第124話 碧眼


 三弦の音が何処からともなく聞こえてくる。

 淀みのない夢幻の音色はおそらくミディドリスのものだろう。この街に来て二年、それくらいは聞き分けられるようになった。

 夕暮れ時、アイリーデの大通りを見回っているシシュは紫色に染まった空を仰ぐ。

 古い妓館の二階には、ぼんやりではあるが小さな灯りがともりつつあった。客を迎える時間が迫っているのだろう。低い木の欄干に寄りかかって通りを見下ろしている娼妓もいる。

 ゆったりと色付いた空気は同じ色街でも王都のそれとは違って、古くから続く神代の気配を行き交う人々に感じさせていた。

 そのような中、黒い影が混ざっていないか注意を払っていた青年は、少し先の窓から視線を感じて目を留める。

 アイリーデには珍しい出格子の妓館、その格子の向こうに座す一人の娼妓が、赤い唇に笑みを湛えまっすぐに彼を見ていた。

 結われずに下ろされた赤い髪が、紅の着物と合わさって歪な印象を受ける。

「こんばんは」

 低く、掠れかけた声は、よく響いてシシュの耳にまで届く。

 年は二十代半ばだろう。美しい容姿はだが、疲れ果てた少女のようにも、夢を隠し持つ媼のようにも見えた。

 彼女は青年の視線を捕えて華やかに微笑む。

「こんばんは、お客さん。わたくしを買いませんか」

 そのような誘いの言葉は、アイリーデでは珍しいものではない。

 だがシシュはむしろそれを聞いて、「アイリーデに来て日が浅い人間なのだろう」と判断した。予想通り、すぐに奥から出てきた娼妓が彼女を留める。

「おやめ、あの兄さんは仕事中だよ」

「あら、知ってますわ。自警団の方でしょう? 今が駄目でも構いませんわ。約束だけでも」

 笑って取り合わない女に、年上の娼妓は鼻白んだが、シシュはむしろ苦笑しただけだった。

 アイリーデで商売をしている人間は、ほとんどが化生斬りの顔を知っている。

 そして妓館に関わる者であれば、別の意味でも彼のことを知っているはずなのだ。

 それを知らないのなら、この街の流儀をまだろくに教えてもらえていないのだろう。自身もそうだったシシュは、女のいる出格子の前で足を止めると端的に返した。

「申し訳ないが、あなたを買う気はない」

 言われて彼女は、緑色の眼を丸くする。

 澄んで深い森のような色の目に、シシュは瞬間、軽く息を止めた。

 違和感が形のある何かになる前に、後ろの娼妓が彼に向かって肩を竦める。

「悪いね。王都から来たばかりの娘でさ」

「構わない。俺もそうだった」

「月白さんによろしく言っといてよ」

 追従というよりも単にあけすけな挨拶に、シシュは軽く会釈してその場を離れた。

 人が増えて行く大通り、十数歩行ったところで彼はまた視線を感じて振り返る。

 彼女はまだ紅い唇で微笑んで、シシュを見つめていた。




 彼の妻に向けられる呼び名は、種々雑多だ。

「月白さん」「嬢さん」「おひめさん」「巫嬢」など、取り留めない呼び方の全ては、この街唯一の女に向けてのものだ。

 見回りから帰った深夜、店の仕事を終えて離れに戻って来た彼女は、一足先に帰っていたシシュを見つけて顔を綻ばす。

「おかえりなさい!」

「それは俺が言うべきことじゃないだろうか」

「いいの。言いたいだけだから。それよりシシュ、お風呂まだでしょ。一緒に入ろ」

「一緒には入らない……」

「入ろう」

 にっこりと笑う美しい女は、だが笑顔の裏に有無を言わせない迫力を漂わせている。

 髪を下さずにいることといい、これは何かあると思っていいだろう。単に逃げ出されない場として浴室が選ばれているだけかもしれない。

 そこまでを考えたシシュは、苦い顔で提案し返した。

「服を着たままでいいなら……」

「何それ」

 当然却下された。




 離れの二階にある浴室は元々彼女個人のための小さなものだ。

 主の間まで行けばこの倍の広さはあるのだが、今の二人が館の部屋を使うことはほとんどない。

 湯船の中で手足を伸ばすシシュは、向かいの縁に座る妻を見上げた。彼の希望を汲んで襦袢姿のサァリは先程から細い足で湯をかいている。湿気を含んだ布越しに透けて見える肢体が、忌まわしい程に艶めかしかった。

 澄んだ水を思わせる青い双眸が不審げに、夫である彼へと向けられる。

「なんかさっき、シシュのことで『無礼を働いた』って謝まられたんだけど。何それ」

「ああ……」

 どうやら彼が帰るより先に、例の妓館からサァリに一言あったらしい。

 アイリーデのそのような対応は店によって異なるが、えてして古い店ほど正統を貴ぶ。

 彼らからすると、月白の主の客をよそから来たばかりの女が誘うなどということは、あってはならないことなのだろう。

 シシュは例の娼妓を気の毒に思いながら、夕方あったことを説明した。

 全てを聞き終わったサァリは細い首を傾げる。

「それだけ?」

「それだけだ」

「そんなの別に謝らなくてもいいのに」

「とは思うが。巫が時々根深いからだろう」

「根深いって何」

「…………」

 失言は、大体してしまってから気付く。言った時には遅い。サァリの視線は既に、矢を番えた弓のように彼へと狙いを定めていた。

 彼女は腰を上げると、湯船の中に立ち上がる。今まで膝のすぐ下までまくり上げられていた裾が湯の中へと落ちた。

「私が根深いって、シシュが思っているの?」

「……この場合は、街の人間がどう思っているかじゃないだろうか」

「私はシシュについて聞いてるんだけど。その人、綺麗だった?」

「どうして質問が二つになるんだ。標準以上の容姿はしていたと思う」

 答えている間にも、湯船の温度が瞬く間に低下していく。しまいに、ぴきぴきと音を立てて表面に薄氷が張り始めるのを見て、シシュは思わず溜息をついた。目の前に漂ってきた氷塊を手で払う。

「サァリ―ディ……言っておくが、他の人間にこれをやると死ぬ」

「シシュにしかやらないもん」

 ふてくされた顔でそう言うと、彼女は襦袢を着たまま湯船にしゃがみこんだ。くるりと彼に背を向けると、その背を無造作に預けてくる。

 咄嗟にシシュは彼女の頭が冷水に落ちないよう、ほっそりとした体ごと引き取って抱え込んだ。水の中に白い裾がたなびく。

「風邪を引くぞ、サァリーディ」

 今は下ろされている銀髪は、一房ずつが柔らかな月光のようだ。シシュは妻の濡れた髪を引き寄せると、耳の上から丁寧に撫でていった。

 薄い肩が、伸ばされて見える肢が、ありのままに彼の気を引く。抱き寄せた躰はほっそりとして柔らかく、それでいて大輪の氷華のような存在感があった。

 濡れて冷えた白い手が、彼の指を掴む。

「それで? 続きは?」

「特にない。全部話した」

「嘘」

 短い断言を投げて、サァリはくるりと身を返す。薄青く光る双眸が至近からシシュを見つめた。

「まだ言いたいことあるでしょう。隠しても分かるんだから」

「……いや」

「ここだけの話にするから! 誰にも言わないから!」

 勘はいいのだが、いつも通りどこかおかしい。

 べったりとすりつきながら「教えて」と繰り返す妻に、シシュは観念して両手を上げた。誰にも言うべきではないと思ったことを口にする。

「その、話の娼妓だが」

「うん」

「人を殺していそうな目をしていた」



 深い森の緑色。

 そこに潜むものは、傾いた意思だ。

 ただの娼妓のものではない。川向うへと渡ってしまった意思。

 そしておそらく彼女は―――― 己の「それ」に気づいていないのだ。



 言語化しにくい話だ。

 だがサァリには伝わったのだろう。青い目がゆっくりと細められる。

 彼女は嫣然と微笑うと、シシュの頬に口づけた。

「なら、私が気をつけとく。あ、シシュはもう構わなくていいからね」

「だが……」

「いいから。構うなら私を構って」

 濡れた両手が彼の顔に触れる。小さな膝頭が彼の上に乗る。

 目を閉じて、己の全てを傾けて情を請う女に、シシュは酩酊に似た気分を覚え、細い躰をかき抱いた。

 ―――― 件の娼妓が街から姿を消したのは、その四日後のことだった。




 シシュがその話を知ったのは、彼女が消えて更に二週間が経ってからのことだ。

 他の自警団員から聞いてすぐ月白に戻った青年は、上り口にいた妻に問う。

「何かしたのか?」

「唐突に何の話」

 きょとんとしたサァリはけれど、詳しい話を聞くと「ああ」と苦笑した。

「いなくなったの? そうなんだ」

「何かしたのか?」

「何も。ただ格子越しにじっと見て言っただけ。知ってるよ、って」

「…………ああ」

 その場を見た訳ではないシシュにも、容易に想像出来る。

 例の娼妓はきっと、何もかも見透かすサァリの目を、ただひたすらに恐れたのだ。

 これが普通の娼妓であったなら、サァリの言葉を単なる嫉妬からの釘刺しと捉えただろう。

 けれど彼女はきっと、本能から恐れた。己の異常を知らないがゆえに、神の視線から逃れるしか方法がなかった。

 直すことも変わることも出来なかったのだ。

 訳が分からないままこの街から逃げ出したであろう女に、シシュは小さく嘆息する。

「そうか」

「もっとはっきり決着をつけた方がよかった?」

「いや……」

 この街から逃れた彼女がどうなるのか。

 王都に戻り、そこでまた問題を起こす可能性もあるだろう。

 だがシシュはそれよりも―――― サァリの目を忘れられない可能性の方が高い、と思った。

 おそらく一生女は、この青い双眸に苛まれることだろう。本能に刻み付けられた恐怖は容易くは拭えない。

 彼女が彼女である限り畏れはついてくる。そうなるように、サァリは意識したはずだ。




 シシュは改めて、妻である女の碧眼を見返す。

「……いいと思う。一生の枷になるだろう」

「うん。私は根深いしね」

「まだ根に持ってるのか……。別に根深くてもいいと思う」

「シシュ、こういう時『根深くない』って言ってくれないよね。『自分は気にしない』って言うよね」

「巫のそれは、情が深い証拠だろう……」

 言いながらも、何だか分が悪くなる予感がして、シシュはさりげなく見回りに戻ろうとした。

 しかしすかさず、三和土に下りてきたサァリがその腕を掴む。

「シシュ、逃げようとしてない? してるよね。お話があります」

「見回りに行くだけだ。夜には戻る」

「ちょっと一緒にお風呂に入りましょう。聞きたいことがあるから」

「風呂は膝詰談判の場所じゃない……」

 何とか間を開けて落ち着かせようとするも、彼女は青い目を煌めかせて食い下がって来る。こういう時に限って他の客も来ない。非常に分が悪い。

 右腕に女をぶら下げたシシュは言い訳を試みる。

「俺の言い方が悪かった。巫のそういうところ、俺は別に構わないと思う」

「それ何にも変わってないから!」

 性格に難のある女は、ますますむきになって食い下がって来る。

 墓穴を掘り続ける青年と、執念深い娼妓。

 仲睦まじい一対である二人の日常は、おおむねこのようなものである。

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