第116話 硬氷


 白い陽の光が、門へと続く石畳を酷薄に照ら出している。

 アイリーデの《北》の正統、月白。

 昼に眠る妓館の門前に立つ来訪者二人は、玄関先に現れたシシュとサァリを見ても驚く素振り一つ面に出さなかった。

 黒い洋装姿のヴァスが、近づいてくるシシュに呆れを含んだ視線を投げる。

「着物ですか。珍しいですね」

「着替えを取りに帰っていないだけだ」

「見れば分かります」

 それは服装のことか、それとも存在のことなのか。

 シシュの半歩後ろをついてくるサァリが、門前に立つもう一人、紅い着物を来た少女を睨んだ。

「よくも此処に顔を出せたものだ。その男と一緒にいるのはどういうつもりだ、ディスティーラ」

 問われた少女は、薄青い眼を気だるげに二人へと向ける。

 人形を思わせる小さな顔は、以前のディスティーラのものとはまるで違う。体自体、生身であり、その造作はいつか二人の前に現れた刺客の少女と同じであった。

 ディスティーラは、問うてきたサァリではなくシシュへと返す。

「結局その女に殉じたか。人の生を全うすれば苦しまずに済んだものを」

「そういう性分なんですよ、彼は」

 諭すような口ぶりで言うヴァスは、元の彼と歪に似通っていた。

 シシュはそのことに苦みを含んだ懐かしさを覚え、憤りをもまた覚える。彼の内心を読みとったかのように、サァリの手がそっと右腕に触れた。温かく感じるその指先に、彼は幾許か落ち着きを取り戻す。



 二人は月白の門をすぐ前にして足を止めた。対峙する二柱に向けて、サァリは煩わしげに眉を上げる。

「……ここで?」

「別にそれでもこちらは構いませんが。あなたは困るでしょう。場所を変えましょうか」

 ヴァスはそう言って、軽く右手を上げた。

 ―――― 同時に辺りの景色が変わる。

 明るい日の光が消え、辺りが暗い闇の中へと閉ざされた。

 淀んだ空気と湿った土の匂い。足下の感触は乾いて硬い。おそらくはかなりの広さがある空間だろう。

 訝しさを覚えるシシュの隣で、サァリがぱんと両手を叩いた。呼応してあちこちで上がる光の飛沫が、暗闇を仄明るく照らし出す。

「ここは……」

 剥き出しの土と石壁に囲まれた場所は、かつてシシュも訪れたこともある場所だ。

 アイリーデのとある貴族が、多くの化生を囲っていた忌まわしき地下室。事件後に封鎖されたはずのそこを、シシュは見回した。覚えのある大穴を奥に見つけて、彼は一層警戒する。

「蛇を引き込んだか……」

「いえ。単に近くに都合のよい場所があったので、そこを選んだだけのことですよ。穴の中は空っぽです」

 あっさりとした返答を即信じる気にはなれないが、はっきりとした蛇の気配を感じないことは事実だ。

 化生を思わせる陰の空気が濃いのは、今のアイリーデで地下にあることと、以前の事件から言って無理からぬことだろう。サァリの神性を叩き起こすことになった一件の後、この広い地下室はほとんどそのままに封印されたと聞く。迂闊に調べたり人の手を入れて、その人間が悪影響を受けることを嫌ったのだろう。


 シシュは、化生たちがいないことを除けば当時のままの景色に、感慨よりも不快感を覚える。

 サァリが冷やかな目を二人に向けた。

「墓場を自ら選ぶとは殊勝だな。―――― 二度とこの街に関われぬようにしてやる」

「やれるものならご自由に。もっとも、巻き添えになる彼はいい迷惑でしょうが」

「迷惑と思ったことはない」

 シシュは一歩前に踏み出した。それと共に神殺しの刀を抜く。澄んだ銀色の刃は月光そのもので、体の芯にりんと共鳴するものを感じた。

 呼応するようにヴァスもまた直刃の剣を抜く。真紅に染まっていく双眸が、秀麗な造作を歪なものに見せた。従兄の変わり果てた姿に、サァリが憤りを押し殺すのが気配で分かる。



 口火を切ったのはディスティーラだった。

「早く来い。男に頼らねば戦うことも出来ない未熟者が」

「言われなくても」

 短く吐き捨てたのは、術を練る為だろう。両手を広げたサァリを庇ってシシュは刀を上げる。余裕を窺わせるヴァスを見据えて青年は前に出た。

 神殺しの刃が、シシュの手から冷気を吸い上げて銀色に光り始める。

 昨夜まで人間であった青年は、かつて共に戦った相手を前に覚悟を決めると、刀を正面に構えた。

 ヴァスもまた火熱の走る剣を構えて応える。

「いつでもどうぞ。古きもの、《名を持たぬ火陽》がお相手しましょう」

「サァリーディが神供、キリス・ラシシュ・ザク・トルロニアだ。―― 推して参る」




 薄暗い空間を、サァリの生んだ白光が照らし出す。

 砂を鳴らして、シシュは前へと踏みこんだ。

 油断はない。

 躊躇いも今はなかった。

 一息で距離を詰めたシシュは、赤眼の青年へと銀刃を振るう。その体を切り上げようとした刀は、けれど赤熱色の直刃によって受け止められた。

 力と力がぶつかり合い、二人を中心に激しく空気が渦巻く。

 普通の人間であれば弾き飛ばされてしまったであろう圧力を、シシュは軽く眉を顰めただけで受け流した。着物を越えて肌を焼く熱を感じながら、柄を捻り相手の刃を左へ流す。

 ―――― 半歩、右にずれる。

 サァリの放った光が、空気を凍らせながら走り、彼の左肩を掠めた。

 真っ直ぐにヴァスを貫こうとする月光は、けれど寸前で別の白光とぶつかり合う。

「小娘が。そんなものか?」

「煩い」

 宙に浮かぶディスティーラの嘲りに対し、サァリの返答はそっけないものだ。

 だがすぐに言葉以上の変化が現れる。ヴァスの斜め後方に浮かぶディスティーラ。その左足の膝から下が、前触れもなく厚い氷塊に覆われたのだ。

 サァリは驚く少女を指差して命じる。


「砕けろ」


 きん、と、澄んだ音が一つだけ聞こえた。

 次の瞬間、水晶に似た氷塊が少女の脚ごと赤い着物を食らい、粉々に砕け散る。

「っぁぁぁああ!!」

 苦悶の悲鳴が上がり、鮮血が土の上に滴った。

 けれどそれは、足一本をもぎ取ったにしては少なすぎる量だ。傷口自体も瞬く間に凍り付いた為、止血されたのだろう。

 サァリは可憐な口元を微笑ませて少女に問う。

「次は何処にする?」

「……小娘」

 ディスティーラの歯軋りが、シシュの耳にまで聞こえた気がした。

 青年は、剣を以て相対している神へと問う。

「サァリーディの代わりとは彼女のことか」

「ええ、まあ。正確には代わりというより《同じ》ですが」

「同じな訳が―――― 」

 反論を口にしきる前に、シシュは後ろへ跳んだ。刃の背を左手で支えながら意識を集める。刀自体が氷風を纏い、シシュはそれでもって吹き付ける熱風を相殺した。直刃に螺旋の炎を纏わりつかせたヴァスが皮肉げに笑う。

「同じですよ。私たちはそれぞれ、本来唯一無二の存在なんです。同じものが二つなんてありえない。―――― だから彼女たちも一つでなければならないんですよ。勿論、彼女に変えられたあなたもです」

「それで、彼女と同じ存在が全て失われたらどうするんだ」

「さあ? 穴が開いたままになるのかもしれませんね」

 何も考えていないような返答だ。

 シシュは油断なく体勢を整えながら、己の予想が正しいことを悟る。

 つまりヴァスの人格を塗りつぶした神は、自分の妹神が失われることをはなから考えていないのだ。サァリとシシュを殺して、ディスティーラを連れ帰ろうと思っている。



 ―――― どう足掻いても避けては通れない敵だ。

 ならば今、勝負をつけるしかない。

 シシュは相反する属性を持つ青年に、慎重さを意識しながら問うた。

「お前の本体は呼ばずともいいのか? あの金色の狼を」

「私がそうですよ。前の人間の時は脆弱な精神だったので、あくまで固着点としての依代でしたが、こちらの人間は彼女の血縁でしたからね。ちょうどあの時は彼女の力を借り受けていましたし、混じる切っかけとしては十分です」

「……そうか」

 ヴァスが狼から庇ってくれた時のことを、シシュはまざまざと思い出す。

 あの時、自分たちの道は分かたれたのだ。もし時間を戻せるのなら、どれ程の苦痛を味わおうとどちらも犠牲にならない道を選ぶだろう。

 だが、現実を変えることは出来ない。そして、あの金色の狼が混ざっているのなら、目の前の彼を倒せば終わるのだ。

 シシュは息を深く吸い込んで止める。

 そうして目の高さに柄を上げると、左手を刃の根本に添えた。息を吐きながら、左手を刃先へと滑らせる。彼の指が離れる端から、刃が硬い氷で包まれていくのを、ヴァスは面のような笑顔で見ていた。

 薄く、だが何によっても砕けることのない氷の刃が完成する。

 触れたもの全てを切断するであろうそれを、シシュは改めてヴァスへと向けた。変質したことで散っていきそうな精神を、人であった頃を思い出し研ぎ澄ませる。



 相手の間合いまでは、これまでであれば二足。

 だが今ならば一足もかからないだろう。シシュは己を全て一振りの刀として意識すると、時を待った。

 ―――― たん、と小さくサァリの足音が聞こえる。

 それと同時にシシュは地を蹴った。氷雪を巻き起こし、人には見えぬ速度で刃を振るう。

 ヴァスの左肩口へと振りかかる斬撃。そしてそれ以外の場所には、サァリの放つ礫が襲いかかった。

 逃げ場を周到に塞いだ攻撃。ヴァスが忌々しげな表情で、剣を横にして防ぐ。サァリの礫はともかく、シシュの攻撃は避けられないと判断したのだろう。炎風を帯びた剣に、シシュは構わず己の刀を打ち込んだ。たちまち白い水蒸気が視界を埋め尽くす。

「シシュ!」

 その声が聞こえた時には既に、彼は刀を引いて左に跳んでいた。

 濃い靄の中から、鋭い氷柱がいくつも地面へと突き刺さる。彼の体に穴を開けようとする明確な殺意に、だがシシュは何を感じる余裕もなかった。追ってくる炎を刃で払いながら、後ろにいたサァリの腰を抱いて更に距離を取る。右肩を氷柱の一本が掠め、サァリが腕の中で何かをするのが分かった。煙の向こうからヴァスの舌打ちが聞こえる。

「シシュ、大丈夫?」

「ああ」

「じゃあ反転」

 地面に下ろされた小さな爪先が、土を蹴る。

 ディスティーラの悲鳴が聞こえ、それを追うように地割れが走った。

 サァリを離したシシュは自身も駆け出す。背後から閃光が幾筋も放たれ、ディスティーラとヴァスのいるであろう場所へと叩き込まれた。


 神を相手にしての、制限のない本気。

 それでも地下室が崩落しないように気は使っているのだろう。

 サァリの宣告が冷淡に響く。

「肉体を得たことを後悔しろ。千々に斬り分けて灼き尽くしてやる」

 慈悲を持たない神。

 アイリーデに座し続けた女は、そうして己の神供を覆うように、地下室全てを白光で焼いた。

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