第122話 月床


 月白の主の間に通されるのは、何度目のことだろうか。

 王都から帰って来てすぐ、月白を訪ねたシシュは白い花の活けられた座敷を見渡した。

 彼をここに連れてきた女は、けれど申し訳なさそうに上目づかいで見上げてくる。

「あのね、私まだ仕事が残ってるから、ご飯食べてて。あ、濡れてるから先にお風呂か。お湯は張ってあるから」

「気を遣わなくていい。急に来たのはこちらだ」

 すぐに戻る、と言っていたのに時間がかかったのは、王の巫が忽然と消えてしまった事情と少し関係している。

 王の片腕であった彼女の不在に、城は軽く混乱していたが、一番混乱しているのは王自身のようだった。そのような主君にしばらくついていた彼は、だが「王の臣下」であった頃の意識に引きずられそうな自分に気づくと、連れ合いである女を見つめる。

「帯の色が違う」

「あ、うん。あなたがいるから」

「…………ああ」

 アイリーデの言葉では何というか分からないが、つまり黒い帯は彼女が客を迎えたことの証なのだろう。

 シシュは軍刀の飾り紐に視線を落とす。白と黒で一つの月は、彼女と一対であることを示すものだ。彼は何とも言えない落ち着かなさに眉を寄せた。

 サァリは僅かに目を伏せて微笑む。

「また後で来るから」

 艶やかに笑む口元に、彼は返す言葉に詰まった。ただ頷く。

 サァリはそれだけの仕草に顔を綻ばすと、音をさせずに長い廊下を戻っていった。



 主の間は、窓から離れをのぞむことが出来る唯一の客室だ。

 おそらくは、ここに通される男はそうして、主の住む場所である離れを眺めていたのだろう。

 雨に濡れた体を洗い、浴衣に着替えたシシュは、障子を開け夜の裏庭を見下ろす。離れの二階に灯りがついているのはサァリが戻っているからだろうか。

 彼女の性格を反映してか、小さな飾りものがあちこちに並べられた部屋のことをシシュは思い出す。

 そういうところだけを見ると、ごく普通の女に思えるのだ。―――― もっとも、実際の彼女も彼にとってのみ、普通の女だ。

 シシュは体温が戻り切らない手を、目の上にかざしてみる。

 そうしているうちに離れの灯は消え、主の間には神である女がやって来た。




 自分で淹れたお茶は微妙に味が薄かった。

 夕膳が下げられた後、座卓に向かってぼんやり考え事をしていたシシュは、襖が開く音に振り返る。

「遅くなってごめんね」

 現れた女は、先程と同じ帯を今度は前で締めていた。

 いつかの会話を思い出して口元を手で押さえるシシュに、サァリは畳の上をにじり寄ってくる。金平糖をねだる子供のように、彼女はすぐ隣にまで来ると彼を見上げた。

「シシュ」

「……もう仕事はいいのか?」

「うん。今夜は終わり」

 それは、主としての仕事を終えたということだろう。なめらかな頬に手を添えると、サァリは青い眼をうっとりと細めた。

 逃れ難い引力に、シシュは反射的に苦い顔になる。―――― だが、もう我慢しなくていいのだと思い出した。軽く口付けると、女はくすりと笑う。

「シシュ、冷たい」

「体温の調整がうまくいかないんだ……」

「すぐに慣れるよ」

 そう言う女の躰は、夜の灯を思わせる温かさだ。かつて彼の温度をねだってきた神は、今はその熱で彼を温める。

 不思議な逆転に、シシュは自分たちの辿って来た道を思い返した。あの時から変わったものの多さを思う。

 女の声が、今は真名となった彼の名を呼んだ。

「シシュ」

 ほっそりとした両腕が彼の首に絡みつく。真珠の簪が引き抜かれ、黒い帯の上に解けた銀髪が広がった。震える息が零れる。

 すべらかな首筋に口元を寄せていた彼は、頭の芯が焼け落ちそうなくらい熱くなっていることに気づくと顔を上げた。いつの間にか畳の上に彼女を組み敷いている自分を、後ろから蹴りつけたくなる。

 サァリは渋面の彼と目が合うと、赤い顔ではにかんで両手を伸ばしてきた。

「連れてって」



 熱と冷気と、快楽と安らぎと。

 そんなものを混ぜ合わせて閉ざされた床は、透き通る殻のようだった。

 しなやかに彼に抱かれた女は、少女のように恥ずかしそうで、女のように艶やかだった。

 抱き寄せて温度を同じにすると、嬉しそうにないた。

 溶けて眠る夜は、いつかの石室に繋がっている気がした。





 障子越しに差し込む朝の光は、この部屋では初めて見るものだ。

 シシュは、自分にすり寄って眠っている女の頭を撫でると、軽く湯を浴びて身支度を整える。

 夜の店の主である彼女と違い、彼は日中の見回りもあるのだ。出かける前にもう一度彼女の顔を見ていこうと寝所を覗いたシシュは、床にうつ伏せになっている彼女が目を開けているのに気づいて驚いた。

「起こしてしまったか」

「ん。寝ててごめんね……」

 両手で頬杖をついて彼を見上げるサァリは、申し訳なさそうな顔で、だが起ききれないのだろう。うとうとと定まらない瞳にシシュは微笑した。

「気にしなくていい。無理に起きると体に障る。俺は一旦戻る」

「また来てくれる?」

「約束する」

 即答すると、彼女はほっとしたように笑んだ。蕩けそうなその表情と剥き出しの白い肩に、シシュは彼女の傍に戻りたくなる衝動を飲みこむ。

 色々な欲を押し切って、彼は襖を閉めようと手をかけた。

「花代は下女に払っておけばいいのか?」

「要らないよ。シシュは神供だし。その代わり沢山来て」

「……一度くらいちゃんと払わせてくれ」

 そうでないと、何だか彼女の客としての権利も危うくなりそうな気がして落ち着かない。普通の婚儀だとしても、相手の家に金品を贈ることは常識のうちなのだ。

 サァリはくすくすと笑って頷く。

「じゃあお言葉に甘えます。でも次からはいいからね」

「考えておく」

 どの道、自分自身もうアイリーデの住人だ。彼女の為以外に金を使う目的も思いつかない。

 シシュは音をさせずに襖を閉めると、主の間を後にした。よく磨かれた廊下を、客の一人として歩いていく。

 ―――― 館に染みこむ歴史の一部に自分がなったのだと思うと、気だるい充足を覚える気がした。

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