第128話 自由


 夜の空気は、窓の外ではなくむしろ閉ざされた部屋の中に立ち込めているようだ。

 淡い香の匂いは敷布に焚き染められたもので、だがそれも他の館と比べれば最低限のものであるらしい。

 だからシシュは、この微かな花の香をしばらくの間、妻の肌の香りだと思っていた。


 障子越しに差し込む月光が、銀の髪に艶を作る。

 妓館「月白」の主の間、客を迎えて開かれるその寝所に、神である女はしなやかな躰を寝そべらせていた。

 眠りに繋がる静謐の時間。甘い香りは時と共に変わっていくようだ。

 サァリは伏せていた顔だけを上げると、敷布の上に頬杖をついた。青い瞳が隣で横になっている夫を見る。

「シシュは、今回の事件をどう見る?」

 唐突な問いだが、彼女の言いたいことはすぐに分かった。シシュは、記憶の中から一通りの報告をさらい出す。

「何らかの共通原因はあるのだろうが、まだ取っ掛かりもないな。本当は餓死する前に助けられたらそれがいいんだが」

「今日見つかった娼妓がいたあの納屋は、外から施錠されてたりした?」

 何者かに監禁されていたのではないか、という確認に、シシュはかぶりを振った。

「いや、そもそも鍵がかかる仕組みじゃないんだ。それに、開けようとした形跡もなかった。むしろ―――― 」

 そこで彼は言葉を切る。


 形にならない違和感を、言葉にしようとする試み。

 だがそれをした瞬間、幾許かのものが零れ落ちてしまう気がする。


 けれど彼は迷った末、妻に伝えた。

「むしろ、隠れていたんじゃないかと思う。彼女の爪には自分の皮と肉が食い込んでいた。こう……ちょうど膝をきつく抱えていた体勢だ」

「隠れていた……」

 それが事実だとしたら、問題は「何から隠れていたのか」だ。

「すごく単純に考えると、相手はいなくなった片割れだよね」

「或いは、この事態を引き起こした第三者か」

「第三者かあ」

 ふわ、とサァリは小さく欠伸をする。

 夜は彼女の時間とは言え、夜更け過ぎにも程があるのだ。シシュは、そこまで思い至れなかった自分を反省すると、妻の髪を撫でた。

「そろそろ遅い。巫は眠った方がいい」

「まだあなたと話をしてるのに」

「明日でも話せる」

「死んだ人もそう思ってたかな?」

「…………」


 縁起でもない言葉だが、声音は澄んだものだ。

 まるで初めて出会った頃の少女のような、純粋な響き。

 妻のそんな側面に触れると、シシュは何も言えなくなる。黙り込んでしまった彼に、サァリはあわてて言い繕った。


「違うの。意地悪を言おうと思ったんじゃなくて、本当に、みんなそうじゃなかったかなあって。だって、仲がいい人同士がこうなったんでしょ?」

「……それは、そうだな」


 皆、連れ合いとの変わらない日々を、深い愛情を信じていたのだろう。

 それがある日、急変した。失われてしまった片翼に、行方をくらましたままのもう一人は何を思うのか。


 サァリはじっと己の神供を見つめる。

 その視線にシシュは少しだけ怯んだ。

「シシュは、私をどうしたい?」

「どうしたい、とは」

「何でもいいの。教えて。参考にしたいから」

「……何の」

「いいから!」

 ぐいぐいと迫ってくる女は、いつも通りの意味の分からなさだ。

 ある意味、その意味の分からなさに押し切られることが日常の彼は、べったりとしがみついてくる妻の背を軽く叩く。そうして発言権を取り戻すと、渋々返した。

「守りたいと思っている。大事にしようと」

「それだけ?」

「……無茶をさせたくない。とにかく月白で大人しくしていて欲しい。落ち着きがもうちょっとあると安心出来る」

「そういうのはいいから!」

「巫が何でもと言ったろう……」

 相変わらずのやり取りだが、シシュもいい加減慣れている。

 絡まってくる細い足に、彼は表情を変えないよう努力した。腕の中で溶けてしまいそうな柔らかな躰が、彼を抱きしめる。

「他には?」

「…………」

「シシュ」


 何を聞かれているかは分かるが、あまり言葉にしたくはない。

 したくはないが、それが彼女の知りたいことなのだろう。元は人であったシシュと違い、彼女は生まれながらにして人ではないのだ。


 諦めて溜息を一つ零すと、彼は口を開いた。

「触れたいと思う。髪を撫でるでも、肌を侵すのでも。……時々、自制が効かないほどの熱を覚える。独占欲が湧く」


 人であった頃から、彼女の客となった今まで、それは変わらないままだ。

 或いは変質しても残るこの熱情こそが、彼女に捧げられた男の証拠なのかもしれない。


 神である女は一瞬、目を瞠って……すぐに柔らかく微笑んだ。

「あんまりそう見えないのに」

「……巫に見せていい感情ではないと思っているからな」

「私は嬉しいけれど?」


 そんなことを言う彼女は、大方において人の欲に寛容だ。

 だが、だからと言ってそれに甘えきりになる気はない。シシュは精神への負荷を、息として吐きだした。


「それで、これが何の参考になるんだ?」

「うーん、『何』が変わったのかなって」

「何が?」

 意味が分からず聞き返すシシュに、サァリは頷いた。

 彼女はそうして床から上体を起こす。滑らかな躰が露わになり、下ろされた銀髪が肌の上を滑っていった。長い睫毛の下でけぶる瞳は、だが艶めかしさよりも神秘を思わせる。シシュは妻のそんな眼差しに見惚れた。

 何処とも知れぬ場所を見つめながら、彼女は口を開く。

「情の深い二人ばかりって、二つの可能性があると思うの」

「二つ?」

「つまり―――― その情を覆すことが目的か、それを利用することが目的か」


 覆すか、利用するか。

 考えられるのはその二つだ。

 つまり、悪辣が故に人の情に挑戦したか、或いはその強さに乗じたか。


 サァリは、白い指を弾いた。

「私は、後者だと思う」

「情を利用した方か。どうしてそう思う?」

「相手の勝率が高すぎるから。前者だとしたら、今まで負けなかった人間もきっといたはず」


 きっぱりとそう語る彼女は、人間の心を頭から信じているようだ。

 その強さも、弱さも、王都で生まれ享楽街で育った彼女は知っている。

 だから言うのだ――――「皆がいいようにされるわけではない」と。


 それは、神がまだ人を愛している証で……期待に応えねば、と身を正したくなる。そんなことを考えていたシシュを、彼女は微笑して振り返った。

「シシュがいるから、そう思ってるんだよ」

「俺が一体何を……」

「だってシシュだったら、絶対負けないでしょう?」


 情を試す悪辣に、自分なら負けて彼女を害するだろうか。

 その答えは考えるまでもない。あり得ないのだ。

 たとえ何があろうとも、彼女を最優先する。それが神供としての当然で、彼の思う誠実だ。

 月白の主が決して己の客を変えないように。シシュも己の心を違えることはないだろう。

 ―――― 同様に、見知らぬ人間たちもそうではなかったかと、彼女は言っているのだ。


「サァリーディ……」

「だから、シシュならどんな気持ちを変質させれば、私を殺せるかなって思って」

「その仮定はやめてくれ……」

「月白にいてくれた方がいいから、監禁してみようとか思う?」

「思わない。巫は自由であるべきだ」

「その割に小言が多いような……」

「それはそれ、これはこれだ」


 彼女を自由にしていては、毎日少しずつ寿命が縮まってしまう。

 それでなくても大人になった彼女は、周囲の目を惹いて魅了する艶やかな花そのものなのだ。道を歩いているだけで、その完成された美しさに男たちは振り返る。彼女のまばたき一つを、息を飲んで見入っている。

 いつからこうだったのか、ずっと彼女といたシシュにはよく分からないが、彼女の兄曰く「お前を迎えてからだろ」ということだ。

 それでも、「月白の主が客を変えない」ということはこの街の不文律の一つなので、今では街の住人たちも彼女に他の客を寄せ付けないよう、暗黙のうちに立ち回ってくれている。そうでなくては、シシュは本当に彼女へ「頼むから月白から出ないでくれ」と苦言する羽目になっていただろう。


 サァリはすらりとした自分の両足を抱える、

「そう言えば、シシュの後輩。面白い人だね」

「面白いか……? 真面目過ぎるきらいはあるが」

「シシュに真面目過ぎるって言われたら、もう人として生きていけないくらいじゃないかな」

「どういうことだ……」


 この言い方がそぐわないというなら、若さゆえの真っ直ぐさを失っていない、というところだろうか。

 サァリはふっと微笑して、同じ床にある夫を見た。


「でもあの人、妙に自分に自信があるから、悪い娼妓に引っかかりそう。弱い者とか放っておけないでしょう? で、女の演技とか見抜けないでしょう?」

「……一応注意はしておく」

「大丈夫だよ。今日、私と一緒にいるのを大体みんなが見たと思うもん」


 その意味するところは、「タセルは月白の賓客として遇されている」だ。

 そんな相手に質の悪い客引きをしかける者はそういないだろう。シシュは、「だから彼女はタセルを指名したのか」と今更ながら得心した。


「手間をかけさせてすまない」

「手間じゃなくて、当然の御礼だよ。この街を守るために動いてくれてるんだから、それくらいはしないと」

「役に立てればいいんだが」


 ―――― 何処か、尋常の事態ではないと予感が囁いているのだ。

 果たして普通の剣士にどうにかできるものなのか。手がかりと言える手がかりがない今、シシュ自身もあまり自信がない。


「そう言えば、サァリーディ。宵闇篭を張るように言ったそうだが」

「うん。実は、あそこに入ってった客のね、耳の下に虫食い痕があったんだ」

「虫食い痕?」

「そう。私にしか羽音が聞こえない虫の。……こう、耳の中を通り過ぎてくような音がするんだ」


 サァリの言うことは、分かるようでよく分からない。

 だがそこに紛れもない生理的嫌悪を感じ取って、シシュは自分も体を起こした。妻の顔を覗きこむ。


「その虫が原因か?」

「分からない。実物を見たわけじゃないから。だから、あの二人がいなくならないように見張っててもらおうかって」


 それが糸口の一つになるかもしれない。

 そしてそれ以外の糸口は、サァリとシシュが一つずつ手にしているものだ。

 シシュは、自分の分を口にした。


「問題の事件が王都からアイリーデに移ったのと同時期に、こちらに移動してきた人間の洗い出しも進めている」

「ありがとう。あとはあの遺体かな。王都では死体って解剖してた?」

「基本的にはしない。余程の変死であれば別だが、今回も全部をしたわけじゃないそうだ。一人二人解剖して、あとは同じ状態と判断し、全身の血液の有無を調べただけとか」

「なるほど。じゃあ、後で見てみる」


 餓死した娼妓の遺体は、今は月白の使われぬ一室に寝かされている。

 死化粧を施され、きちんと着物に着替えさせられた娼妓を、サァリは痛切をもって見つめていたが、いずれその死への清算が行われるのだろう。

 そしてこれは、彼女が望まない限り、彼の踏み込めぬ領分だ。


 黙って頷いたシシュに、彼女は淡く微笑む。


「ありがとう、シシュ。私を自由にさせてくれて」


 愛情と、純真を語る言葉。

 そうして彼女から贈られる口付けに、彼はまた気の遠くなる熱を覚えた。

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