第120話 命糸
目を閉じて眠る。
膝を抱えて、顔を伏せて、胎児だった頃のように。
冷たい石室で、彼女は蹲る。滑らかな足下には涙の作る氷粒が幾つも落ちていた。
床に広がる銀髪は一本一本が月光を宿し、裸の身体も白光を纏わりつかせている。
柔らかな大人の躰で、それでも少女のように頑なに目を閉ざしていた彼女は、けれどふっと顔を上げた。冷たい床に手をつき立ち上がる。
「シシュ」
姿は見えない。
だが気配を感じる。
彼女は何もない中空へと右腕を差し伸べた。ひたすらに恋うように、全てを請うように、うっとりと目を細めて待つ。
遥か昔から続く約。
最初で最後の誓約。
永く長い孤の終わりに―――― そして細い指先へ、同じ温度が触れた。
※ ※ ※ ※
湯船の中に伸ばした肢体は、見慣れたものであるにもかかわらず何処か軽い違和感を抱かせた。
力を使い切った反動が、まだ感覚に色濃く残っているのだろう。サァリは表面だけを塞いだ傷跡を、そっと指でなぞる。
見た目は酷くない。うっすらと痣が残っている箇所もあるが、それは白粉で隠せるだろう。
彼女は目に見える範囲に血も泥も残っていないことを確認して、小さく息をついた。銀の睫毛を落とし、膝を抱える。
全て終わったと、月白で目を覚ましてから聞いた。
ディスティーラも、蛇も、ヴァスも消えた。アイリーデはそうして元通りになった。
自ら望んで選んだ結末に、けれど拭えぬ喪失感を覚えてサァリは目を閉じる。
―――― 従兄であった青年は、もう本当に何処にもいない。
分かっていたはずのこと、そして飲みこんで留めていたことに、彼女はきつく唇を噛むと、やっと一人、声を殺して泣いた。
零れ落ちる涙は、お湯に浸した体と同じ、温かいものだった。
あまり長湯をしても心配される。
顔を洗って湯船から上がったサァリは、きつく髪を絞るとひとまとめにして簪で留めた。襦袢の上に紬の浴衣を着て隣の座敷に顔を出す。そこでは兄とシシュが座卓を挟んで話し合っていた。
二人はサァリに気づいて顔を上げる。ほぼ同時に何かに気づいたような表情になったのは、彼女の瞼の腫れを見たからかもしれない。
しかし二人ともがそれには触れずに、サァリに座るよう勧めた。
当然のようにシシュの隣に彼女が座すと、トーマが口を開く。
「地上への被害は軽微っていうか、建物の土台が焼けたり凍ったりしてるけど、ありゃ罪人の持ち物だからな。アイリーデには被害がないって訳だ」
「それはよかった」
「いいけどな。お前ら二人だけでほいほい出向くなっつの。なんかあったらどうすんだ」
「なんとかなったもの」
頬を膨らませるサァリの隣で、シシュは微苦笑しただけだ。
勿論、他の人間を巻きこめば有利になることは分かっていた。
だがそれは、その人間を命の危険に曝すことと同じ意味だとも分かっている。特にトーマは、彼らの為なら命を捨てることを躊躇わないだろう。
だからなおさら連れて行きたくなかった。
ぷいと顔をそむけたサァリは、二人の湯呑が空になっていることに気づいて腰を浮かしかける。
しかしそれより早く、シシュが立ち上がった。
「慌ただしくして済まないが、今日はこれから王都に行ってくる」
「え? もう?」
「ああ。王に報告と……色々支度もあるからな」
「支度?」
怪訝に思って首を傾げるサァリに、シシュは苦笑した。彼は神殺しの刀をトーマに差し出す。兄はそれを受け取ると引き換えに、自警団員の多くが持っている軍刀をシシュに渡した。
目を丸くしている妹にトーマは説明してやる。
「こいつ、王都を完全に引き払ってこっちに来るんだと。普通の神供と違って、もう完全に人間じゃないからな。一国に肩入れして力振るわれちゃ困るだろ」
「そ、それはそうかもしれないけど……」
シシュはずっと、アイリーデの化生斬りでありながら、王の臣下という立場を崩していなかったのだ。
それを、いくら神供になったからといって変えさせてしまっていいものか。慌ただしい事態の連続でそこまで考えていなかったサァリは青ざめた。
しかしシシュは、うろたえる女に軽く手を振って見せる。
「大丈夫だ。元より承知の上だ。それに、力の加減を覚えれば、人として動くことも出来るだろうからな。それまでは刀もここに置いていく」
元々外しておいたのか、シシュは半月の飾り紐を取り出すと、借り受けた普通の軍刀に結び直す。
何かを言いかけて、だが思わずその指先に見惚れてしまっていたサァリは、我に返ると立ち上がった。
「あ、でも、それなら私も王都に……」
「駄目だっつの。お前は体治しながら後始末してろ。蛇がいなくなってしばらくは、どういう影響が出るか分からないからな」
「トーマ……」
「恨みがましい顔すんな。王都に行きたいなら後で付き合ってやる」
真面目な顔の兄にここまで言われては食い下がることは出来ない。
どの道、王にはいずれ会いに行かねばと思っていたのだ。そして、弟を失ったフィーラにも。
巫として、そして当主としての立場を思い出したサァリは、我儘を飲みこんだ。不安を消しきれない目で己の連れ合いを見つめる。
「気をつけてね」
「ああ、すぐ戻る」
そう言って部屋を出て行きかけた青年は、しかし何かを思い出したのか、襖に手をかけたまま振り返った。
「そう言えば、サァリーディ」
「うん?」
「地下であの時、彼に何か聞かれていただろう。何の話だったんだ?」
問われてサァリは、きょとんと目を丸くした。
いつのことか記憶を振り返って、ヴァスと戦っていた時のことだと思い当たる。
「ああ、あれかぁ」
「言いたくないことなら構わないが」
「ううん。別になんか脈絡のない話だったし。―――― あのね、『シシュはちゃんと求婚してきたか』って聞いてきたの。何なんだろ」
まったくもって、唐突で意味の分からない質問だ。聞かれたサァリ自身も、だから是とも否とも答えなかった。
腕組みをして首を捻るサァリの答に、だがシシュは息を詰めて目を瞠る。
何か思い当たることがあるのか、サァリは彼の表情に気づくと、腕を解いて伸びあがった。
「シシュ?」
「……いや、何でもない。行ってくる」
「え? あ、はい」
「トーマの言うことを聞いて大人しくしててくれ」
「…………」
何だか子供に向けるような注意だ。
しかしそのことを不満に思う間もなく、シシュは部屋を出て行ってしまった。
拍子抜けした気分で、サァリは兄を振り返る。じわじわと膨らんでいく不安に、思わず兄に駆け寄ると尋ねた。
「私、もしかして捨てられそう?」
「寝言いってないで寝てろ。これ以上面倒な女になるな」
「…………」
※ ※ ※ ※
花の溢れる謁見の間は夜の闇に閉ざされていた。
噎せ返る程の甘い香り。だが部屋の主である王は不在だ。
月光だけが差し込む部屋、玉座の隣には一人の女だけが立っている。
象牙造りの背もたれに手を置いて目を閉じている彼女は、王の片腕とも言われる巫だ。長い髪を左右で二つに編んだ彼女は、穢れない白い巫衣に身を包み、時を待っていた。
随分長い間、そうして待っていたのだ。思えば彼女は生まれた時から、常に何かを待っていた。
盲いた目に人とは違う景色を見てきた巫は、そうして現れた気配に気づくと、扉の方へ向き直る。
「お待ちしておりました」
音はしなかった。
だが彼は、紛れもなくそこに立っている。
神の訪れに、彼女は頭を垂れた。
相手はそれに驚いた風もなく返す。
「ここまでお見通しですか。いい気分はしませんね」
「申し訳ないことでございます」
隠そうともしない不快の言葉に、彼女は苦笑した。
先視の力を持つ者は、多かれ少なかれ人から疎まれる。
それは、未来を見通すからではなく、未来を手繰ろうとするからだ。
自身もそうである彼女は、近づいてくる気配を待った。育ちのよさを窺わせる規則的な足音。それが止んだ時、神となった青年は彼女の目の前に立っていた。
黒衣の青年は、自分よりも幾らか背の低い巫を見下ろす。
「私がここに来ることまで視ていたということは、何を聞かれるかも分かっているんでしょう?」
「ええ。本来の歴史はどのようなものであったか、でございましょう」
それに答える為に、待っていたのだ。
自分だけ抱えたまま終わらせてもいいとは思っていた。
だが、確かに誰かに伝えたいとも望んでいたのだ。主君にでもなく、彼女たちにでもなく、誰かに。
それが彼になったことは、不遜の報いであるのかもしれない。
巫はうっすらと微笑む。
「わたくしが視ました最初の歴史では、この大陸の半分以上は燃え盛る戦火に没しました。人は狂い、国は滅び、死と欲が荒れ狂っておりました」
「それは外洋国の差し金ですか?」
「ええ。彼の国の第三王子、ベント・シノシアは強い征服欲の持ち主でありましたから。この国を真っ先に標的とし、他の国を次々屠っていきました」
「なるほど。それを魅力的な餌をちらつかせることで矛先を逸らした訳ですか。向こうの大陸では人外は絶える寸前だそうですからね」
遠慮ない指摘に、彼女は頷く代わりにまた頭を下げる。
―――― アイリーデの主、美しい神は、格好の誘蛾灯であった。
その血の力を知れば、そして彼女が女であることを知れば、ベントは真っ先に食らいついてくるだろうとは思っていたのだ。
大陸を混迷に突き落とす男を、王の巫はそうしてアイリーデに押しやった。
だが、本当に罪深い行いは、それ以前のことであったかもしれない。
青年の溜息が聞こえる。
「大体予想通り、ではありますが、私が聞きたいのはもっと前の……些末なことですよ」
「承知しております。―――― わたくしが、あの方の神供を変えてしまったことについてでございましょう」
神の未来は見えないと、今まで嘘をついていた。
主君にさえ、そう偽ってきたのだ。そうでなければ、王もまた責を負うことになる。
だから彼女はずっと全てを欺いてきた。
紅の塗られていない口元が微笑む。
「お察しの通りです。本来、キリス様はこの王都で死すはずの方でした。何事もなければ、あの方と出会うことはなかったのです」
「その死を回避させる為にアイリーデに送り込んだ訳ですか。念には念を入れて、名前まで変えさせて」
「よい化生斬りになってくださると思っておりましたので」
「確かにいい化生斬りでしたがね。その様子では、エヴェリに気に入られた時点で既に死は回避出来てたんじゃないですか。それを散々終わったはずの先視で脅して……よくもやってくれたものですね」
青年の口調は、苛立っているというより呆れ果てたようなものだ。
だが、結果として彼の大事にする姫を悩ませていたのは事実である。巫は素直に謝罪した。
「大変な無礼を働いたとは分かっております。ですが、本当にあの方の運命を、人の身で覆しうるか確信を持てませんでしたので」
「元々の神供を選んだかもしれないと?」
「ええ」
サァリが選ぶ神供は、本来ならば幼馴染である男だった。
もしシシュがアイリーデを訪れなかったら、彼ら二人はそうしてお互いを想いながらも傷つけあい、愛憎をぶつけあって病んでいったのだ。
王の巫は、最初に視たサァリの結末を思い出す。
神供である男に裏切られ、捨てられた彼女は、一人で次の巫を生み落してまもなく金の狼と戦い、右腕を失った。
そうして傷つきながら、だがサァリは己の運命を恨んでなどいなかったのだ。
―――― だから、今この時を選んだものは、結局は人間の傲慢だ。
王の巫である女は、渇いた口元を微笑ませる。
「キリス様は、我が王が大事に思われる唯一の肉親でいらっしゃいます。ですから、お助けしたいと思ったのです。全てはわたくしの独断で、その為に分かっていて、彼やあなた様を犠牲にいたしました」
「別に私は犠牲になったとは思っていませんけどね。確かに精神の主導権を取り戻すまで大分かかりましたが。これはこれで面白いです」
平然と返すヴァスは、「痛かったですけどね。あれで完全に乗っ取れました」と、自分の胸を叩く。
今は神となった貴族の青年に、彼女は顔を綻ばせた。
「勿体ないお言葉でございます。ですが、罪は罪です。あなた様も、その為にいらっしゃったのでしょう」
「まあ、そうですね。好きに動かされたことも癪ですが、誰か一人は怒るべきかと思いまして」
「ありがとうございます」
王やシシュやサァリが、その役目を担うことも出来るだろう。
だが彼女は、他の誰にも言わぬままヴァスがあえて進み出てくれたことに感謝した。
誰か一人が怒らなければ、死した人間が報われない。アイド・ルクドは確かにサァリを愛していて―――― 今のこの歴史でも、彼女を守ったのだから。
王の巫は、香りを頼りに足下に手を伸ばす。
そこに咲く白い花は、王が一際大事にしているものだ。初めて蕾が開いた時、彼は「お前に似ているね」と言ってくれた。その言葉が、何よりの褒美だった。
彼女は床に膝をつくと、頭を垂れて滑らかな花弁に口づける。
そうして胸いっぱいに甘い香りを吸い込むと、ヴァスに向けて顔を上げた。
「あなた様は、これからどうなさるので?」
「分かっていることを聞かないでください。外洋国にでも行ってみますよ。このままこちらの大陸にいて、彼女に見つかっても困りますから」
「ご武運をお祈りしております」
「先視の持ち主にそう言われると、なんだか落ち着きませんね……」
彼がそう言うのは冗談のつもりなのだろう。彼女はくすくすと笑って―――― 頭を垂れた。
「差し出がましい願いではございますが……出来れば骸を残したくはないのです」
「構いませんよ。では血の一滴も残らぬように」
神の慈悲に、彼女は畏まって白い首を差し出す。
口の中で、王の名を呼ぶ。
赤い光に焼き尽くされるまで、彼女はそうして幸運を噛み締めて微笑んでいた。
※ ※ ※ ※
夜の闇に閉ざされた謁見の間。花の香りが満ちるそこの扉が薄く開かれる。
差し込む光、護衛兵の後ろから部屋を覗きこんだ王は、暗い中へと声をかけた。
「ベルヴィ? ここにいるのかい? ―――― ベルヴィ?」
答える者はいない。
玉座の隣では、白い花弁が月光を受けて輝いていた。
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