第126話 憐憫


「くそ……なんだあの娘は。いくら神供三家の当主だからと言って生意気な……」

 妓館「月白」からの帰り道、タセルは忌々しさを隠し切れず舌打ちした。

 そんなぼやきをアイリーデの人間に聞かれたなら眉を顰められるだろうが、月白があるのは街の北、静寂が広がる雑木林の中だ。

 月光が照らす夜道を行くタセルは、遠くから聞こえてくる弦楽の音に溜息をついた。


 王都で起きた不可思議な事件。

 彼の姉は、その犯人の一人ではないかと看做されているのだ。

 二つ年上の姉が、その許嫁と姿を消したのは、二人が婚姻の式を挙げる三日前のことだった。

 そしてそのまま、許嫁の男だけが変わり果てた姿で発見された。

 薄汚れた納屋の中で、ぼろぼろになった遺体を発見した時のことは、まだ記憶に鮮やかだ。

 富裕な商家の長子であった男は、まるで齢百歳を越えた老人のように痩せこけて干からびていた。

 その有様に何があったのか愕然としたタセルは、行方の知れないままの姉のことを―――― 一瞬疑ってしまったのだ。

 姉がどれほど男のことを想っていたか、よく知っていたというのに。


 ―――― 姉が犯人のはずがない。

 誰よりもタセルがそれを証明しなければならないのは、彼自身に対してだ。

 だから捜査から外された直後、王に懇願してアイリーデへとやって来た。

 神話の街と言われるこの享楽街で、かつての上官であったシシュに再会出来たのは予想外の幸運だったが……抜きんでた剣術と気質の清廉さで知られていた彼は、どうやら会わずにいた間に大分変わり果ててしまったらしい。ぞっとするほど美しくはあるが、毒のような娼妓を「妻」と言い出す始末だ。一時の熱病なのだろうとは思うが、このままでは王弟である彼の将来に障る。


「早く正気に戻って頂かなくては……」

 心が乱れれば、剣も鈍る。

 今の彼は、以前のような強さを持ち得ていないのだろう。

 だとしたら今回彼のやるべきことは、姉の無実を証明することだけではない。シシュを正道に戻らせることもまたそうだ。

 次第に近づいて来る繁華街の灯りを見やりながら、タセルは何度目かも分からぬ溜息をついた。


 ―――― 不意に脇の茂みから、がさりと音がする。


 反射的に軍刀に手をかけたと同時に、茂みの中から走り出たのは白い鼬のような生き物だ。

 鼬は道の真ん中で立ち止まると、じっとタセルを見上げる。緑石のような双眸が月光に煌めいた。

 タセルは息を止めてその目を見つめ返すと―――― 軍刀から離した手を伸ばす。

「お前、何処かの家の子か? いい毛艶だなあ」

 純白の毛並みからして誰かの飼い鼬だろう。相好を崩して抱き上げようとしたタセルは、しかし続けて茂みから出てきた少女を見てぎょっとした。

 薄い白布を何重にも重ねたドレス姿の少女。

 淡い金髪に緑石色の目の彼女は、よく出来た陶器人形のように美しい。

 表情のない眼差しが彼を見上げ……その目にタセルが見入っているうちに、白鼬は反対側の茂みに消えてしまった。

 少女はそれを見て、軽く眉を寄せる。


 おそらく彼女は、自分の鼬を追いかけてきたのだろう。

 自分のせいでそれを逃がしてしまったと気づき、タセルはうろたえた。

「す、すまない……」

 見ると少女は裸足のままだ。あんまりそうは見えないが、相当あわてて追いかけてきたらしい。

 草の葉や土で汚れた四肢を見て、タセルは少女に向かい身を屈めた。

「傷が出来てしまっているな……。君の鼬は私が探して来よう。家まで送っていく」

「………………」

「これ以上裸足で歩かない方がいい。触れても大丈夫か?」

 手を開いて確認すると、少女はこくりと頷く。

 タセルは彼女の体をそっと抱き上げた。まるで本当に人形のような軽さに驚きつつ、道の前後を見回す。

「家はどっちだ?」

 その言葉に少女が指を上げかけた時―――― 街の方から、絹を裂くような女の悲鳴が上がった。



         ※


 アイリーデの表通りから三本入ったところにある裏路地。

 そこにある古い物置小屋の前に、今は数人の人だかりが出来ていた。

 自警団員や化生斬り、そして組長たちが集まる小屋に、サァリは足を踏み入れる。

 暗い中に一歩踏み入った瞬間、むっと物の腐ったような匂いが鼻をついた。

 シシュが彼女に気づいて振り返る。

「サァリーディ」

「見せて」

 彼女の言葉に、シシュは頷くと一歩隣に避ける。


 ―――― そこにあるのは、既に事切れた女の死体だ。


 こうなる前は、美しい女だったのだろう。だが今は、古い着物一枚に身を包み、赤子のように腹を抱えて倒れている。

 その全身が乾いて骨と皮ばかりになっているのを、サァリは美しい顔を顰めて注視した。

 化生斬りの一人である鉄刃が説明する。


「普段は使われていない物置だ。そこにたまたま下女が物を取りに来て……彼女を見つけた」

「娼妓ですね。何処の店の者か分かりますか?」

「ワーズの店の娼妓らしい。数日前から行方が知れず、男と足抜けしたのだと思われていた」

「相手の男は?」

「行方が知れないままだ。同じ店の用心棒だった」

「王都での話と同じですね」

 サァリの言葉に、場に緊張が走る。

 何人かが小屋の外を振り返り―――― そこにいたタセルが、ぎり、と歯ぎしりした。

 連絡を受けて駆けつけてきたサァリは、死体の傍に膝をつくと白い手を伸ばす。形のよい指先が罅割れた女の頬に触れた。

「…………憐れな」

 紅も白粉も塗られていない顔は、剥き出しの女の姿だ。

 その貌に刻まれているのは深い嘆きで、死に際の女の苦悩を思わせる。頬に残る涙の痕にサァリは眉を曇らせた。

 神の小さな唇から、氷片の混ざる息が漏れる。

「サァリーディ」

「……大丈夫」


 怒りが、神の力を震わせる。

 神に捧げられた街、アイリーデ。

 この街の酒も芸楽も人肌も、全てがサァリのためのものだ。

 彼女が人を愛でるための、人の世に繋がれるための縁だ。

 それを誰が、何のために損なおうというのか。


 閉ざした瞼の下で、青眼がうっすらと光り始める。

 サァリは人ならざる存在を示すその昂ぶりを、数度の深呼吸で飲みこんだ。固い笑顔を作って立ち上がる。

「全ての店に通告を。もし関係のある者同士が二人一組で行方知れずになったのなら、すぐに皆に知らせて捜索するようにと」

「分かった」

 事態は後手に回ったままだが、相手が知れないのでは手の打ちようがない。

 今は皆に用心を呼び掛けるだけが精一杯だ。サァリはシシュに一歩近づくと囁いた。

「あと彼女の体、すぐには埋葬しないで。私に預からせて」

「……ああ」

 化生斬りとしては、シシュはもっとも後から来た人間だが、彼は彼女の客だ。

 そしてアイリーデで月白の主の客と言えば、周囲から一目置かれる存在でもある。

 ならばこれくらいの無理も通してくれるだろう。

 サァリは物置小屋から外に出つつ、ふとそこにいるタセルを見る。

 苦手なものを見るように顔を顰める青年に、彼女は嫣然と笑うと言った。

「これから街を見回ります。あなた、ついてきてくださるかしら」

「っ、何故小官が……」

「私とシシュが一緒に動くのは勿体ないから」


 この街の主である彼女と、その伴侶の男は共に人ではないものだ。

 その力は絶大で―――― 二人を一箇所に留めておくより、手分けをした方が効率がいい。


 サァリの考えを、シシュも理解したのだろう。タセルに救いを求める目を向けられた彼は、妻に向かって言った。

「腕は保証する。士官の中でも十の指に入る」

「なら安心かな。あなたと一緒の時ほどじゃないけど」

「俺は巫を走らせるからな……」

「それも好きだからいいんだけど」

 確かにシシュと見回りするとやたら街を駆けまわることになるのだが、それは腕のよしあしではなく要領とか性格とかそういう理由でだろう。

 臆面もなく惚気る彼女に、周囲は微笑や苦笑いを向けたが、タセルは目に見えて忌々しげな顔になった。

 何かを言いかける彼に、だがすかさずシシュの声が飛ぶ。

「タセル、彼女を守ることだけ考えてくれ」

「ですが、それは……」

「今のお前は、アイリーデの人間だ」


 ―――― であれば、彼女を守ることが最優先だ。

 シシュの言葉に、居並ぶ人間たちからの無言の同意がかかる。

 夜を継ぐ街の神秘と年月の重み。それが全身にのしかかるのを感じたタセルは、思わず言葉を飲みこんだ。


 シシュは、妻の方にも釘を差す。

「一回りだけだ、サァリーディ。それで月白に戻ると約束してくれ」

「約束します」

「あと、あまり暗い路地には入るな。人通りがあるところだけにしてくれ」

「……そんなところに犯人とかいないと思うんだけど」

「怪しい場所があったら自分で立ち入らずに先に俺を呼べ。おかしな人間についていくな」

「シシュ……」

 放っておけば「月白に戻っていてくれ」とまで言いそうな彼に、周囲からくすくすと笑いが漏れる。

 これ以上何かを言われては身動きが取れない。サァリはあわてて挨拶した。

「それでは皆様、どうかご用心を」

 軽く頭を下げて歩き出すと、数秒の間を置いてタセルが追いかけてくる。

 彼女の斜め前、近すぎず遠すぎない距離を保つ彼に、サァリは小さく微笑した。

「そこを右に曲がって」

 道を行き過ぎようとする彼にすかさずそう言うと、タセルは苦々しく呟く。

「どうして殿下は君のような女を……」

「あと、この街でシシュを殿下って言っちゃ駄目。一応伏せてるんだから」


 シシュは現王の腹違いの弟だが、今は完全に王都を引き払ってアイリーデの人間となっている。

 だがそんな彼を、自身の野心のために利用しようとする人間は後を絶たないのだ。

 誰かに聞かれて余計な揉め事になっても困るし、王弟である彼がサァリの客になっていると知られれば、芋蔓式に彼女自身が王都の貴族、ウェリローシア家の姫であると気づく人間がいるかもしれない。

 それはいささか面倒だ。平坦な声音の中にもサァリの真意を悟ったのか、タセルは渋々頷いた。


「分かった。配慮が足らなかった」

「……意外に素直。ちょっと吃驚」

「あの方は何で君のような人間を選んだんだ……」

「シシュがシシュだから?」


 何故彼がサァリを選んだのか。その答えは「彼が彼であるから」しかない。

 実直で誠実。だからこそ在り方のまるで違う彼女を、あるがままに受け止めた。

 ―――― その真摯にサァリは焦がれたのだ。


 あっさりと即答した彼女を、タセルは嫌そうに一瞥する。

 そして聞き逃しそうなほど小声で言った。

「……分かる」

「あ、分かる? 分かってくれる? 他にいないよね、あんな人」

「分かるけど君には勿体ないお方だ!」

「でも私のですし、あげませんし、返しません」

「こんな性の悪い娼妓に捕まって……」

「シシュがそれでいいって言ったもん。文句を言われる筋合いないもん」

「何なんだ、この街は……」

「煩い。そこ右に曲がって」

 心底嫌そうな青年に指示して、サァリはアイリーデを歩き出す。

 その行く先は月光に照らされ―――― だが見通せない闇もまた広がっていた。

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