、私が意地悪ばっか言うと思ってない? 単に、遅くさせられた可能性もあると思ってるんだけど」
「遅くさせられた?」
「意識出来ないまま弱体化されたっていうか。だって、引き離されてたなら相手が速かったかこっちが遅かったかのどっちかでしょう? あなたは強いて言えばどっちだと思う?」
「強いて……言えば」
問われてタセルは、朝方の出来事を思い返す。
自分に変調はあったのか。それを意識出来なかっただけではないか。
考えて、だが結論は「自分に変わりはなかった」だ。
「小官の移動距離と時間から言って、速度が著しく落ちていた、ということはない」
「あ、ちゃんとしてる。じゃあ相手が速かったんだ。速く確保しないと不味いね」
あっさりと頷くサァリの反応は、タセルにとっては拍子抜けだ。
シシュの方は彼女の切り替えに驚いた様子もなく続ける。
「残されていた娼妓曰く『急に人が変わったようになった。襲われたので悲鳴を上げた』だそうだ。巫の見た虫食い痕というのは、男の何処にあったんだ?」
「右耳の下。この辺り」
サァリは自分の白い首を指でつつく。染み一つない滑らかな肌は、まるで艶めかしい人形のようだ。
だがそれよりもタセルはその白さに、ふっとあの真白い少女のことを思い出す。
彼女はあれからちゃんと家に帰れているのだろうか―――― そんなことをぼんやり考えていた時、軽く指を弾く音がした。
我に返ると、サァリがじっと彼を見ている。
その青い目に、思考を読まれる気がしてタセルはうろたえた。
「何だ、君……」
「とにかく、その虫を捕まえたいの」
「虫……なんて実在するのか?」
「どうだろう。最悪、人間には見えなかったりして」
サァリはまた指を弾く。そこに白い飛沫が上がったように見えて、タセルは目を擦った。
彼女は隣に座る夫を見上げる。
「王都の事件だけど、見つかった遺体は女性と男性どっちが多い?」
「半々か、女性の方が少し多いくらいだな」
「じゃあ、同性同士で、ってのはある?」
タセルは軽く目を瞠るったが、シシュは驚きもせず即答した。
「一件ある。商家の娘と娼妓の恋人同士で、商家の娘だけが死体で発見された」
「ああ……やっぱり、精神作用の方なのかな」
「―――― 精神作用?」
彼女の言っていることが分からず、タセルは思わず声を上げる。
だが、サァリの意図が分からないのはシシュも同様だったらしい。彼はじっと妻を見下ろし、言った。
「説明してくれるか、サァリーディ」
夫の言葉を受けて、彼女は柔らかく微笑む。青い双眸がうっとりと細められた。
「ええ、旦那様。勿論お教えしますわ」
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