第118話 追想


 穴から這い出でた蛇が、彼を飲みこむ様を見ていた。

 何も出来なかった。間に合わなかったのだ。

 呆然と立ち尽くすサァリは、かちかちと耳元で鳴る音に気づく。

 それが己の歯が震えてぶつかる音だと気付いた時、彼女は言葉にならぬ絶叫を上げていた。

「っぁぁあああぁぁああ!!」

 目の前が真っ赤に染まる。

 それが錯覚だと分かっても、サァリは動かずにはいられなかった。細い体もろとも力の渦となって、地下の空間を揺るがす。

 いつか王都の地下で味わったものに似た恐慌。だが今の相手は化生ではなく蛇だ。

「こ、の……!」

 吹き荒ぶ氷風の中心で、サァリは自由になる力を全て振り絞り、漆黒の巨大な蛇を撃とうとした。

 両腕に集めた力を錐にして―――― だがサァリの体は、その力を振るうより先にぐらりと傾ぐ。

 狂気を貫く熱が、ほんの僅か思考を取り戻させる。左の腿から生えて見える直刃の剣を彼女は睨んだ。

「……貴様」

「そう怒らないでもらいたいものですね。私はあなたの希望を叶えただけのことですから」

 青年は無造作に突き刺した剣を引き抜いた。

 鮮血が地面に飛び散り、蛇の双眼が二人へと向けられる。

 反動でよろめくサァリは行き場を失った力を渦巻かせつつ、ヴァスへと手を払った。接近を拒む氷の杭が、空中に現れ静止する。

 彼はそれを見て、軽く苦笑すると肩を竦めた。

「忘れてしまったんですか? あなたが言ったんですよ。蛇が、この地の支柱にまで染み入ってしまっていて帰れないと」

「それは……」

 確かに言ったことがある。目の前の存在が、まだ違う依代を持っていた時のことだ。

 虚を突かれて言葉を失うサァリに、ヴァスは幼児を諭すような笑顔を見せた。

「だからこちらへ釣り上げてやったんです。引き寄せて実体化させてしまえば、遠慮なく殺せるでしょう。蛇を殺せば、あなたを縛る約は一つ消えることになる」


 苦労したのだと、まるで人間のように語る青年は、元の彼とは似ても似つかなかった。

 何処までが本気で、何処までが無理解なのか。

 考えるだけで息苦しい。吐き気がする。頭を抱えて叫びだしたくなる。

 サァリは、紅い目の青年と、神供を飲んだ蛇と、流れ続ける己の血を同じ意識野に入れた。怒りと焦燥に震える手で額を押さえる。


 狂うことは容易い。

 ―――― だが何を優先すべきか、答は一つだ。

 迷っている時間はない。彼女は血の匂いに惹かれて這い出して来る蛇を睨んだ。

 その眉間を狙って、今度はもう一度緻密に力を練り上げる。もう邪魔するつもりはないのか、ヴァスの穏やかな声が聞こえた。

「そうですよ。雑に暴れて仕損じるなんて真似はしないように。落ち着いてください」

「……黙れ」


 流れ出す血が、蛇を呼びその力となるなら。

 過ぎた欲には力を以て返さねばならない。地に零れた滴の一つでさえ、本当はただ一人のものなのだから。

 サァリはともすれば暴れそうになる精神を抑え、苦痛を遠ざける。狂い叫ぶ本質を絞り、表に出る些末だけを震わせた。

 白い光が二つの巨大な円錐となる。槍の穂先のようなそれを左右に浮かばせ、サァリは右手を上げた。土の上を這ってくる大蛇へ告げる。

「長い眠りももう終わりだ、蛇よ。―――― 私の男は返してもらう。塵となって消えるがいい」

 昏い赤の双眼と、氷の双眸。

 ぶつかり合う視線の果てに立たされた女は、そうして蛇の形をした欲に向けて、己の力の粋を撃ち出した。




 ※ ※ ※




 気がついた時、彼は一人、アイリーデの入口に立っていた。

 広い、整然とした街並。

 だが空は昏く、人の姿は何処にも見えない。普段艶やかな色を散りばめている通りは、今は単調な無彩色で、灰色に浮かんで見える道はまるで作り物のようにのっぺりとしていた。

「これは……」

 シシュは自分の左手を見る。

 繋いだままの少女の手は、この世界では浮き立って白い。

 曖昧な違和感を覚える中で、彼は少しだけ一人ではなかったことに安堵した。冷たい少女の手を握り直す。

「誰かいないか探してみるか、ディスティーラ」

 返事はない。

 シシュは頷くと、肘から先だけの少女を引いて歩き出した。アイリーデに足を踏み入れ、人気のない大通りを歩き出す。


 どうやってここに来たのかは、記憶が霞んで思い出せない。

 ただ何かすべきことがあった気がする。シシュは、点々と血を零す少女の腕を引きながら首を捻った。

「何だかすっきりしないな……」

 誰かに会えれば話が聞けるのかもしれないが、今のところ人っ子一人見当たらない。

 けれどシシュは、そのことを不思議に思う訳でもなく白黒の景色の中を歩いて行った。連なる妓館の前を過ぎ、がらんとした広場を通り抜ける。

 空は灰色だ。鳥は飛ばず、風も吹かない。

 やがて彼らは誰にも会わぬまま、街の北端、月白へと辿りついた。

 開かれたままの玄関には、誰の姿も見えない。

 灯り籠に張られた布は一際浮き立って白かったが、そのせいで火が入っているのか否か、いまいち判別がつかなかった。

 シシュは上り口に立つと、中に声をかける。

「誰かいないか?」

 返答を待つが、何も聞こえては来ない。自分の声も長い廊下に吸い込まれていくかのようだ。

 中に上がって人を探そうかとも思ったが、よく考えてみれば先程から広い街を歩き詰めだ。彼自身はともかく少女の体には辛いだろう。

 シシュはそう考えると、ディスティーラの腕と共に上り口に腰かけた。食いちぎられた腕から滴る赤い血が床を汚さぬよう、膝の上に抱えあげる。


 音は聞こえない。

 玄関から見える外の景色は平坦で、何処までも終わらない際限のなさを思わせた。見ていると吸い込まれそうな青い瞳とは違う、無に等しい永続だ。

 ―――― 美しい、青の双眸。

「サァリーディ」

 彼女の名を思い出す。

 忘れていた訳ではない。ただ今まで何故か思いつかなかったのだ。

 どうして彼女のことを考えなかったのか。自身の意識の空隙に気づくと、シシュは立ち上がった。ディスティーラの手を取ったまま館の中を振り返る。

「サァリーディ?」


 呼んではみたが、返事がないことは予想出来ていた。

 サァリは中にはいない。

 そして街にもいない。

 分かるのだ。他のどの人間がこの世界の中に溶け込むことが出来ようとも、彼女だけは混ざらない。―――― 彼女は外の、別の存在だからだ。

「サァリーディに会わなければ……」

 ならばどうするか。

 此処で待っていようか、と思う。

 月白は、彼女の館だ。だからこのまま待っていれば彼女はやってくるかもしれない。腕だけのディスティーラもそうした方がいいと思っているようだった。

 だがシシュは、少し考えるとかぶりを振る。

「……いや、違う」

 待っていてはいけないのだ。

 此処は彼女の知らぬ場所で、彼女とは相容れぬ世界だ。どれ程近づこうとも此処に彼がいる限り、彼女とはすれ違い続けるだけだろう。



 シシュは外に向かい歩き出しかけて―――― だが繋いだままの腕を振り返る。

「あなたは、ここに残るか?」

 ディスティーラは、己の居場所を欲しがっていた。傍にいてくれる人間を欲しがっていた。必要とされたがっていた。

 そんな彼女にとっては、この場所は安住の地であるのかもしれない。化生が人の想念を写し取って人の姿を取るように、この街は、人の欲念から生じたもう一つのアイリーデだからだ。

 神の為に人間が用意した二つ目の座。それは妄執の虫籠と同じとも言えるが、欲されていることは確かだ。だから、このまま此処で安らかに眠ることも出来る。

 けれどディスティーラは、否、と答えた。

 シシュは腕だけの少女を不思議に思って見下ろす。

「俺と行くのか? 別に構わないが、俺はサァリーディの神供だ」

 それでいいのか、と問う。

 ディスティーラは、是、と返した。もういいのだ、とも。

 シシュが頷くと、白い腕は端からさらさらと崩れていく。代わりに触れた指先から彼女自身である力が流れ込んできた。

 冷たく、かぼそい意識。だが彼女の人格や思惟も、彼の中に入るやいなや泡沫となって融け消えていく。

 最後の輝きのように次々露わになる感情を、シシュはまるで自分のもののように一つずつ追っていった。

 全てが消えて力だけが残ると、彼は二階へと続く階段を振り返る。

「……そうか」



 ―――― 愛していた。



 拒絶されようとも、切り捨てられ封じられようとも。

 彼女が愛していたのは、自らが選んだ男ただ一人だ。月白の女は、決して己の客を変えることはない。たとえ、何があろうとも。

 客取りの日の前日、彼女がどれだけ期待に落ち着かず支度をしていたか、男にひれ伏され許しを請われた時、どれだけ泣き叫びたかったか。

 もし運命が少しだけ違う道を辿っていたなら、ディスティーラは今頃、月白の主であったのかもしれない。

 そうであったらサァリの生は、もっと違うものになっていたのだろうか。



 今となっては、ただ詮無きことだ。

 シシュは、消えてしまった少女の記憶から時を引き戻すと、館の玄関から外に踏み出す。

 門の向こうに広がる小さな空を見ながら、彼は腰の刀を抜いた。

「あまり待たせると、また泣かれるからな……」

 アイリーデの主人。毅然として怖い女。

 だが彼女は、嬉しい時にも悲しい時にも素直に泣くのだ。

 子供のように彼の胸に顔を埋めて泣くさまを愛らしいと思いはするが、出来るなら辛い思いはさせたくない。その為に、彼は神供となったのだ。

 シシュは右手に提げた刀に力を集めていく。冷えていく刀身に呼応するように、点々と落ちてきたディスティーラの血が白く光り始める。それは彼の目に、街の外まで続く道しるべとなって見えた。一筋の軌道を意識して、シシュは息を吐く。

「残念ながら、負けるつもりはない」

 だからただ、今のこの状況も乗り越えて行くだけだ。シシュは、作られた街の姿が歪み、血と臓腑で彩られた本来の景色に変じていくのを、驚きもせずに見据えた。

 剥き出しであからさまな人間の欲そのもの。自身にも繋がるものを前に、神供は白光を湛える刀を上げた。 サァリの力が、外から向かってくるのを感じる。

「今、帰る」

 もしかしたら、もう泣いてしまっているかもしれない。

 シシュは彼女の様子を想像し、申し訳なさに眉を寄せると―――― 一息で蛇の腹を切り裂いた。


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