第123話 毒妃
夜の女であるサァリは、あまり朝が強い方ではない。
本来であれば、夜更け過ぎに寝て昼過ぎに起きてくるのだから、当然といえば当然だ。
だからシシュが客として泊まるようになってから、彼女は早朝しばしば眠い目をこすって―――― けれど起きられずにいる日も多かったのだ。
その彼女がうとうととしながらも浴衣姿で見送りに出てくれた朝、シシュは顔が緩みそうになるのを抑えきれずにいた。
銀髪を下したサァリは、先程までシシュが着ていた男物の浴衣を、紺色の細帯でずるずると上げて着ている。袖も裾も余らせている上に、肩が落ちそうなその姿は、童女のようにあどけなく、だが見えている肌のせいで忌まわしい程に女であった。
他に客がいない朝のせいか、門のすぐ内側までついてきたサァリは、袖の中の手を彼の顔に伸ばす。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「ああ」
「今夜は帰って来てくれる?」
彼女に背伸びしてそうねだられると、否とは言えない。
シシュが頷くと、サァリは嬉しそうに飛び跳ねた。見回りに出ていく彼を、大きく腕を振って見送る。
―――― そんなやり取りを聞かれたわけではないだろうが、久しぶりに出くわした化生斬りの第一声は、呆れたような忠告だった。
「あんまり娼妓に溺れるなよ。毒されるぞ」
タギはそう言って、大きく欠伸をした。
昼も大分回った時間、大通りを行く二人の化生斬りは、外見からして正反対だ。自警団の制服をきっちり着込んだシシュは、着物をだらしなく崩した男を見上げる。
「娼妓に? サァリーディのことか?」
「他に誰がいるんだよ」
「いや、あまり言われた意味にそぐわないと思って……」
サァリは確かに娼妓ではあるが、彼一人しか客を取らない女だ。おまけに彼は神供とあって、必要最低限にしか花代を収めていない。
彼女自身も、癖はあるが毒とは思えない性格だ。にもかかわらず普通の客のような注意を受けて、シシュは怪訝に思った。
タギはしかし、その反応に呆れた顔になる。
「阿呆か。そんなこと思ってる辺り、もうかなりやばいぞ。お嬢はあれ、筋金入りの娼妓だからな。生娘だったからなんて油断してると骨抜きにされる」
「……別に油断はしてないが」
月白に泊まるようになった今と昔と、何が違う訳でもない。
ただ帰り際になると彼女が淋しそうな顔をするから、次の夜を約束する。その繰り返しだ。
改めて振り返ると一週間くらい宿舎に帰っていない気もするが、別に油断はしていない。
「してない……と、思う」
「へー」
まったく賛同していない相槌に、シシュは反射的に抗弁したくなった。
だが……ここ最近の自分の所業を振り返ると、確かに妓館に入り浸っている。客観的に見て駄目人間だ。サァリが今日起きて見送りに出てくれたのも、彼がいる夜が続きすぎて体が朝型になってきただけのことなのかもしれない。
振り返れば振り返るほど色々心当たりがある青年は、無言になって考え込み始めた。その横顔をタギは面白そうに眺める。
長身の男は、空を飛んでいく黒い鳥に気づくと、声を上げた。
「お、鳥型か」
「追う」
蛇がいなくなったアイリーデでは、化生が実体化することはなくなった。
それでも、見ることが出来る者には見え、見えない者でも精神に影響を受ける。人型以外の化生も現れるようになったが、夜の人混みなどでは黒い影で出来た娼妓を見ることもあった。
これら化生の出現が、人の気が濃い享楽街がゆえのことか、神の存在に引かれてのものかは分からない。
シシュは空を飛ぶ影を追いながら、左手に小さな氷の針を生む。後ろを走ってくるタギに気をつけつつ、角を曲がりざま、化生に向けて針を投擲した。
神の針は、宙をまっすぐに貫くと鳥の影を射抜く。
「お、もうやったのか?」
「ああ」
―――― 広い地下室で二柱の神と戦って以来、力を全開に使ったことはない。
だが、その分加減は出来るようになった。シシュは冷え切ってしまった指先を手袋の中でこすると、タギを促して大通りに戻る。
よく晴れた青空の下、アイリーデは今日も平穏だった。
自分が駄目人間であることには気付いたが、約束した以上月白に顔を出さない訳にはいかない。
夜更け過ぎに半月の灯籠の隣に立ったシシュは、屈託のない主の笑顔に迎えられ、表情に困ってしまった。三和土にまで降りてきたサァリは、いつものように彼の袖を引く。
「おかえりなさい! 先にご飯にする?」
「いや……」
そもそも冷静に考えれば娼妓に「いってらっしゃい」と送り出されて「おかえりなさい」と言われるのもおかしい。
「明らかに駄目人間だ……」
「? どうしたの? ご飯は? お風呂にする?」
「今日は茶だけで」
「え? 何それ」
訝しげな青い瞳が、じっとシシュに向けられる。
それは彼に、罪悪感に似た感情を抱かせた。久しぶりの気不味さを飲みこんで青年は頷く。
「今夜は茶を飲んだら帰る。サァリーディにあまり無理をさせても不味いからな」
「無理してないよ」
「……さすがに入り浸り過ぎだろう」
「何か問題あるの?」
当然のように聞き返され、シシュは返す言葉に詰まった。
以前から分かっていたことだが、彼女と彼自身との間には、大分常識に乖離があるのだ。どうやってそこを譲ってもらうか、シシュは地味に悩んだ。
黙っている彼に、サァリは微笑したまま―――― 薄く目を細める。
「どうしたの? シシュ、私に飽きた?」
「そういう訳では」
「じゃあ何で帰りたいの?」
むっと頬を膨らます彼女は、一瞬ごとに色を変える花のように愛らしい。
シシュは思わず笑いかけて、けれどタギの忠告を思い出した。自分への悪影響はともかく、主である彼女まで駄目にしてはいけない。サァリーディは、月白の主で、アイリーデの主人なのだ。自分にべったりとくっついていては、他への示しがつかないだろう。
彼は、突き刺してくるような女の視線を受けつつ、正直にそのようなことを説明した。
大人しく全てを聞いていたサァリは、彼の言い分が終わると首を傾げる。
「でも私、娼妓だよ。客を取ってても怒られる筋合いないし」
「…………そうだった」
「シシュが入り浸ってるのも、別にアイリーデの人間には何とも思われないと思うけど」
「そうなのか?」
「だって、私の旦那様でしょう?」
白い指が、彼の手を握る。
意図的に体温を下げられているのだろう。氷と変わらぬ冷たい肌は、彼に変わらぬ誓約と閉ざされた褥を思い出させた。
一生を約束した―――― その証に、青年は言葉を失くす。
「傍にいて」
澄んで青い双眸は清冽で、淫靡に笑む紅い唇は、毒のように美しかった。
「やっぱり。そういう意地悪言うの、タギらしいと思った」
彼の膝の上で、サァリは口元を愛らしく尖らせる。
その手にあるのは白い茶碗で、彼女は白い着物姿のままだ。「お茶だけでいいけど、抱っこして」という妥協案を叶えた女は、首を逸らして自分の連れ合いを見上げる。
「でも、シシュが毒されることとかないと思うけど。一年以上もアイリーデにいてこんなだし」
「こんなとはどういう意味だ」
これでも、少しずつアイリーデに馴染んできたと思っているのだ。そう思っていた矢先のあんまりな指摘に、彼は軽くうなだれつつ空になった茶碗を座卓に置いた。
サァリはくすくすと楽しそうに笑う。
「いいの。そこが好きだから」
「……ならいいが」
「骨抜きにはするけど」
「…………」
―――― これは、部屋に上がってしまった時点で負けだったのかもしれない。
彼女がお茶を飲み終わって振り返るのが先か、「帰る」と切り出して捕まるのが先か、どちらにせよ押し切られる未来しか予想出来ないシシュはただ沈黙した。
明日の朝は、彼女を起こさないよう出かけようと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます