第117話 虚無
空気が震える。
轟音さえも聞こえそうな圧倒的な力の濁流に、だが地下の空間はほぼ無音であった。
自分の心臓の音だけを聞くシシュは、白い光の中を駆けていく。
敵は二人。だが彼が相手にするのはヴァスの方だ。ディスティーラは宙に浮いていて捕捉しづらい。そうでなくとも彼女の相手はサァリがするだろう。多対多の戦闘では、時にそれぞれの相性が勝敗を決めるのだ。
シシュは感じ取れる強烈な気配へと刃を打ち込む。
だが、帰って来たものは布を斬ったような曖昧な手応えだ。
「っ!」
「……愚か者」
頭上から降って来たものは、疲労に満ちた声音だった。
自分に向かって伸ばされる手。血にまみれたその手を「見た」シシュは、己の背後、斜め上へと刃を振るった。
だがディスティーラはそこまでを予感していたように、宙を蹴って更に上へと逃れる。
先程シシュが斬ったものは、彼女が囮として脱ぎ捨てていた着物だったのだろう。薄紅の襦袢姿の彼女は満身創痍で、だがそれでも壮絶な笑みを浮かべていた。サァリの攻撃で失ったのか、二本の指が欠けた右手を、ディスティーラはシシュに向ける。
「お前は勘に頼り過ぎだ」
ぶぅん、と耳元で羽音が鳴る。
いつかの悪夢が蘇り、背筋がぞっと戦慄した。
一秒にも満たぬ間。反射的に刀を上げたシシュの左肩が、だが何かに殴打される。
骨の砕ける音が聞こえ―――― 激痛が遅れてやって来た。判断を鈍らせる苦痛に、シシュは歯を食いしばると一歩踏み込む。何もない宙を、氷刃が空気を凍らせながら切り裂いた。土の上に黒い羽の巨大蛾がぼとりと落ちる。
赤い血がまるまるとした胴から染み出すのを見ずに、シシュはそこで踵を返した。
「サァリーディ!」
この状況で、ヴァスが追撃をかけてこないということは、つまりサァリの方に向かったということだ。
彼女の力は絶大だが、同等以上の力の、それも武器を持った相手には分が悪い。
向こうもそれを承知でぶつかる相手を切り替えたのだろう。シシュの予想通り、後方のサァリーディの前にはいつの間にか黒衣の青年が立っていた。
けれど二人はどちらも微動だにしていない。サァリの放った濁流を避けきれはしなかったのだろう。ヴァスの左腕は肘から下がずたずたで―――― 剣を持っているはずの右腕は見えなかった。
女の乾いた声が聞こえる。
「どうしてそんなことを聞く?」
「さあ? 単なる好奇心です」
そう笑って、ヴァスは振り返った。サァリの腹から素早く剣を抜き、打ち込んできたシシュの刀を受ける。
硬いものがぶつかり合う澄んだ音。血の滴の伝っていく刃をシシュは歯軋りして睨んだ。
「貴様……」
「そう睨まないで欲しいですね。こちらの方が深手ですし」
苦笑するヴァスの左脇腹にはぽっかりと小さな穴が開いている。サァリにやられたのだろう。一方、ヴァスの背後に立ったままの彼女は、昨日と同じ箇所から血を滲ませていた。
みるみる広がっていく血の染み。だが苦痛を感じさせない声で彼女は言う。
「そのまま押さえててね、シシュ」
頷く間もなく、サァリは血濡れた右手をヴァスの背へと突き込んだ。
ほっそりとした五指が心臓を食い破ろうと捻じ込まれる。青年の体が弓なりにびくりと震えた。
―――― けれど次の瞬間、ヴァスを中心に足下から巨大な火柱が立ち昇る。
「あ、あつっ! 熱い!」
「サァリーディ!」
悲鳴を上げて下がる彼女に、ヴァスは振り返って苦笑して見せただけだ。
シシュは彼女への攻撃をさせまいと、自ら火柱の中へ踏みこむ。刀を介して冷気で熱を相殺しつつ、一息でヴァスの胴を薙ごうとした。
しかし相手はそれを、己の剣で受け止める。
「シシュ、下がって! 溶けちゃう!」
さすがに溶けはしない、と思ったが、ここで踏みとどまって戦う意味はない。
シシュは地を蹴って炎の中から抜け出す。それを待っていたように、また重い羽音が二つ、左右から襲いかかってきた。
「っ……!」
「ディスティーラ!」
叫ぶ声はサァリのものだ。シシュの右後方で小さな爆発が起こる。
サァリが蛾の一匹を破裂させたのだろう。シシュは左を振り向くと羽音を頼りに空中を斬った。黒い羽が散っていき、その向こうに赤い襦袢の少女が見える。
―――― ディスティーラは、からからと楽しそうに笑っていた。
美しい、もう一人の神。
その貌に今は翳がない。あるものはただ傾いた空虚だけだ。
シシュは壊れた人形のような少女に、己の無力さを覚える。だが表に出たものは苦い表情だけで、彼は懐から針を抜くと少女目がけて投擲した。
冷気を帯びて飛ぶ針は、暗闇の中を音もなく飛び、ディスティーラの鎖骨の間に突き刺さる。
「っぎぁ……!」
苦悶の声を上げ、少女は空中で体を折った。
僅かな空隙に、シシュは己の現状を確認する。
着物のあちこちは黒く焼け焦げていた。それだけでなく、全身が火傷でじんじんと痛む。彼は砕かれた肩も含め、冷気を繰ってひとまずの痛み止めを施した。背に襲いかかる火の渦を、前を見たまま刀の一閃で切り裂く。
「少しずつ慣れてきた……気がする」
感覚と力が、ようやく己のものとして馴染んできた。
肌身に刺さる実戦の空気のおかげだろう。シシュは刃の氷を一瞥した。炎渦を斬ろうとも溶ける様子のないそれは、彼の集中が乱れていない証拠だ。
シシュは振り返ってサァリを確認する。火柱の中のヴァスと睨みあう彼女は、ちょうど腰の創傷を凍らせて対処したようだった。白い着物はそこだけ、赤い花を凍らせて閉じこめているかのように見える。
サァリは肩にかかる髪を後ろに払うと、深く息を吐いた。ほっそりとした体が地面を離れる。
彼女は同じく宙に浮くディスティーラと、炎の中にいるヴァスを順に眺めた。
銀の睫毛をけぶらせ―――― 己の神供に問う。
「シシュ、どっち?」
端的な確認は、これからの出方を確認するものだ。
このままその場その場に流されては、負けるまで行かずとも長引くことは間違いない。
サァリとディスティーラではサァリの方が格上のようだが、それが即勝敗を決める訳ではないだろう。
だからこそ彼女は、自分より実戦経験が多いシシュへと尋ねた。
判断を委ねられた青年は、ほんの刹那考えると、答を口にする。
「月を」
それを聞くなり、サァリは胸の前に眩い光球を生んだ。火柱の中にいるヴァスに向かって、光の球を打ち出す。
球はみるみるうちに膨れ上がると、炎をものともせず青年に向かった。彼はそれを己の剣で切り裂く。
しかしその時にはもうサァリは、宙を蹴って飛んでいた。ヴァスを越えて白い右腕を振りかぶる。その先に在るぼろぼろのディスティーラが、目を見開いてサァリを見た。
「小娘が……!」
いくつも重なる蛾の羽音。けれどサァリはまったく構う様子を見せない。空を跳躍したまま薄く微笑う。
「そろそろ退場だ、母様」
―――― 広範囲に渡って振り下ろされる無形の力。
逃れる間もなく跳ね飛ばされたディスティーラの体は、毬のように暗い穴の前へと叩きつけられた。青い眼が見開かれ、彼女は残る四肢を広げて喘ぐ。
「ぐ……っぁ……」
肉体の苦痛に、もはや悲鳴を上げることさえ出来ないのだろう。ディスティーラは血を吐いて視線を上げた。
そこには既に、刀を携えた神供が立っている。沈痛な眼差しが少女に注がれた。
人に拒絶された神と、神の為に人を捨てた男。
すれ違い触れ合わぬ道行きに、青年は人間の愚かさを思う。
「―――― もし、貴女に次があるなら」
それ以上を、だがシシュは言わない。
何もかもを分かったようにディスティーラが嘆息して目を閉じると、彼は神殺しの刃をその胸へと突き立てた。
地へと溢れ出す神の血は、流れ出る端から凍りついていった。
シシュ自身が意識した訳ではない。最初から彼女たちを殺す為に作られた刀だ。神の血を不要に広げぬよう自ずから作用するのだろう。
彼は刀を突き立てたまま、サァリの様子を窺おうとする。
しかしその時、背後から飛来した火球が彼の足下に衝突した。たちまち辺りが高い火の壁に囲まれる。
「足止めか……!」
ヴァスが放ったそれは、おそらくサァリとの分断を狙ってのことだ。
みるみる熱されていく周囲に息苦しさを覚えて、シシュは刀を抜いた。炎壁を切り裂こうとして―――― だが、予感を覚える。
昏い。
べったりと纏わりつくもの。
渇えて貪欲な、際限を知らない欲。
長く相対してきたもので、彼自身よく知るもの。
それが今、背後で頭をもたげようとしていた。
「まさか……」
人であった頃を思い出させる戦慄が、シシュの背筋を滑り落ちる。
それは右腕の痛みを呼び起こしたが、錯覚に過ぎないことはすぐに分かった。シシュはほんの僅かな空隙を飲みこむと、炎壁に照らされた足下を見下ろす。
―――― 火が、凍り付いたディスティーラの血を溶かしている。
淫らな艶を含む真紅の血は、まるで引き寄せられるように炎の中へ……その先の穴へと、流れ出していた。
シシュは目を閉じて横たわる少女を見つめる。
「ディスティーラ」
二度目に戦慄を覚えたのは、ヴァスの意図を理解したからだ。
何故、少女を連れてきたのか。
何故、此処を戦場に選んだのか。
何故、炎壁で彼らを隔離したのか。
全ては「今」を導く為の布石だ。
最初からヴァスは、ディスティーラを餌として使うつもりだった。彼女を連れて帰る気など元々なかったのだ。
シシュは覚悟を決めると、氷の刃で炎を斬り捨てる。
熱だけを残し視界が晴れると、その先には暗い大きな穴と―――― そこから頭をもたげた巨大な蛇がいた。
頭だけで人の背の三倍はある巨体は、在るだけでその場の空気をじっとりと圧していた。
黒い輪郭が時折ゆらりとぶれる。
化生に特有の赤い双眼は、だが昏すぎて闇色に近い。
蛇はじっとシシュを見たまま、大きな頤を開いた。濡れて光る白い牙と真紅の下、その先には地の底へと続く虚ろが見える。
ディスティーラの血を啜ったのであろう舌が震え、音なき声が響いた。
『神供よ』
無の風が、飽くなき虚ろから吹き付ける。
この地の深きに根差したもの、人の欲に蝕まれた神が嗤った。
『確かに、白月を受け取ろう』
貪婪な舌が蠢く。
限界まで開かれる顎を前に、シシュは刀を振るった。彼ごとディスティーラに食らいつこうとする牙の一本を、氷の刃が叩き割る。
「シシュ……っ!」
サァリの悲鳴が聞こえる。
だがそれも、すぐに遠ざかる。何も見えなくなる。音さえも失われる。
闇に閉ざされ腹に落ちていく中、精神をも溶かす虚無で―――― シシュはただ左腕を伸ばすと、咀嚼される少女の手を握った。
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