第119話 心火


 世界が変わった時、シシュは元の地下室の穴の前にいた。

 ディスティーラの体は残っていない。

 正面の離れた場所にはヴァスがいて、その剣先は隣のサァリの喉元に突きつけられていた。

 自分の命が危うい状況で、しかしサァリは戻ってきたシシュを見て心底嬉しそうな顔になる。綻ばせた顔で口を開きかけて―――― だがすぐに戦いの最中の冷徹な表情に戻った。白い指が彼の背後を指さす。

「シシュ、後ろ」

 警告が発せられたのと、シシュは刀を振るったのはほぼ同時だ。

 腐った肉を斬ったかのような気味の悪い手応えが返る。続けてぼたぼたと降ってくる黒い腑を避けて、彼は横に跳んだ。それをしながら大きな穴を振り返る。


 そこにいたものは、死肉の山としか言えないものだ。


 どす黒い、崩れかけた巨大な塊。

 ぐずぐずと穴の外へ広がっていくそれは確かに、先程まで蛇であったものだった。

 臭いはなく音もしない。ただ目には見える溶けかけた肉は、明らかに現実のものとしてそこに存在していた。シシュは剥き出しの臓腑の中に、埋もれそうな赤い眼を見つけて眉を顰める。

「何だこれは……」

「大体予想通りですね。彼女の攻撃で瀕死になったところに、あなたが出てきてしまったことで崩壊したんです。元々ディスティーラの力を得て実体化したものですからね、それをあなたに奪われたら、もう形を保っていられなくなったんでしょう。どうしても神供の方が彼女の力と親和性が高いですから」

「……ディスティーラ」

 淡々とした説明に、シシュは己の左手を見る。



 ついさっきまで、彼女と共にいた気がする。

 だがどんな風に一緒にいたのか、何か言葉を交わしたのかは思い出せない。

 ただ、彼女がもういないということと―――― その力の幾らかを、自分が継いだということは分かっていた。



 蛇であった泥塊は、鈍った双眼にサァリとシシュを映す。

 そうして存在に惹かれたのか血の匂いに惹かれたのか、正面の女に向けてずるずると地を這いだした。声ならぬ声が空気を震わせる。

『し、らつき、よ』

 渇えた欲。

 留まるところを知らないそれに、シシュは素早く地を蹴った。

 サァリに剣を突き付けているヴァスも何とかしたいが、今はまず蛇だ。彼は、土を溶かしながら足下に広がってくる肉の一部を斬りつける。波打つ腐肉が、白刃の触れる端から凍りついていった。ぱきぱきと音を立てて広がる霜が、またたくまに小山の如き塊全体を覆っていく。

 その上を走るシシュは、砕け散っていく黒肉の破片に、自身と重なる妄執を見た。記憶にない夢の欠片が意識の隅で疼く。



 彼女を欲している。

 憎んでいる。食らいたがっている。

 触れたくて、取り込みたくて、すり潰したいほどに焦がれている。

 まるでどうしようもない執着。遥か遠い月を飲もうとする貪婪さは、きっと彼自身と同じ根を持っている。

 違うのはただ、彼女を得たか、そうでないかだ。

 そしてもう一つ――――



 昏い赤の眼を越えて、シシュは黒い肉丘の上に立った。凍りついた臓腑を足下に感じる。

 ―――― かつて初めの神は、この地で蛇の首を斬り落としたのだという。

 それに比べれば、今はささやかな通過点でしかないだろう。何も終わらない。人が在る限り蛇はまたいずれ、月白の主を欲してやって来る。

「だが、サァリーディにまみえるのは、これが最後だ」

 彼女に代わりなどいない。闇雲に月を欲する蛇とは違い、シシュはそう思っている。

 だからここで譲る気もない。彼は両手で刀を構えた。息を整え、力を研ぎ澄ませる。

 蛇の体が小さく震えた。



『しらつき』



 執愛を囁く言葉。

 濁った赤い眼が彼女に向けられる。

 白い着物を血に染めたサァリは、透き通る氷の目で蛇を見ていた。温かくも冷たくもない声が返る。

「散り散りに溶け消えてしまえ。……次は客として出直して来い」

 氷結の支配する場。

 そうして淀んで凝った欲に向けて、神殺しの刃は振り下ろされた。




 ※ ※ ※ ※




 凍りついていた黒い山は、刃の一振りで澄んだ音を立てて砕け散った。

 舞い上がる無数の破片は、粉雪の如く白光を受けて輝きながら宙に溶けていく。

 空に昇っていくものも、地に沈んでいくものもある破片はきっと、また時をおいてアイリーデに戻ってくるのだろう。

 シシュは散っていく破片を軽く刀で払うと、改めて残る二人に向き直った。サァリの首に剣を突き付ける青年に問う。

「何処までを計算していた?」

「さあ? 計算出来ることなんて、たかがしれてますよ」

 嘯くヴァスは、だが軽い口調とは裏腹に、軽く顔を顰めていた。

 頭痛を堪えるような表情に、シシュだけが目を留めて怪訝に思う。

 一方彼の前に立つサァリは、作り物のような無表情だ。顔色が悪いのは出血のしすぎかもしれない。先程はなかった太腿の傷からは、止血されていないのか血が鮮やかに滲み続けていた。

 彼女は肩で息をつく。

「次はお前だな」

「死にそうな状況でよく言いますね。もう立っているのも辛いんじゃないですか」

 とん、と、ヴァスはサァリの背を押した。糸が切れたように、彼女は体勢を崩し、その場に倒れ込む。

 思わず駆け出そうとしたシシュを、しかしヴァスの剣が留めた。彼は剣先をサァリに突きつけながら苦笑する。

「さて、次はあなたです。とりあえずその刀を捨ててもらいましょうか」

「捨てなくていいよ、シシュ」

 掠れた声で付け足すサァリに、ヴァスは一瞥もくれず剣を突き出した。脹脛を貫通する刃に彼女の体は大きく震え、だが悲鳴は上がらない。

 歯を食いしばって苦痛を飲みこむサァリに、シシュは激昂しそうになる。

 また顔を顰めたヴァスは、サァリの肢から剣を引き抜くと、重ねて要求した。

「刀を捨ててこちらにどうぞ。あなたももう用済みですから」

 赤い眼が、どうでもいいもののようにシシュを見る。



 ディスティーラは死んだ。蛇は消えた。

 あとはシシュを殺して、サァリを連れ帰れば終わりだ。

 ヴァスとしては、それで計算した全てだろう。むしろ蛇を滅した分だけ、サァリに譲歩したとも言える。

 ―――― だが、それを譲歩と思っている時点で、彼はもう元の彼ではないのだ。



 今更ながらの現実に、シシュは青年と相対しながら思考を巡らせる。

 彼女をこれ以上傷つけさせてはならない。けれどだからと言って、自分が殺される訳にもいかない。

 この二つが大前提で、だから何としてもヴァスに勝たねばならなかった。



 シシュは神殺しの刀に視線を落とす。

 迷っていられる時間はない。彼は、刀を鞘に戻すと、鞘ごとそれを足下に置いた。倒れたままのサァリーディが息を飲む。

「シシュ」

「大丈夫だ」

 答えて、青年は一歩を踏み出す。

 肝心なのは最初の一撃だ。それをしのぐことさえ出来ればどうにでもなる。その為に、単身でも人外と戦いうるように彼は変わったのだから。

 今はとにかく、サァリから彼を引き離すことが第一だ。

 シシュは、蛇の死肉によって溶かされた土の上を慎重に進んで行く。

 縮まっていく距離。それが元の半分程になった時、彼は足下の違和感に気づいた。

 それが何であるのか、目線を動かさずに「見た」シシュは―――― その場で足を止める。サァリの傍らにいるままのヴァスを、冷えた目で見据えた。

「これでいいのか?」

「こちらに来いと言ったつもりなのですが」

「サァリーディから離れろ。そうでなければこれ以上は進まない」

「……相変わらず、よく分からないところで強情な人ですね」

 呆れたように肩を竦めて、けれどヴァスは彼女から剣を引いた。痛ましい姿のサァリを見つめる。



 長い時間がかかった訳ではない。

 ヴァスはまた顔を顰めると、サァリに向けて左手をかざした。

「よせ!」

 止める間もなく赤光が走る。

 サァリの細い体が跳ね、そのままぐったりと力を失った。青い瞳が閉じられ、小さな顔に銀髪がかかる。

 反射的に走り出しかけたシシュを、だがヴァスの剣先が留めた。

「気絶させただけですよ。彼女を背後に置いておくなんて危ない橋は渡れませんし、あなたが死ぬところを見られてまた暴れられても困ります」

「……眠らせたまま連れ帰ろうと?」

「そうですね。それが早いですから」

 あっさりと言いきって、ヴァスはシシュへと向き直った。剣を提げたまま、青年は無造作に歩き出す。



 湿った土の上を歩いてくる青年は、端正な貌に、やはり何処かサァリとの血の繋がりを窺わせていた。

 時折思い出したように顔を顰めるのは、いくつかの負傷のせいだろうか。

 じゃり、と砂が鳴る。

 それを最後に足を止めたヴァスは、正面に立つシシュを感情の窺えない目で眺めた。サァリの血に濡れた剣先が、彼に向けられる。

「これで終わりですか。少し手間取りましたが」

「散々裏で手を回して、気が済んだか?」

「どうでしょうかね。それに関しては、まだ上手がいますから」

「上手?」

 シシュは問うたが、相手は軽く笑っただけで答えない。

 死に行く者には必要ない話なのかもしれない。赤熱色の刃をシシュは油断なく見据えた。同時に足の下に注意を払う。

 二人の間の距離は、既にお互いの一足の間だ。

 ヴァスは手の中で柄を返す。

「あなたは本当に、他人事で損をしてばかりでしたね」

「損と思ったことはない」

 それに損と言うなら、シシュを庇って塗り潰されたヴァス自身こそがそうだろう。



 シシュは目を閉じる。

 人は愚かだ、と思う。

 欲で動き、情で動き、大義で動く。自分を殺し、他人を殺す。

 だが、愚かな選択をするのは、いつも人自身だ。

 それをよしと思うのも、抗い続けるのも、同じ人だ。

 ―――― だから「彼女」たちは、人間を愛するのだろう。



「これで最後です」

 声が聞こえる。

 剣を振り上げる気配がする。熱風を感じる。

 シシュは爪先に力を入れた。

 踏み込むと同時に、土の中に埋もれていた刀が跳ねあがる。

 錆びかけて汚れた刃は、既に死した化生斬りのものだ。

 シシュはそれを、身を屈めながら掴む。右の肩口を、赤い刃が掠めていく。

 相手の懐に飛び込んだ一瞬、焼けつく激痛に、鈍い手応えが続いた。

 一拍の間を置いて、驚いたような呟きが落ちる。

「……これが、あなたの計算ですか」

「いや」



 単なる偶然か―――― そうでないなら、「彼」の意思だ。

 シシュは掴んだ刃の先、柄に結び付けられた飾り紐を見下ろす。

 土にまみれた黄水晶は、アイリーデを追放された男を示すものだ。

 あの日、シシュが叩き落とした刀が、土に埋もれてこの場所に残っていた。

 溶けた地面の中からそれを見出したシシュは、刀身を伝ってくる神の血を見つめる。

 胸を刺し貫かれたヴァスは、同じものを見て苦笑した。


「まったく、仕方ないですね」


 急激に冷えていく体。

 刀を通じて送り込まれるシシュの力に、ヴァスは温度のない息を吐く。ゆっくりと、首だけで背後を振り返った。

 倒れ伏して眠る女を、彼は左目だけを細めて見つめる。


「仕方ないので……あなたに差し上げます」


 ほろ苦く、何処か嬉しそうな言葉。

 それだけを残して、青年の体は金の光と共に四散した。

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