第121話 結


 夕暮れ時から降り出した霧雨は、街全体をしんしんと冷やしめるかのようだ。

 夜空に広がる灰色の雲は鬱屈を表すようで、だが濡れそぼるアイリーデは、変わらぬいろどりを見せるままだった。

 軒先には赤い提灯が並び、二階の窓からは娼妓たちが白い腕を伸ばしている。

 大通りを行く幾つもの傘。何処からか聞こえてくる笛の音を聞きながら、雨避けだけを羽織ったシシュは足早に人の波の中を抜けて行った。腰にはいた刀の柄、化生斬りを表す黒水晶と半月の飾り紐がぶつかって軽い音を立てる。



 大分情勢が落ち着いてきたとはいえ、大陸のあちこちは未だきな臭い情勢のままだ。

 けれどそれでもこの享楽街だけは、遥か昔から変わらぬ、浮世離れした空気を保ち続けていた。

 神の在る街、アイリーデ。

 その核の一つである青年は、《北》の館を目指して大通りを外れる。暗い水路を見ながら竹林の傍に出て、まもなく古い館の前に辿りついた。

 霧雨のせいだろう。門には普段はない提灯が一つつるされており、白い布に半月が浮かび上がっていた。

 シシュは誰もいないそこを抜けて、濡れた石畳に足を踏み入れる。開かれた玄関までの道は、館の明かりを反射して月夜の海にも見えた。



 彼は三和土に、知らない男たちがいることに気づく。

 客が来ているのだろう。邪魔をしないようにと歩調を緩めかけたが、中にいた下女が先に彼に気づいた。少女は慌てて中に入ると別の女を呼んでくる。

 ―――― そうして玄関先に現れた主は、月光を灯したかのように美しかった。

 結い上げられた銀髪には、真珠の簪が差し込まれている。ほっそりとした首に白い着物。帯は初めて見る黒いもので、だが以前と同じ白い半月が染め抜かれていた。

 ともすれば地味な印象を与える装いは、だが彼女の貌一つで幽玄な華へと変じている。

 澄んでけぶる青い双眸と薄紅色の頬。紅の塗られた唇は人目を引かざるを得ない艶美で、そこだけが夜の花を思わせた。



 彼女は嫣然と微笑むと黒塗りの傘を押し開く。

 自分に向けて差し出された傘に、シシュは石畳を駆け抜けると彼女の前に立った。

 上り口に足をかけていた客の男たちが、興味ありげに二人を振り返る。

 傘を差し掛けられたシシュは、帰還が遅れたことを詫びようと口を開いた。

「すまない、サァリーディ、今戻―――― 」

 白い指が、彼の口元に押し当てられる。

 言葉を遮る女の仕草に、シシュは驚いてそれ以上を飲みこんだ。何か無礼を働いたかと思う。

 だが彼女は、指を離すと艶やかに笑った。同じ指が、灯り籠を指す。

「ようこそいらっしゃいました。ここは妓館《月白》。アイリーデで唯一、秘された神話を継ぐ場所でございます」



 かつてこの大陸に、一人の神が呼ばれた。

 王に請われ、大陸を救った彼女は、代価として三つのものを欲したのだという。

 一つは歓びをもたらす酒。

 一つは安らぎを与える楽。

 そして最後の一つは、夜と生を共にする半身だ。



 神の座に在る女は、愉しそうに目を細めて微笑する。

「正統がゆえ、ここでは女が己の客を選ぶのです。その旨、ご容赦頂けますでしょうか」

 しなやかな手が、彼の羽織る雨避けを引いた。

 彼女の笑顔に見入り、その声にすっかり聞き惚れていたシシュは、我に返ると頷く。

「ああ……承知している」

 誰よりもよく、そのことを知っている。

 初めの時、そして過ぎ去った時間を振り返ったシシュは、女の滑らかな頬に触れた。同じ温度を味わって問う。

「あなたの客は?」

「わたくしは、この館の主でございますれば。生涯でただ一人しか客を取りません」

 たとえ死しても、彼女はその一人を変えない。

 シシュは己の幸運を噛み締めて、請うた。

「ならば、俺を選んでくれないだろうか」

「喜んで」



 黒い傘が石畳に落ちる。

 自分だけの女を、彼は腕の中に抱きしめる。

 溶け入りそうな柔らかな躰。拗ねたような、甘い声が胸元で囁いた。

「捨てないで。ずっといて」

「約束する」

 孤独を誠実で変え、愛情を誓約で支えて。

 全ての夜を彼女に贈る。そして、全ての生を。




 きつく抱いていた腕を解くと、シシュは彼女に口づけた。

 小さな吐息を食んで顔を上げた時、ようやく上り口に先の男たちがまだいることに気づく。

 唖然としたような、羨ましそうな視線に、くすくすと笑ったのはサァリの方だ。彼女は気まずげに視線を逸らしたシシュに代わって、廊下の奥を指さした。

「花の間には、わたくしよりも美しい女が幾人もおりますわ。どうぞお顔をお出しください」

「あ、ああ……」

 下女に促されて、振り返りながらも男たちがいなくなると、二人はもう一度顔を見合わせた。サァリが彼の右腕に飛びつく。

「行こう、シシュ。濡れてるから先にお風呂にする? 一緒に入る?」

「一緒には入らない……」

「まだそんなこと言ってる。往生際が悪いよ」

「往生際の問題なのか?」

 触れてくる指に、彼は自分の指を絡めて握る。同じ存在であることを確かめる。

 遠い昔から続いてきた営み。夜の街に伝えられる恋物語。


 そうして月の床は満ち、人は神との約を、此度も果たした。





【月の白さを知りてまどろむ 第一部 了】

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