第127話 宵街
長い歴史がそのまま形となって残っている街、アイリーデは、その街並みからして王都とはまるで違う。
古い軒先に提げられた灯り籠が通りの両側に並び、その間を遊び慣れた者たちが行き交う。夜を照らし出す朱と月光。幽玄さと華やかさを広げたような眺めに、タセルは思わず感嘆の息をついた。
だがすぐに、すぐ後ろを行く娼妓の耳を気にして口元を押さえる。
これ以上からかわれるのは御免だ―――― そう思った彼の耳に聞こえたのは、けれど穏やかな女の声だった。
「この街を『郷愁の街』と仰る方もいます」
「郷愁の街?」
聞き慣れない単語にタセルが聞き返すと、サァリはふわりと微笑した。
「ええ、わたくしなどは幼い頃からこの街を知っておりますから、よく分かりかねますが……どうやらこの街並は、人の想像する『幼き頃の記憶』を刺激するのだそうです」
まるで謎めいた言葉だ。
だがタセルは、その言葉を思考ではなく肌身に触れる空気として理解した。
子供だった頃、母に連れられて見に行った夜店の並ぶ縁日。
非日常が持つ夜の空気、ざわめく高揚が、確かに在りし日の記憶を誘ってくる。
だからこそ人は、焦燥に似たこの感覚を「郷愁」と呼ぶのだろう。
タセルは納得の息をつく。
「なるほど……確かにそう感じる気もする」
「ええ」
くすり、と小さく笑う声が聞え、彼は慌てて我に返った。
「だからと言って、それはそれ! これはこれだからな! 君のことを認めたわけじゃないぞ!」
「別に認められる必要はないんだけど。街の案内してるだけだし」
あっさりと口調を変えて返すサァリは、優美な娼妓というより稚気を隠さないただの少女だ。
古き妓館の主として、神話の一画を担う巫として、そして若き王弟の寵姫として、くるくると印象を変える様がまた不気味だ。どうしてシシュは彼女の本性を見抜けなかったのか、非常に残念に思う。
だが、そんなタセルの思いはともかく、大通りで突然叫んだ為に、周囲からは注目されてしまった。
その中には街の古い住人なのか、サァリに向かって声を荒げたことに対し、明らかな敵意の視線を向ける者も混ざっている。
―――― だがそれを、サァリ自身が軽く手を挙げて留めた。
さらりとしたそんな所作に、気配に疎い人間なら気づかなかっただろうが、タセルはすぐに察して気まずげに謝る。
「……申し訳ない」
「些末事ですよ」
淡く微笑む彼女は、同い年くらいにもかかわらず、まるで彼のことを年若い少年のように思っているようだ。
そのことは腹立たしくもあるが、今のところいいところは見せられていない。タセルは小さく息を吐いて気分を切り替えた。改めて彼女に確認する。
「君は巫だというが、ある程度怪しい気配を感知できるのか?」
「物によるかな……。今までは分かるものも分からないものもあったし、今回の原因がそのどっちかが分からないから」
「ああ、それは仕方ないな。―――― この街の化生は実体化するそうだが、いなくなった片割れが化生になったという可能性は?」
「ないと思う。人は化生にならないの。姿形が似てても別物だから。それに最近は、実体化出来るほどの化生もそんなにいないし」
サァリが客取りをする前後の事件で、この街に立ち込めていた化生の大本は、一度無に等しいほどに減らされたのだ。
だから今は、化生が実体化することは稀だ。ただアイリーデだけに見られる人の形をした化生が、他の街と同様、普通の人には視認できぬうっすらとした影となってあるだけだ。
彼女は軽く眉を寄せる。
「それより、見つかった人たちの死因が餓死って言う方が引っ掛かるなあ。王都での事件は全部そう?」
「ああ。他に外傷はないし、外観からしてそうだろうという医者の見立てだ」
「でも人は、一週間やそこらでは餓死しないよね? それまで普通に生きてたわけでしょう?」
そして死後にはその血液が失われている―――― 整理すればするほど、分からないことだらけだ。
サァリーディの指摘によって改めて事件の異常さを整理したタセルは、苦りきった顔になる。
「何が原因かは分からないが、必ず突き止める。いなくなった人も……」
失踪した姉も、必ず見つける。
そうでなければ何一つ飲みこめないままだ。
ともすれば空回りしそうな意志に歯軋りしかけたタセルは、けれど後ろを行く彼女が不意に足を止めたことに気づいて振り返る。
―――― サァリは、青い眼を細めて何もない路地の向こうを見ている。
その視線がまるで人のものではないかのように冷たく感じて、彼はぞっとした。
だがタセルは、己の感情を隠して問う。
「何か見つけたのか?」
「見つけた、というか……」
サァリは右手で耳を押さえると、小さな頭を振る。
何をしたいのかいまいち分からない女に、彼は歩み寄ろうとした。
けれどそれより先に、通りを歩いていた二人の酔客が彼女に声をかける。
「随分綺麗なお姫さんだなあ。何処の店の女だい」
「……月白のサァリと申します。どうぞよしなに」
ほんの一瞬の間を置いて、彼女は美しい笑顔を作る。
その変わり身の早さにタセルは呆れかけたが、それよりも焦りを覚えた。彼女の答えに気をよくした男が一人、サァリの頬に手を伸ばしたのだ。
「聞いたことのない店だ。呼び込みかい?」
「……っ、ちょ」
シシュからは、彼女を守るように言われているのだ。それを、よその男に絡まれているのをただ見ていたとあっては申し訳が立たない。
だがサァリは、先程周囲の人間を留めたように軽く手を挙げてタセルを制すると、男の手が触れる前にその手に白い月の簪を握らせた。艶やかな貝殻で作られた細工物の簪を、男は目を丸くして眺める。
自らの帯に挿していたそれを引き抜いた彼女は、にっこりと笑った。
「今は街の用事でここにおりますが、わたくしがおらずともそれをお持ちくだされば主の紹介と分かりますわ」
「そりゃ粋だねえ。何処にある店だい?」
「北の正統、と呼ばれております。この通りを北に行かれれば灯り籠が見えますので」
愛想よく笑って、サァリはタセルに目配せすると路地を曲がる。
男たちの興味はすっかり月の簪とまだ見ぬ店に変わったようだ。何もなかったように暗い道に入っていく彼女に、タセルは大股で追いつくと言った。
「……随分手際がいいんだな」
「それが仕事だし。あ、動いてくれてありがとう。あんまりしつこくされるようだったら手を借りなきゃいけなかった」
彼女の小さな溜息を、タセルは意外に思う。
「客商売なんだから客に手出しはするな、とか言うんじゃないのか」
「言わないよ。この街は基本的に、店と客は対等だから。お互い相手を尊重するものだし、そこを見誤れば不作法だって言われる。さすがに店によって色々基準は違うと思うけど、うちはそうだよ」
「娼妓が客を選ぶ店だからか」
「そう。だから私はシシュ以外の誰にも触らせない」
さらりとそう言う女は、微笑んだ中に揺るがぬ矜持を匂わせている。
たとえあの酔客に差し出した簪が、大粒の宝石をあしらった高価なものでも、彼女はそれを惜しんだりはしないのだろう。それよりも、夫の手に愛でられる自分の方が大事なのだ。
少なくともタセルはその情の強さを「理解しがたい」と感じた。
彼の感想が伝わったのか、サァリは小さく舌を出す。
「理解しようと思わない方がいいよ。王都とは文化が違うんだし。あなたもこの事件が終わったら王都に帰るんでしょ?」
「王都に……」
士官としての身分を返上して王都から姿を消したシシュと違い、タセルは今でも宮廷仕えの身のままだ。
だからこの事件が終わったら、またアイリーデを離れ元の通りの生活を送るのだろう。
だが――――
「……姉がな」
両親を十代半ばで亡くしたタセルは、今まで姉と共に叔父たちの本家に世話になっていた。
そうして姉が嫁いだなら、自分は城の宿舎にでも入ろうと思っていたのだ。
だが、あんな事件があった以上、王都でどんな生活に戻れるというのか、まだ想像がつかないままだ。
無言になったタセルに、サァリは視線を軽く投げただけで何も言わなかった。
代わりに彼女は、暗い路地の向こうを指差す。
「あっち……かな」
「何がだ。というか君は、暗い場所に行くなと言われていただろう」
「シシュの言いつけを完璧に守ろうとするのやめて!」
「君は捉えどころがなさすぎるな!」
シシュを尊重しているのか違うのか分からない彼女は、先程と同じようにまた右手で片耳を押さえる。
「何かね、虫の羽音みたいのが聞こえたんだよね」
「虫くらい何処にでもいるんじゃないか?」
「そうじゃなくて。だってあなたには聞こえなかったでしょう?」
「聞こえなかったけど……それがどうかしたのか」
彼女の言うことは、あちこちよく意味が分からない。サァリは伝わらなかったことに軽く眉を上げて返した。
「あんな嫌な音なのに、私にしか聞こえなかったってところが問題なの」
「君にしか……?」
サァリは勝手知ったる場所なのか、どんどん路地を進んでいく。
やがて二人は何にも会わないまま、大通りと平行に伸びるもう一本の通りへと出た。
サァリはきょろきょろと左右を見回す。
「困った。分からない……」
「何がしたいんだ君は……」
「しかもシシュ並に小言を言われるし」
「もう君は店に帰れ!」
思わず叫んでしまったタセルは、さっきの二の舞になったかとあわてて辺りを見た。
だが前よりも人通りが少ないせいか、誰も彼らには目を留めない。
ただ近くを歩いていた男と娼妓の二人組が、ちらりと彼らを見ただけだ。サァリは目の前を行きすぎる二人を無言で注視した。
仲睦まじげな様子で二人が店の一つに消えると、彼女はその店を見たままタセルに言う。
「―――― あのね、自警団に帰ったら化生斬りの誰かに『宵闇篭』を張るようにって伝えて」
「よいやみかご?」
「あの妓館の名前。ちょっと気になるから」
「あの二人がどうかしたのか?」
「ん……まだよく分からない」
サァリは軽くかぶりを振る。やっぱり捉えどころのないそんな反応に、タセルはすっきりしないものを感じたが、ややあって頷いた。
「分かった。じゃあ、君を送ってから自警団に戻る」
「ありがとう」
素直に頷くサァリは、通りを北の方角に戻りながら、もう一度宵闇篭を振り返った。そして軒先に提げられた灯り籠に向かって白い指を弾く。
何をしたのか、と思ったが、見る限り変わったところはない。
タセルは不審に思いながらも、彼女の気が変わらぬうちに月白に送還することにした。
その途中、先程も歩いた雑木林前の小道で、ふと出会った少女のことを思い出す。
「そういえば、この辺りに貴族か豪商の家はあったりするか?」
「ないよ。すぐそこから月白の土地だし。なんで?」
「いや、さっき白い鼬とその飼い主の少女に会ったんだ。送っていこうとしたところでさっきの死体を見つけた悲鳴が聞こえて、はぐれてしまったが……」
タセルが悲鳴に驚いて少女を下ろした際に、彼女はまた茂みの中に消えてしまったのだ。
あんな裸足で茂みの中を歩いて、生傷が増えてしまっただろう。家が分かるなら見舞いに行きたい。
見たところ仕立ての良い服を着ていた少女だ。真っ白な鼬を飼っている富裕層の令嬢など、二人といないに違いない。
だが予想に反して、サァリは首を捻った。
「白い鼬を飼ってるって、心当たりないなあ。犬を飼ってる娼妓なら割といるけど」
「何だ……そうなのか」
彼女が知らないのでは、他の人間にもまず分からないのだろう。
あの少女には二度と会えないかもしれない。―――― そう自分でも不思議なほどに落胆していることに気づいて、タセルは驚く。
気づくとサァリが、じっとそんな自分の横顔を見つめていた。
何もかもを見透かすような青い瞳に、彼はたじろぐ。
「どうかしたのか、君」
「ううん。あ、ここまででいいよ。もうすぐ月白だし」
「いや、君に何かあったらあの方に申し訳が立たないから駄目だ」
「そのあの方が来てるから大丈夫」
「え?」
言うなりサァリは道の先に向かって駆けだす。誰の姿も見えない夜の中に、だが彼女を待っていたように長身の人影が現れた。器用に草履で走っていったサァリは、その人影に飛びつく。
「シシュ!」
「遺体を運びがてら様子を見に来てみた。大丈夫か、サァリーディ?」
「平気。ありがとう」
嬉しそうに、白い両腕を夫の首に絡めて微笑む彼女は、変わらず美しいながらも先程までとはまったく違う雰囲気だ。やはり捉えどころがない。
だが、その姿が羨ましい程幸福に見えて―――― タセルは自分でも分からぬまま嘆息を飲みこんだのだ。
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