異聞譚【比翼連理】
第125話 宣告
かつてこの大陸に、一人の神が呼ばれた。
太陽を飲み下さんとした蛇を殺すために、王の声に応えて呼ばれた彼女。
美しき月の神は、蛇殺しの対価として三つのものを求めた。
一つは美酒。
一つは芸楽。
そして最後の一つは――
※
月光が等しく降り注ぐ雲一つない夜。
その美しい白光の下で、日の入りと共に息づく街がある。
通りには幽玄を湛える灯り籠が並び、軒下の格子の下から艶やかな娼妓が客を手招く。
何処からともなく聞こえてくる弦の音。細い笛の響きがまだ見ぬ夢を囁いた。
古き時代より、ただ一つ変わらず残る処。
神に捧げられたこの街の名はアイリーデ。
其は、神話を継ぐ享楽街である。
白い指が、灯り籠に火を入れる。
夜の始まりを告げる淡い光に、妓館の若き主であるサァリーディはふっと微笑んだ。
綺麗に結い上げた銀髪に青い双眸。小さな貌の造作は息を飲むほどの類稀さだ。
白い着物に黒い帯という色のない装いも、彼女の美貌によって月光の如き華やかさを得る。
そこだけ赤く塗られた艶やかな唇が、露に塗れた花弁を思わせて言を紡いだ。
「おかえりなさい、シシュ」
うっとりとした笑顔で彼女が迎えたのは、自警団の制服を着た男だ。
黒髪黒眼の端正な顔立ちをした彼は、普段通り少し眉根を寄せて彼女に言う。
「悪いが、帰ってきたわけじゃないんだ」
「だろうね。だって早すぎるし。まだ火入れしたばっかりだよ」
あっさりと頷くサァリは、既に館主の顔ではなく素の彼女だ。
初めて出会った頃の少女を思わせる無邪気さで、彼女はシシュの後ろに視線を送る。
「それで、ご用向きはその方のこと?」
「ああ。―――― タセル」
名を呼ばれて、彼の後ろにいた人物が歩み出る。
年の頃は十八かそこらだろう。くすんだ金髪に、幼さが僅かに残る顔立ちをした彼は、黙ってサァリに頭を下げた。
シシュと同じく、自警団の制服を着て軍刀を佩いた青年に、サァリは小首を傾げる。
「新入りの方? 化生斬りじゃないみたいだけど」
人ならざる怪異であり、人を狂わせ害する「化生」。
それらを視認し斬る者たちは化生斬りと呼ばれるが、この街の化生斬りは皆、それと分かる飾り紐を刀につけている。シシュが刀に結わえている黒水晶もその一つだ。
だが、タセルという青年が持つ軍刀にはそれがない。
普通の自警団員が何故自分のところに連れてこられるのか。分からないでいるサァリに、シシュは補足した。
「とりあえずは自警団所属だ。化生斬りの能力もあるんだが、見習い状態だな」
「その辺りは私の不可侵領域だから好きにして。王都からいらした方?」
「ああ。士官学校時代の後輩だった」
その答えにサァリは得心する。
つまりはシシュの個人的な知り合いで、この街の流儀に馴染みのない新人なのだ。
だからこそアイリーデの正統三家の一つ、妓館「月白」に連れてこられたのだろう。
けれど納得するサァリとは反対に、タセルはむしろ警戒を面に出した。
「失礼ですが、どうして小官が王都から来たと分かるのです?」
「そういうところが。昔のシシュに似てるし」
即答で返すと青年はむっと表情を変える。
分かりやすい表情の変化に、サァリはにっこりと笑った。
シシュが苦い顔で苦言を呈する。
「サァリーディ、からかわないでやってくれ。タセルもやめろ」
「ですが、いくらこの街の有力者の一人といっても、殿下に対しあまりに無礼では―――― 」
「彼女は俺の妻だ」
「……は?」
その時のタセルの表情は、なかなかに見物だった。
シシュを「殿下」と呼ぶということは、彼の本来の身分を知っているのだろう。
あんぐりと口を開け、次に青ざめていく顔色をサァリは楽しく見守る。
わなわなと肩を震わせ、タセルは彼女を見た。
「娼妓が妻などと……正気なのですか」
「タセル」
苦虫を潰しきったようなシシュの表情に、「不味い」と思ったのはサァリの方だ。
生真面目な彼女の夫は、サァリへの誹謗を非常に嫌う。彼女自身が構わないと思っても、彼女の真の姿を知っている彼は腹を立ててしまうのだ。
だから彼女は、あえて白々とした笑顔で二人の間に割って入ると、シシュの腕に自分の両腕をからめた。
「本当です。もう手遅れですから、諦めなさい」
「ッ、失礼だが貴女はその方がどなたであるのか分かっているのですか!」
「分かっております。私のです」
「サァリーディ……油を注ぐな……」
「その手を離せ、貴様!」
「嫌です。あまり煩いと氷漬けにいたしますよ」
わあわあと混乱する玄関先に、様子を見に来た下女がうろたえる。
―――― 本当は別の用事で来たにもかかわらず、顔合わせから躓いてしまった。
一向に進まない話に、シシュが大きな溜息をつく。
アイリーデでもっとも古く正統な歴史を持つ妓館「月白」、その門前におおよそ似つかわしくない騒ぎに灯り籠の火も揺らいだ。
※
「干からびた死体?」
完全に頭に血が上ったタセルを帰し、月白の裏手にある四阿に場所を移したシシュは、妻の言葉に頷いた。夜の静寂の中、月光だけが草木を照らす庭を彼は見つめる。
「王都でここのところの三ヶ月で十三件、似た事件が起こってる。行方不明になったと思ったら、一週間後死体で発見される」
「死因は?」
「直接的には餓死。ただ、体内からごっそり血液が失われてる」
「……それは失血死じゃなくて?」
「違う。医者の見立てでは死んだ後に血が失くなったんだという」
―――― 不可解な話だ。
サァリは自分で入れた冷茶を飲みながら思考を転がす。
死後に血が失われたということは、何らかの病にかかったということだろうか。
考えこむサァリに、シシュは苦々しく続けた。
「まだ続きはあるんだ」
「続き?」
「ああ。これらの事件、毎回二人ずつが行方不明になっている。夫婦だったり恋人だったり親しい間柄の二人が一対でだ。そして、その内一人だけが死体となって発見される」
「もう一人は?」
「行方不明のままだ」
「それは、そのもう一人がとっても怪しいよね」
「まあ、そうだな」
二人が行方不明になって一人が死ねば、単純に考えれば残る一人が犯人だ。
だが、シシュの返事の仕方からして彼はそう思っていないのだろう。
サァリは黙って夫の答えを待った。
彼は、冷茶を飲み干すと苦い声で語り始める。
「これは、完全に私見だが、いなくなったままの人間が犯人ということはないと思う」
「どうしてそう思うの?」
「行方不明になっているのは、いずれも情の深さで周囲に知られている間柄の人間ばかりだった。何があったかは分からないが、そんな二人が皆、自分の相手を殺す決断をするとは思えない」
「愛情が深いからこそ、人を殺すこともあるよ」
「だとしてもだ。本当にそうだとしたら、後ろでそうなるように糸を引いている人間がいるということだろう」
―――― その誰かが犯人だ、とシシュは考えているのだろう。
確かに、そうとでも考えなければ十三件という件数は異常だ。
一件や二件なら愛情のもつれということも考えられるが、揃って同じような状況は説明がつかない。
サァリは白い指を顎にかける。
「さっきの人は、王都でこの事件の捜査に関わっていた?」
「ああ。だが途中で外された。姉が行方不明になって、その許嫁が死体で発見されたからだ」
「それはさぞ業腹でしょう。で、アイリーデに来たのは、その怪事件がこっちにも発生したから?」
さらりと切り込む彼女に、シシュは一瞬沈黙する。
端正な彼の顔に深刻な憂いが落ちるのを、サァリはじっと見つめた。
シシュの溜息が、石のテーブルに落ちる。
「先週のことだ。化生の仕業ではないと思ったから、巫には報告がいかなかったんだろう。だが昨日、似た事件がまた起きた」
巫、と彼が呼ぶのは、それがサァリの役割を示す呼び名だからだ。
アイリーデにただ一人存在する巫、化生斬りと化生を繋ぐ特殊な力を持つ者。
化生斬りからの要請を受けて動く巫は、それ絡みの事件があれば知らされるが、些末な事件まで連絡されるわけではない。
結果として、だからこそ後手に回ってしまったかもと言える状況でシシュは重い溜息をつく。
「こちらの不手際だ。タセルがアイリーデに来たのは本人の希望だが、それはそれとして、これ以上犠牲を許すつもりはない」
「でも相手の正体が知れないよ」
「関係ない」
きっぱりと言い切る彼は、自身の力を以てこの一件に乗り出すつもりなのだろう。
頷きながらもちりちりとした不安を振り払えずに、サァリは言った。
「無理しないで。なんか気持ちの悪い話だし。何かあったらすぐに言ってね」
「巫を煩わせることはしない」
「煩わせて。そうして欲しいの」
艶やかに、だが切実に。
念を押すと、彼は困ったように押し黙る。
だが、今までの事件の数々で身に染みたこともあったのだろう。そう長い時間を置くことなくシシュは頷いた。
「分かった。何かあったらすぐ知らせる」
「あと心配だから、片付くまでは毎晩通って」
「……………………分かった」
生涯で只一人しか客を取らない月白の主とその客の男は、実質の夫婦ではあるが、共に暮らしているわけではない。
あくまでも対外的には娼妓と客であって、普段は自警団の宿舎にいる彼は、幾分困ったように首肯した。
誰よりも情が深いにもかかわらず、生真面目な性格のせいでそんな反応を見せる連れ合いを、サァリはじっと見つめる。
少女のような悪戯心を思わせる目。かつてはよく向けられたそんな視線にシシュはたじろいだ。
「なんだ、サァリーディ……また俺はおかしいことを言ったか?」
「ううん、全然。ただシシュは人の情を信じてるんだなあって」
愛情が人を殺す、と思う人間は多いだろう。
だが彼は、それをまず否と考える。そう思えるのは、彼自身の性向が故だ。
サァリが愛した、日の光の下で生きる男。たとえ存在が変質してもその心が変わらぬままであることに、彼女は微笑する。
妻の言葉にシシュは、怪訝そうに返した。
「別に当たり前のことだと思うが」
「そうかなあ。たとえばシシュだったらどう?」
「考えるまでもない。巫を傷つけることはしない」
たとえ何があっても、と。
彼は言う。事実シシュはそう在れるだけの強さを持っている。
彼はそこでふっと息をつくと、立ち上がってサァリの髪を撫でた。
「そんな訳で見回りに行ってくる。仕事中に邪魔して済まなかった」
「全然。あなたの相手をするのが私の仕事でもあるんだし」
けろりと返すと、彼はまた苦い顔になる。
からかわれたと思ったのだろう。サァリは彼の袖を引いて顔を寄せさせると、その頬に口付けた。
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
「…………巫が眠るまでには帰る」
赤面した顔を隠すように裏門から出ていく彼を、サァリは微笑んで見送る。
そうして月光の差す夜の庭に一人きりになると、彼女はその微笑に一滴の苦味を乗せた。
「私は一度あなたを殺しちゃったからな……」
愛情を以て、人で在った彼を殺した。
そうやって自分と同じものにしたのだ。「殺したくなかった」と嘆きながら。
だから、今回の事件に近づけるのも、ひょっとしたら彼よりも自分の方かもしれない。
サァリはそんな予感に駆られて夜空を仰ぐと……凄絶に笑った。
「私の街で何かをしようというなら、此処まで来るがいい。―――― 千々に引き裂いてやる」
己の怒りに触れた不遜を思い知れと、若き神は笑う。
それは忌まわしき事件の始まりを意味する、冷ややかな宣告だった。
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